パンチの独り言

(2013年6月3日〜6月9日)
(解消、打破、慇懃、文勲、警世、外れ、好尚)



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6月9日(日)−好尚

 個人の尊重がこんな風潮を招いたのだろうか。他人の目を気にするにしても、方向が随分と違ってしまったようだが、男装の麗人どころか、むくつけき男が女装をする姿まで、巷で見かけるようになった。趣味の問題との解釈もあるけれど、無視するわけにも行かない人々の苦痛は、どう扱われるのか、個人の自由とは何か。
 確かに、人はそれぞれに主張を持ち、それを周囲に向け発信する自由を持つ。ただ、それも何らかの範囲の中に限られ、公序良俗なる言葉はその状況を表すものとして使われる。笑いさえとれれば良いとの立場から、常軌を逸した行動に出る人間に、倫理や秩序を乱す者として、罰が下されるのは当然だが、そこまでの極端さを示さぬものとして、日常見かけるちょっと変わった人々がいるのだろう。それにしても、百貨店の売り場で見かけた、女子学生の制服を纏った大女には、女と呼ぶには無理があるとの印象があった。三つ編みのお下げの少女、という古い小説の主人公のような風貌も、正面から見た姿には、目を逸らしたくなる雰囲気が漂う。店員は客の扱いに慣れた風で、適当に相手をしていたようだが、颯爽と売り場から立ち去る姿に、曰く言い難い眼差しを向けていた。確かに趣味の問題であり、確かに個人の自由なのだろうが、好奇の眼差しさえ向けられぬ時代は、どこがどうなってしまったのか。その一方で、病的ではなく、本当の病気、と表現すると差別と受け取られかねない状況の、人々が世の中に現れてきた。昔から居たのかも知れないが、心の問題は、その起源とするところにより、様々に解釈されるようだ。微妙な作りとなっている体にとって、何がどう影響するのかは、未だに明らかとはなっていない。そんな中で、生物的な性差とは異なる、別の区別が適用されることで、心の安定が保てるとの解釈は、今や当然のものとなっている。確かに、こうなってしまえば、自分は自分との考えも、適用範囲が広がるのだろう。

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6月8日(土)−外れ

 雨が少ない。この時期に至って、雨の季節との宣言も出されたのに、である。ある程度は予想していたものだろうが、宣言直後から降らない日々が続き、例の如くの批判の雨が降る。覚悟は何処に行ったのか、いつの間にか、前言撤回の声も聞こえる。だが、天気図からは、蛇行する前線に、難しさが感じられる。
 毎年のことだが、入りも明けも、中々に定まらない。時には、後手に回り、数日後に宣言が出される。どれほど技術が進んでも、気紛れな天気の移り変わりに、確定的なことは言えない。そんな中で、後からならば何でも言える立場の人々は、好き勝手なことを言い放ち、書き並べる。水が足らないから心配、という声も、どれほどの深刻さから来るものか、定かではない。大飢饉と名付けられた歴史上の出来事では、異常低温や旱魃にも似た水不足が原因となり、広範囲に渡って農作物が実らぬ事態となった。そんなことを想像しているかは判らないが、今この時期の降雨量が、平年に比べて少ないと報じられる。入ったとの宣言から、雨不足が続くのは、予報に携わる人々にとって、残念な結果に違いないが、水不足に関しては、一時的な括りで判断するのは、どうだろうか。表面に在る水は、確かに減っているのだろうが、地中深くに在る水は、別の経路を辿ってくるもので、天から落ちて来たのも、ずっと昔のことだろう。川の源流を探れば判るように、今そこに降ったものが水の流れになるのではなく、何処からか湧いて来たものが流れを作る。そんなことを考えていると、冬の間の天気はどうだったか、そっちの方へ目を向けないことに、疑問を抱く。もっと長い目で見なくては、色々なことを。

