子供の数が減り続けていると言われるが、大人の数との比較に基づく話であり、適正な値がどれほどかは明らかではない。小学校で習った時の世界人口が、倍になったのも昔のこと、増え続ける勢いが弱まる気配はない。その中で、食料問題は逼迫し、経済成長も大きな課題となる。では、適正はどこにあるのか。
成長という言葉に、多くの人は良い印象を抱く。資産を殖やすことで、安心を抱く人もいれば、友達の数を増やすことで、満足する若者もいる。増えるという現象は、対象が悪いものでない限り、良い結果を招くに決まっている、と思う訳だ。だが、人の数はどうだろう。この国は、昔習ったことによれば、狭い国土に多くの人が住み、密度の高さは世界でも上位にあった。それでも、住む場所は沢山あり、都市が周辺へと広がるのを眺めて、発展を喜ぶ顔があった。そこには、拡大や成長を当たり前とする考えがあり、人口についても、増えるのが当然と見る向きがあった。隣の国やある宗教の発祥の地と言われる国のような、爆発的な成長は無いものの、じわじわと増え続けることを当たり前と見る人々にとって、子供の数の減少は、不安の種の一つに見えるらしい。相対的なものを見れば、現状は強い偏りを示すから、それもまた別の不安を掻き立てる。でも、と思えるのは、この国の人の数は、どの位が適正なのか、という疑問についてだ。戦後、凄まじい勢いで増えた人の数が、徐々に緩やかな成長へと移行し、現在では減る所までは来ていないものの、減少へと移る段階にあるように見える。様々な問題が生じているのも事実だろうが、変化ばかりに目を奪われて、適正を考えないのは、どうかとも思える。変化が小さくなったのは、ある限界を示し、落ち着き場所を探しているのかもしれない。そうすると、今の状況は、どう見えてくるのだろう。
人材登用が、特別に注目を浴びることとなった。年功序列が当然で、順番通りに繋いでいけば良いと思われた時代、誰がやっても大差なく、それなりの結果を導いていたのが、いつの頃か、より良い結果を出す為には、最適の選択をしなければならない、という考え方が強まり、それが実行に移されると、誰を何時が問題となった。
どこに違いがあるかは、始めの部分では明らかだが、結果の部分では明らかではない。結果を見て初めて判る話を、始めから見通すことは誰にとっても難しいからだ。にも拘わらず、選択が重視され、それが全てを決めるとまで言われる。何とも厳しい時代となったものだ、と思う。だが、現実に起きていることは、そんな厳しさや難しさが棚上げされたのでは、と思えるものが殆どだろう。究極の選択と言われるものは少なく、苦肉の策とか窮余の策と言われる場合が多い。その上、人材としての評価までもが二の次となり、事情ばかりが強調されると、何が肝心なのか見えなくなる。節目を迎えた官僚の世界も、その頂点に立つ人々の交代が告げられているが、中に、意外との表現を超える、考えも及ばぬものがあった。確かに、対外的な方針を匂わせる人事もあるが、件のものには、何時までもまとわりつく、何か特殊な匂いが感じられた。事件に巻き込まれ、冤罪と呼ばれた話題の主は、その後、様々な形で話題を集め、降りかけた階段を上り続けてきた。その結果が、この終着点であるとの解釈は、余りに無謀なものに思え、一方で、適切な人材との解釈も、通じにくく感じられる。元々、年功序列の適例とされる中で、学歴が大きく影響するものと知られてきたものでは、筋から外れた人々は、どれ程優秀かに関わらず、脱落するのが常とされた。そんな慣例をも打ち破る力が、あの事件を端緒として働いたとしたら、それこそ、無謀極まりない話ではないか。
一時的な手当ては功を奏したものの、根本的な解決には程遠い状況だったのだろう。鍍金は、意外な程あっさりと剥がれ落ち、次の動きを待つ態勢に入った。それにしても、市場原理などと持ち上げられるものの、その気紛れな動きには、何が効果を及ぼすのか見えてこない。基礎がしっかりしなければ、という指摘は当然として。
