パンチの独り言

(2013年5月27日〜6月2日)
(豪語、嘘吐き、親切、差異、識別、天恵、半減期)



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6月2日(日)−半減期

 安心の証となる情報が届けられる。様々な形で分析が為され、これまでの知識と比較することで、状況を正しく把握する。専門家と呼ばれる人々が総動員され、現時点での最上のものとの評価も付け加えられる。これで大丈夫、となる筈なのだが、頑な人々には、折角の朗報が届きそうにも無い。何故だろうか。
 直後の恐怖や不安に戦く声が、時間の経過と共に、徐々に小さくなって来た。不安の対象が半減期という性質をもつのと同じように、こちらにもまるで半減期があるかの如く、急激な減少が続いて来た。前者のそれが30年程なのに対し、こちらはまだ2年余りしか経っていないのに、世間の興味は失われ続けている。日々の興味の移り変わりは、こんな事象に対しても当てはまり、噂と同様に口の端に上らなくなる。だが、半減期の性質には大切なものがもう一つある。ある程度の減少の後は、殆ど減らない時期が続くのだ。半分、半分と減らしても、無くならないのは、アキレスと亀の競争に似たと思う人が居るかも知れないが、この競争では時間も短くなる。半減期は時間は変わらず、減る勢いが半分、半分になり続けるのだ。では、興味の半減期の何処にそんな性質があるのか。興味本位の人々はいつの間にか姿が見えなくなるのに対し、不安を口に出し、独自の理論を展開させて、自らの正当性を主張する人々は、始めに取り上げた頑な人々と同じに、安心の証に拒絶反応を示す。その数は、最後に残った人が居なくなるまで、ゆっくりとしか減らないように思える。科学が産み出した技術の犠牲になった人々にとって、科学に基づく分析は、被害をもたらすものとしか映らない。客観的な分析と保証しても、自らの持つ主観は曲げられない。その数も、徐々に減って行くのだろうが、その死を迎えるまでは無くならない。あの発電形式への反対者が、ずっと残っていたのもその証だろうし、その主宰者が亡くなっても、跡を継ぐ人が現れるのも、何処か似た感じがある。一方、客観は主観の集まりだが、全てでなくても、大多数で成立する。少数派は常に誤り、ではないが、論理には、通る通らないがあるのではないか。

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6月1日(土)−天恵

 季節の移り変わりを楽しめる国、そこに生まれ育ち、住み続ける人にとって、珍しいことは何も無い。しかし、何の変化も無い国の人々から見れば、全く違ったものとなる。楽しむかどうかは人次第だが、この恵みを受けることで日々の心配が減るだけでなく、心豊かに暮らすことができる。決して、当然のことではない。
 変化を楽しむには、いつの季節も変わりないものだろうが、これから、気分的には鬱陶しい季節が始まる。例年に比べ、早過ぎる程の始まりに、既に気分が落ち込む人も居るだろうが、これからの展開は、いつものように読めない。早く始まったから、早く終わるのか、はたまた、終わりは長引くのか、当てにならぬ長期予報には、誰も頼らないと思うが、どうなるのだろう。体調に不安を抱く人の中には、この季節に様々な故障を感じる人が居る。単に気分的なものだけでなく、関節や内蔵に異常を来すこととなるが、湿度の高さや気温の上下が様々に影響すると言われる。毎年訪れるものだけに、何となく予感がしてくる訳で、それも手伝って憂鬱が増すのだろう。だが、命を長らえるのに必要不可欠な水の源に、この季節が重要なものの一つとなる。豊かな国の理由がここにあることに、反対する人は少ないだろうが、大雪、台風と共に、水源確保に大きな役割を果たす。それぞれに有り難さだけでなく、迷惑や被害も大きいものの、これらのおかげで十分な水量が確保できる。確かに、科学技術の進歩により、水の確保も様々な形で実現し始めている。しかし、それが例の如くの歪みを産み出すことを見ると、自然の恵みだけで手に入れられる幸せを、もっと真剣に受け止めた方がよさそうだ。そんなことを言っても、結局は、天からの恵みに、何の有り難味を感じない人が多いのだが。