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6月7日(金)−警世

 真夏ではないが、夜の夢から覚めようとしているのか、それともこれこそが現実なのか、目の前に現れた急変に、歓迎するものへの反応から、正反対なものに対して、どうすべきなのか見えてこない。一時の狂騒から、裏切りにも似た変動へと、勝手な期待を抱いた人々は、戸惑い、喘ぎ、諦めるのだろうか。
 上向きの変化が起き始めた頃、それを政策の効果と結びつける風潮が出て来た。元々、心理効果が最大要素と見なされる世界では、それに結びつくきっかけを分析し、それらを並べることで、その変化が幻ではなく、実体を伴うものであるように扱う。そんな声が高まる最中、ある経済番組の出演者が、その考え方に異論を唱えた。ただ、踊り狂っている中で、政策の吟味が行われている訳ではなく、調子を合わせているのみとの見解は、市場関係者が総じて突き進む中では、異端と受け取られたようだ。その後、半年近く姿が見えなかったことは、成長が続く中では、当然のことだったのだろう。市場の反応などというものは、事程左様に、不可思議なものに違いない。何を根拠に変動するのか、様々な分析が為される度に、的に当てるというより、掘り出しているといった感覚を抱くのも、そんな背景によるものだろう。急速な上昇の後、一気に下落に襲われた時、皆の疑いの目が、肝心の政策に向けられることとなった。夢に終わるとすれば、そこに確実なものは現れず、風船を膨らませたのは、実体が見えぬ空気のようなものとなる。そろそろ、馬脚を露わしたか、と思われた頃、件の人物が顔を出し、これまでの経過に彼なりの分析を施す。主張は何ら変わらず、肝心なものの欠落に、厳しい批判が浴びせられる。演出効果を狙ったかは定かでないが、これ以前に批判しても、踊り狂う人に届かぬ声が、冷や水を浴びせられた後には、耳を傾ける対象となるのかも知れない。既に、目が覚めた人々は、また、何も聞かないだけになるのか。

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6月6日(木)−文勲

 上に立つ者の心得とは何か。立つ機会が無いからと、溜息を漏らすのも一つだろうが、下から見上げるにしても、どうあって欲しいとの思いはあるのではないか。手柄を独り占めにする人に、良い評判が広がらないのが当然だったのに、ここでもまた、海の向こうの悪弊が広がり、目立とうとする人が増えているようだ。
 最終決定を担う人が、最終責任を負うのは当然で、だからこそ、手柄の独り占めも、という考え方に納得する人も居るだろうが、組織を考えに入れると、一人だけで全てをさらうのは、どうだろう。自動車産業が斜陽となり、企業理念が揺らいでいた時代、ある経営者に全てを託したのが、三大企業のうちの一つだったが、業績回復が見られぬままに、退任することとなった。既に、かなりの高額収入に対し、批判が高まっていた中で、驚愕の退職金を自ら決めたことに、批判は頂点に達していた。上手く行こうが行くまいが、自分のできることは全てしたとの評価は、期待を裏切る結果だけに、受け入れ難いものとなった訳だ。この頃、独り占めに対する批判は、あちらでもかなり高まったのだが、国の歴史として、一部の指導者に依存する体質は、好景気が戻るに従い、あって当然との見方へと戻って行った。こちらでも目立ちたがりが世に憚る時代となり、手柄を殊更に掲げる姿勢が、当たり前となった。そんな中では、経済成長を約束する政策が、功を奏したかのように映ったことも、自らの手柄とする態度に、持ち上げる声も加わって、異常とも思える上昇が続いた。しかし、不安が無くなった訳でもなく、心理効果のみの影響では、不安定な変動へと移行するのも、やむを得ない。だからこそ、成長を確実にする為の方策を、と小出しにされたものも、遂に最終版となり、実体が見えぬものへの落胆が、別の心理へと繋がったのだろう。今どうすべきなのか、という関心に対し、10年後の話を出せば、どんな反応が返るか、誰にでも判ることではないか。浮かれ易い性格のせいか、まだ舞い上がっているように見えるけれど、あの時の一気の幕引きから判るように、落ち込みに弱いことが明らかと思える。悪い方の責任を、どう背負うのかが、上に立つ者の務めなのに。

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6月5日(水)−慇懃

 子供たちにとっての小社会は、大きな社会の縮図とも言われる。そこで問題になることは、大きな世界でも起きる話と見なされるのだ。だから、苛めが大きく取り上げられ、解決が図られていた頃、ハラスメントという名の別物が社会で話題を集め始めた。今は、体罰が注目を集めているが、次は何が起きるのか。
 小さな社会を眺めていて、最近特に、不思議に思えることがある。大人が子供に物事を教えることが、この社会の役割であることに、異論を唱える人は居ない。より大きな社会への階段を上がる為に、様々なことを学ぶ必要があり、それを進める為の場が作られた。昔は、子供に教えてやるとか、勉強させるとか、そんな言葉で表されたものが、今は、子供に教えてあげるとか、勉強して貰うとか、何やら怪しげな表現が飛び交い、人格を尊重することと、大人と子供の違いを意識させることが、混同された挙げ句に、自己防衛を目的とした馬鹿丁寧な表現が目立つ。対等な立場のように扱えば、尊重することになるというのも、狂った考えに思えるし、丁寧な言葉を使えば、言うことを聞かせられるというのも、下らない考えだろう。して下さいと指示するのは、命令ではなく、お願いなのだから、そんなものを聞かなくても良いこととなる。しなさいとかしろという表現が使われなくなったのは、どんな事情によるものか判らないが、勝手な子供たちを誘導する為に、何が必要なのか、もう一度考えた方が良いと思う。叱られることが成長に繋がるとは言わないが、間違ったこと、悪いことをして、お願いされたとしても、何にもならないのではないか。躾も最近は様変わりしたと言われる。そんな中では、不用意な言葉遣いは、批判の対象となるのだろうが、何を優先すべきか、考えるべきと思う。子供だからと言う一方で、同等に扱うことは、何かが違っている気がする。