そんな乱高下の中で、興味深いと思えるのは、株価だけでなく、為替の水準も元へ戻りつつあることだろう。元々、異様な程の強さが、様々な方面に影響を及ぼしていたが、そのたがが外れた途端に、株価の急激な上昇が始まった。だからこそ、元に戻るのは当然、と見る向きもあろうが、経済状況が好転せず、国の置かれた状況が悪いままなのに、何故、為替で優位な立場にあるとされるのか。いつものことながら、その答えは全く見えてこない。要するに、一時の上昇は一種のお祭り騒ぎであり、それを見越して、派手な花火を上げたものの、それを継続する形へと変身させるための、基礎の転換が期待外れの結果を招いたということだろう。この先も、不安定な相場が世界中を駆け巡るものと思われるが。果たして。解決への糸口は見出されるのだろうか。浮かれた気分でのお祭り騒ぎを得意とするものの、長期的視点に立った、しっかりと組み上げられた計画については、誰も確実なものを持ち合わせていない。そんな不確実な中で、気紛れなものの相手をすれば、こんな経過を辿るのも当然のことに違いない。改めて、問題の深刻さに気付かされるところだが、だからといって、このまま放置するわけにも行かない。旗ばかりが立てられ、闇雲に振り回されたとしても、一時の狂乱を導くだけで、安定した成長は見込めないようだ。元々、ある程度の高さにまで達してしまったものに、今更成長もないだろうに、という意見もあるくらいだが、現状は、衰退の雰囲気さえ漂うのだから、何とかしなければならない。切り札は、どこに。
貰えるものがあれば何にでも飛び付く、というのは、要求体質とでも言うのだろうか。子供が玩具や菓子を欲しがるように、いつまでも駄々をこねる姿に似て、見苦しい光景に思える。大人になるに従い、貰うためには、何かを与える必要があることに気付く筈だったが、最近の傾向では、大の大人が声高に要求を繰り返すようだ。
なぜ、こんな状況に陥ったかを論じたところで、現状の課題を解決する手立てが見つかる筈もない。当然と思い込む要求を、非常識の一言で切り捨てることこそが、唯一の解決策ではないか。特に、この状況の問題となるのは、要求が一方的であり、欲しがる人は、誰か別の人に与えるという、交換ではないにしても、何かしらの流れが出来る形になっていないことだろう。子供の心を持ち続けたい、と主張した人は、昔も今も変わらずにいるけれど、その意味が大きく変貌したことに、そろそろ気付くべき時が来ているのではないか。庶民と括られる、どちらかと言えば、中層以下の人々が、日々の生活に追われる中で、ささやかな要望を差し出すことは、不思議なことでもないだろうが、要職に就く人々が、理不尽とも思える要求を並べる姿を、恰も当然の如く見せつける報道には、強い憤りを感じる。与えることで手に入れる、という手続が成立せず、ただ奪い取るだけの姿勢となった時、そこに歪みが強まった。損をすることは御免被るという考え方が、それまでの繁栄が弾け飛んだ後で定着してから、得を取るための手立ては、一方的な要求しか思い浮かばなくなったようだ。他の先進国とはかなり違った様相を呈している為に、その存在が際立つ形となっているが、独自の事情が様々に絡み合った状況では、独自の解決策も必要となる。職を失う危険性が極めて低いことも、危機感が芽生えぬ背景となるが、一方で、現状打破の意見は強まるばかりである。この矛盾を解く手段はどこにあるか。
何か変化が起こる度に、その原因を探ろうとする。知りたがりの性癖の表れなのかも知れないが、確かな理由が見つかったとして、何が出来ると言うのだろう。多くの人は、原因が分かれば、対策を講じられると思っているらしいが、歴史の流れを見れば、そんなことは無理難題に過ぎないことが分かりそうなものだ。
歴史の検証では、原因と結果を結びつけ、その流れの中で投じられた一石に、解決の糸口を見出す。的確な対策が重視されるのは、こんなことが行われてきたからだろう。しかし、その流れの中に身を置けば、次々に投じられた数多ある石の殆どが、梨の礫となったことが見えてくる。その場では当然に思えることを、後の時代から覗き見ると、全く異なる観点が使えるのだから、不思議なものだ。投げ捨てられた石には目もくれず、結果を導いたものだけを選び出して、その妥当性を検証する。意図的に行われる手続だけに、結果は始めから見えているのだ。その経験を糧に、人々は今この時に起きつつあることに対しても、対策を見出そうと努力する。全く同じ事が起きれば、通用するかも知れない経験も、少しの違いではまらないパズルのピースの如くになる。そんな遊びでは、必ずはまるものがあるわけだから、それを探す努力をすればいいのだが、人々の体験には確実なものは一つも存在しない。