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5月31日(金)−識別

 事実と意見の区別はどうしたら良いのだろうか。そんなことを何故悩まねばならないのか、という意見が聞こえてきそうだが、最近の情報に振り回される人々を眺めると、何の区別も無く、情報を鵜呑みにする行動が目立ち、危うさが気になるのだ。それが同じ情報網に乗り、連鎖反応で広がると、社会全体の危機にも見えてくる。
 ここで書いていることの多くは、事実ではなく、意見に過ぎない。ある程度の事実を参考に、そこから導き出せるものを伝えているつもりなのだ。新聞などの社説や論説も、多くは事実に基づくものの、それぞれの思いを展開させるものとなる。だが、ニュースと呼ばれるものは、事実を情報としてそのままに伝えるものでなければならない。映像を介したものでも、文字や音声のみで伝えるものでも、そこにあるのは事実だけであり、誰かの意見が入ってはいけないのだ。にも拘らず、今の風潮は、意見を入れることが当然のようになっている。この原因として考えられるのは、海の向こうのテレビニュースの編集方針であり、それを模倣してこちらで制作されたものが、確固たる地位を占めたことによる。あの人々に注目が集まった後、意見を付け加えることが、分かり易さを増す手立てとして認められ、いつの間にか、事実そのものよりも、個人の解釈の方が優先されることとなった。こうなると、事実と意見の混同は著しくなり、何処までが事実で、何処からが意見なのかの区別は、はっきりしなくなる。伝聞を事実として報じたり、推測を事実の如く伝えるのは、その典型と思えるが、その区別は受け手に委ねられている。判断力や識別能力の重要性は、こんな所にも出てくるけれど、身につけていない人の数は相変わらずで、分かり易さが優先された頃から、今の状況は見通せたのではないだろうか。難しいとは言え、そのまま放置しておけない話だけに、何とかしなければならない。学校で教えるべきという指摘は下らないものと思え、まずは、家族で何かした方がよさそうだ。

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5月30日(木)−差異

 不安が急速に膨らみ始めた。途端に、あたふた走り回る人が出て、何処に向かおうとしているのか、さっぱり解らない状態に陥る。にしても、ちょっと前までイケイケ状態だったのに、何故、これ程の豹変ぶりを示すのか。結局、同じことの繰り返しに、同じ過ちを繰り返すのが、人間の性だからだろうか。
 安全安心の必要を、必死に訴える人々が、好転の兆しが見えた途端に、群がり始めるのは、その気持ちの現れだろうか。しかし、確実なものがある筈も無いことに、いつまでも気付かぬ人々が、安心を感じることなど、有り得ないのではないか。逆の目が出始めると、すぐに不安が大きくなる。当然の反応とも言えるだろうが、不安と安心の行ったり来たりに、それぞれへの備えを考えることに、もっと時間を割いたらどうかと思う。これは何も、社会全体で、そんな準備をすべきという意味では、決して無い。気分が揺れ動く人々に対して、社会が一々対応する必要は無く、個人の範疇で片付けるべきという意味だ。指標が悪化していたとしても、依然として安心を感じる人は多く、それを自信と見る向きも、過信と見る向きもある。だが、心の安定を手に入れられず、真の意味での不安を抱き続ける人々は、様々な障害に襲われる。それを避ける為の手立てとして、安心を感じ易くする思考回路を持つ人々にとって、少々の変動は無視できる。だからといって、大きな変化に対応できない訳ではなく、そちらにはそれなりの対応ができる。却って、不安を度々口にする人ほど、本当の危険性に対して鈍感な場合が多く、普段と変わらぬ不安を口にするだけとなる。結果として、命の危険にさえ曝される状況に陥り、動きがとれなくなる。様々なことに注意を払い、その違いに目を向けることは、自らの身を守る為に、重要な要素の一つとなるが、同じ反応を繰り返す人々は、違いに気付かぬことが多い。変化もそれぞれに違いがあり、それを見出すことで、安心を手に入れることもできる。できない人にはできないことだろうが。

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5月29日(水)−親切

 優しい社会が望まれているという。他人に優しくすることで、自分も優しくされる、ということなのか、どうもはっきりしない。その上、優しいという言葉の意味自体に、人それぞれの感覚が反映され、どんな結果が望まれているのか、不明確なことが多い。そんな状況では、一体全体、何をすべきか見えないのではないか。
 田舎の干渉社会を嫌い、大都会に憧れた人が、昔は沢山居た。ところが、それが当然と思われた時代には、無関心な社会に対する不満が漏れ始めた。孤独死が問題視され、社会から弾き出された存在として、悲劇の主人公のような扱いが急激に増えた。社会という観点からすれば、個人はその構成員であり、他との交わりが基本とされるが、実態はそうなっていなかったからだろう。だが、干渉社会から逃げ出し、隣人が誰であるかにさえ関心を抱かない土地に移った人々に、社会の一員としての意識はあったのだろうか。家族との絆さえ断ち切り、一人きりの世界を夢見た人々が、全て悲劇に見舞われた訳ではない。別の社会を見出し、そこに悦びを感じることで、満足得た人も沢山居るだろう。だが、情報の偏りはこんな所にも現れる。幸福には関心を抱かず、他人の不幸こそが蜜の味と、群がる人々が居る。人が死ぬ度に、そんな話題を引っ張り出し、悲劇を演出するのは、彼らの勝手には違いないが、それが社会の責任であり、意味不明な制度を設けたり、強いる動きが高まるのには、異常さしか感じられない。個人の自由が優先され、それを最大限に受け入れた上で、それが招いた不幸にも、手を差し延べるのが、真の優しさとの解釈は、個人の範囲では許されることだが、社会全体に押し付けられると、話は難しくなる。自由と責任という考えが、ここで出されて当然との見方もあるが、優しさ優先の人々には、そんな考えは微塵も無い。皆が幸せになる社会は、確かに理想だろうが、自分の意志で逃げ出す人々にまで、となると、どうかと思える。