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6月4日(火)−打破

 教えることが商売の一つと見なされるようになってから、効果は上がっているかも知れない。数値が保証する、という意味では、偏差値が上がったとか、合格率が上昇したとか、そんな話題が中心となる。だが、その一方で、能力という数値に置き換えられぬ指標については、低下が続いていると伝えられる。
 何がどう変わって来たのか。何度も書いて来たように、傾向と対策という観点からは、訓練の効果が出ているのだろう。しかし、何事に対しても取り組める力については、訓練のしようがないことから、放っておかれているようだ。どちらにしても、個人の範囲内での対応が、肝心になるのだろうが、片方が傾向と対策という形で、表面的とは言え、解決の手段が見出されたのに対し、もう一方は、蓄積の無い点が大きな要因となる。となれば、助言も大した役にならず、訓練も目標が定まらぬものとなり、暗中模索にしかならない。成果が得られなければ、商売としては成立しない、という考え方が、今の世の中では当然と受け取られるが、果たしてそうなのだろうか。現場主義のように、経験こそが解決への早道と見る向きもあるが、失敗を怖れる風潮の中では、そんな余裕は無くなりつつある。結局、自ら解決の道を見出す為の、機会を与える環境が重要となるのではないか。如何にも、放置しているだけに見えるとしても、それが各自の内から生まれる力を、育むことに繋がれば、それもまた教育となる。教えていないと見えるかも知れないが、手取り足取りをその手法と信じる人にはそうだろう。だが、その考え方自体に誤りがある、との見方からは、全く違った解釈が生まれる。偏った見方は、いつの時代にもあるけれど、能力の偏りは、最適化に繋がっても、壁を打ち破るには、向かないようだ。

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6月3日(月)−解消

 不安の対象は何処にでもある。それらに囲まれた中で、どう安心を築き上げるのか、簡単なことでは無いと言われる。しかし、日常的なものに限って言えば、心配が残ったとしても、それ以外の選択は見出せず、諦めがそれに代わる感覚となる。ところが、一部の人々にとって、外部要因に対しては、全く違った反応が起こる。
 例えば、日々の安全を考えた場合、どんな移動手段が最も適切なのか、確実な答えを示せる人は居ないだろう。どれもが確率の話に繋がり、公共交通ではそれが低いものとなり、大量輸送程低いものとなる傾向がある。となれば、一人での移動が最も危険度が高いことになるが、だからといって、自分の車での移動をやめる人は殆ど居ない。様々な事情がその背景にあるが、ただ面倒だという意見や便利だという別の見方が出てくる場合もある。環境への影響を考えると、個人での移動程大きくなるという話もあり、そちらを気にする人も居る。こちらも大量輸送との関係を眺めると、面白いことが見えてきそうだ。飛行機での移動は、事故率も低く、沢山の人を運べるから、という意見がある一方で、列車での移動を優先する声も大きい。海の向こうでは、大都市間を結ぶ航空路線が、まるで近距離列車の如くの頻度で運行される。車との比較では、環境への影響はそれほど変わらず、時間への効果が優先されるものと見えるが、他の陸上交通ではどうなるか、現時点では対象が無いから、議論のしようがない。それに対し、こちら側は、既に列車による移動が、十分に整備されているから、比較が可能となる。流石に、あちら側程の頻度は無いとは言え、かなりの頻度で航空路線も整備されているが、現時点では、勝負は決しているように思える。それでも、価格との結びつきにおいて、まだ検討の余地があるようで、それぞれに努力が続いているようだ。話を元に戻し、不安の解消への問題は、どんな解決法があるのか。天秤を持ち出す以外にありそうにも無い。いつも傾く要素を持つ人には、何の役にも立たないものだが。

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