だからこそ、面白みがあるのだと思う人は、最近どんどん数が減り続け、定型のものを好む傾向が強まっている。変化にも、決まり切ったものを選ぶ傾向があり、選択肢があれば、そちらに向く人ばかりとなるだろう。だが、日々起こる変化には、待ったなしで舞い込むものしか無く、選択の時間が与えられることはない。その中で、どう対処するかが肝心となるが、経験があったにしても、無かったにしても、確実な答えを持ち合わせているわけではなく、悪く言えば、場当たり的な対応が精々となる。そんなものと思えばいいのに、原因を探り、対策を講じ、の繰り返しで、疲弊する人々は、何に喜びを見出すのだろう。
大国の傍若無人ぶりには、いつもの通り、呆れを通り越す気持ちが浮かぶ。確かに、力を得て、それを振り回したい気があるのだろうが、弱体化していた時と、あまり変わらぬ心理に首を傾げる。発展途上にあるとされた当時、本人たちは思い通りにならないことに苛立ちを覚え、いつか見返そうと思っていたのでは、と思えてくる。
人の数だけでなく、資金量でも他を圧倒する存在となった今、その力に任せて横車を押そうとすれば、不可能なことはないだろう。それに似た行動を、周辺諸国に対し示す姿には、体は大人でも、心が子供のままの人間とそっくりとも思える印象が浮かぶ。歴史の長さを殊更に主張するのも、現状に対する自信の足りなさの表れと思われるが、当人たちはそれに気付く気配もない。自信満々に臨む態度には、大国としての格は備わっているように見えるが、自己中心的な言動には、何か重要なものが欠けているかの如く感じられる。特に、力を得ても、自信が表面に出せず、そのうちに、力が徐々に減退していった国から見ると、どこが違うのかと思えてくる。だが、違いは明確になっているものの、どちらが正しい道を歩むことになるのかは、今のところはっきりしない。繁栄を築くだけであれば、怖いもの知らずに突き進んでも、何とかなるものなのだろうが、他国との均衡が重要な要素となる時代には、猪突猛進は様々な障害を生じる。国の体制が特殊なだけに、他国の歴史を当てはめることは難しく、常に色眼鏡をかけて見定めなくてはならない。当人たちが気付いているかは定かでなく、今後も分析を続ける必要はあるのだろうが、それにしても、過信にも似た自信に対しては、確かさよりも危うさの方が目につくのではないか。無視できぬ存在となってから、既に様々な危うさが見え隠れしているだけに。
絶海の孤島のような呼称を冠し、その孤立ぶりを表す言い回しが、なぜか、自分たちの中から湧き出してくる。確かに、独自の道を歩み続け、それによって繁栄を謳歌したものが、いつの間にか、追いつかれ、追い越されたと評価され、独自というより、偏狭の如くに扱われるようになる。外からそう見えたとしても、内からは、どうか。
村社会と揶揄されるように、この国の状況は、他の国にはない特異なものとなる。周囲の目を気にすると書けば、悪い状態を表すことになるが、状況判断に長けると書けば、良い状態と見られる。独自の道を歩みながら、周囲との調整を図ることは、容易なことでないだけに、現状が苦しいと見なせるのも、無理もないところだろう。だが、独自の方を何処かに忘れたまま、周囲からの圧力に屈し、様々な要求を呑んでしまったのは、大きな誤りの一つに違いない。市場開放は、自由主義の根幹と聞かされたが、実際には、その裏に蠢く策謀や絡繰りに、なんの思いも馳せなかったのは、素直さの極みだったのだろうか。国それぞれに仕組みを構築し、その中での繁栄を目指すためには、自らに有利に働く仕掛けは、当然のことだろう。それを、自由に反するとの一言で、全て打ち棄ててしまったのは、愚行としか言えないものだ。有利不利の判断に、相手重視の考えが加わっては、誤りを犯すのも当然となる。今更、以前の状態に戻ることは出来ず、この環境のままに、再び独自路線の開拓を目指すわけだが、どうも、その意欲さえ失われつつあるように映る。孤立ぶりを自省の念を込めつつ表現するのも、そんな気持ちの表れだろうが、この期に及んで、まだ悪い方しか見ない姿勢に、手遅れの感を抱くのは、尚早だろうか。まだ、底力は残っているとの見方も、明るい兆しさへ見えぬ中では、視野が曇り始めている。おそらく、こんな時だからこそ、孤立を覚悟の独自が必要なのではないか。