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5月28日(火)−嘘吐き

 嘘もばれなければ問題ない、と思うのは当然だろうか。詐欺師の殆どがその気持ちで犯罪を重ねるが、何の罪も無いと信じる人の多くも、何かしらの嘘を抱えている。生きる為の知恵もあれば、方便もあり、時には、意図的に重ねることも多い。だが、それが発覚した時に、責任を逃れようとするのは、どうか。
 禁じられたことをやる度に、嘘を繰り返す子供が居る。あれこれと言い訳を連ねるが、親によっては、言語道断、聞く耳持たぬという態度をとる。最近は、その手法は誤りと指摘されることも多いが、自分中心の考えしか持てない子供にとって、頭ごなしに禁じられることの方が、受け入れられるのではないか。大人の考え方を、そのままに子供に映し出すのは、道理のように見る向きもあるが、現実には、相手の立場に立つより、自分の立場を優先させた結果でしか無く、育てる為とは言えぬように思う。そうでなくても、長じるに従い、嘘を重ねる機会が増え、それを知恵のように思い込む人が多い。すぐにばれることでも、自分は理由を示したと思えれば、罪の意識は消し飛ぶ。だが、相手の心の中には、小さな蟠りが残り、それが徐々に膨らんでくる。本人は、上手く騙せたと思い込むから、何の反省も無く、次の嘘へと飛びつくが、相手にとっては、同じことの繰り返しにしか見えず、愚の骨頂とさえ見えてくる。こんな話は何処にでもあるから、自分だけではない、と思いたくなる気持ちも解るが、相手は特定でき、信頼を失うことも多い。そこで、責任逃れを持ち出せば、火に油の状況となり、関係修復は不可能となる。社会では、責任を問われることが多く、それをかわす為の知恵が話題となる。しかし、そこに出る前の小社会である教育現場では、それとは違う責任の取り方が選ばれる。学校に居られなくなる、出てこられなくなる、等々、様々な処分が、ある意味一方的に下される。これもまた、最近の風潮では、不当と受け取る向きも出ているようだが。

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5月27日(月)−豪語

 一方的な動きが止まり、激しい上下動に戸惑う人々が居る。そんなことも含め、様々な動きへの対応に、情報を集める人が居る。信用できる情報源から、正確なものを採り込み、そこから未来を見通そうとする。だが、確定的なものを除き、殆どは確率的なものだけに、いつでも通用する確実な見通しなど有り得ない。
 ある企業がこんな事業展開を図っている、などという情報は、意図的に漏らされたものを除けば、噂の域を出ないだろう。それでも、数多ある噂の中から、根も葉も無いものを除いて、確実に思えるものを取り上げ、それを根拠に方針を決める。何もしないよりは、確率を上げられると信じるしかないが、結果は結果であり、確実となるのは結果が出てからでしかない。その中で、収益を上げる人が居る一方で、損ばかりする人が出る。一つの袋の中で取り合うものでは、そんな結果しか得られない。確率の話から、確実の話へ、自分の位置を変えるのも、努力があるかも知れないが、単なる運でしかないのかも。確率だからこそ、それに則した考えをしなければならないのに、確定の考えにしがみつく人々は、どんな世界にも居る。屡々取り上げる放射線の話も、その最たるものであり、確定的に見えた話に飛びつき、しがみついたまま、何も聞こえなくなる人は、他人からは、可哀想にしか見えない。だが、そんな人が仲間を見つけ、互いに頷き合う世界ができ、世の中の無駄が増えたように感じられる。字数制限がかかる世界では、表現力の有無が重要の筈が、同好の士であれば、何でも認め合えるとなるから、確定の世界は怖い。例えば、ある講演会に参加した人が発した『開始早々話し出したのが[スーパーに貼ってある「放射性物質ゼロを目指します」]のpopは「K 40の存在を否定してるので有り得ません!」って豪語した。メチャクチャな洗脳方法に呆れました!』という論理の欠片も無いものも、仲間が取り上げ、より多くの人の目に飛び込むこととなる。拘りは個人の自由だろうが、常軌を逸したものは、無視されるのが常だった。それがいつの間にか、下らぬ繰り返しによる増殖から、理の当然のもののように扱われる。困ったものだ。

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