パンチの独り言

(2013年6月17日〜6月23日)
(見当、育成、応報、本心、空騒ぎ、鉄面皮、刹那)



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6月23日(日)−刹那

 楽しみが奪われた、と訴えたとしても、何のこと、という反応が返って来るだけではないか。記録に残したいという思いを叶える為に、人々が使うのは写真機であろう。発明されてから、200年も経っていないものだが、今や殆ど全ての人の手にある。眼鏡と共に特徴とされたものは、少し姿を変えたようだが。
 変えた姿は、本来の機能に加えられる形で、人々の手に渡った。目撃者が記憶に頼るだけでなく、記録する方法を手に入れたことは、様々な影響を及ぼしたようだ。情報伝達の新たな手法として、色々な人々が記録を手に入れ、他の人々に広げる。始めは重宝がられたものも、その範囲が広がるに従い、余計なもの、間違ったものばかりが増えてきた。その原因は、より多くの人が手にできた点にあるだろうが、更にそれを強めたのは、媒体の違いでは無いだろうか。写真を撮った後の手続きは、昔は、長い時間を必要とした。撮り方にもよるが、ある一定の枚数を撮りきることが先にあり、それが済んで初めて次の段階に進める。そこからも更なる時間が必要となり、専門とする業者に依頼して、現像された写真が手に入る。時に数日を要したもので、ちゃんと撮れたかどうか、楽しみと不安が入り混じる時間を過ごしたものだ。それが、電子媒体を使うことで、撮ったその場で確認できるものへと変貌した。その結果、電子情報の形で流布することが可能となり、記録を流すことが誰でもできるようになった。功罪入り混じったものとも言えるが、便利さはそれと無関係に、利用者の数を増やしてきた。写真機も同じような変遷を辿り、現像の手間が省かれることで、確実さは確かに増しただろう。だが、出来上がりを待つ楽しみは、消えてしまったのではないか。更に、一つ忘れてはならないのは、瞬間の記録にとって、その場で試せても、もう一度は無いことなのだ。

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6月22日(土)−鉄面皮

 知らないから分からない。当然の如くの顔をして、こんなことを呟く若者が増えた。知らないことは恥ではない、という意味は受け入れられるが、分からないとの返事には、困り者との反応しか示せない。傾向と対策に慣れた人々にとって、初めてはいつでも不安がつきまとう。それが分からないとの反応に結びつく。
 中学や高校に通っていた頃、勉強は苦手だったという人は多い。教科書を開いても何が書いてあるか分からず、一人では何もできなかったのではないか。だが、何かの機会に開いてみると、自分だけでもできるような工夫が為されていたことに気づく。常識を身につける為の手段として、初等中等教育がある訳だが、決まりきったことにはこんな工夫が役立ち、子供たちを教え育むこととなる。ところが、ある年齢に達し、そんな手助けが期待できなくなると、人それぞれに自分なりの工夫をしなければならなくなる。同じように集団で教育を受けていたとしても、各人別々の工夫を凝らし、自分なりの理解を進める。高等教育にまで進む人が半数を超えた頃から、個別の工夫を編み出すより、それまで同様に工夫を授けてもらいたいと思う人が増えた。知らなくても分かるように教えて欲しいという願望は、逆に言えば、知らないから分からない、という始めの言葉へと繋がる。学校という囲まれた社会では、まだ何となく、そんな気分でも居られようが、外の社会に出た途端に、甘えを厳しく指摘される。知らなくとも、何かを掴みとり、そこから理解を進めることは、社会では当然のことだろう。始めに書いた人々の多くは、その当然ができないことを、恥とは感じないのかもしれない。甘やかされた環境から、突然厳しくなることに戸惑う人々は、実は成長する機会を失っていたのではないか。施しを待つだけの態度が、その原因としたら、考えを改める必要がある。

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6月21日(金)−空騒ぎ

 旗ふりは失敗したのだろうか。春を始まりとする区切りの制度について、世界標準からのずれを指摘し、適正な形に変更するとの提案は、種々の要因により頓挫してしまった。国内では頂点に君臨するものの、世界水準ではある意味低迷していることに、大胆な施策の必要性を説き、掲げられたものの、引きちぎられたようだ。
 教育機関の水準は、その内容に左右されると言われるが、現実には、学びに来る人間の水準こそが、決め手となる。その為、国内の人材確保のみでは不十分で、外にも供給源を求めるべき、という考え方が、他の国のやり方に合わせる、との結論を導いた。だが、現実には、大多数を占める国内の人々に対する不利益を無視することに他ならず、新機軸により編み出された制度が、多くの矛盾を孕んだものとなり、解消できない問題が立ちはだかることとなった。最高学府の頂点に座る組織が、旗ふりすることに対し、意外なほどに盛り上がらなかった理由には、あるべき姿を見失った提案だったからだろう。社会制度が厳然とある中で、それとの共存を図った制度は、魅力しか掲げなかったにも拘らず、欠陥や矛盾点が次々に指摘された。それでも押し切れば、という勝算があったのかもしれないが、流れを変えることはできなかった。これにより、旧態依然とした社会への不平不満が募るかもしれないが、本務を見失った人々に、その資格があるのだろうか。実は、もう一つの評価基準である、研究水準に関しては、全く別の問題が指摘されている。基盤整備の重要性を謳いながら、それに見合う施策が為されていないことに、不振の原因を指摘する声は多くあるが、改善の兆しは見えない。頂点においてさえ、選択と集中という方針により、基盤が脆弱となったことに、低迷の根拠を求めても良いのではないか。いずれにしても、騒動は空振りに終わったようだ。

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6月20日(木)−本心

 真意が伝わらない、との声が聞こえていたのかどうか。情報伝達にあたる人々は、発言者本人の真意などに目もくれず、いかに衝撃的な内容だったかのみを伝えようとする。その為に、一部を切り取ることは当然の手だてであり、その作為によって生まれる偏りは、やむを得ないものとして片付けられる。
 伝達者としての役割は、正確に伝えることとの解釈は、遠い過去のものとなったようだ。正確さより分かり易さを優先させる風潮は、一見正しい道筋に思えたが、実際には、興味を惹く部分だけを強調し、詳しい説明を省くこととなる。受取手が不安を抱いていれば、それが興味の中心となるから、不安に関わる部分を専ら取り上げる。それが解消へと結びつけば、懇切丁寧な説明より効果的なものとなるだろうが、現実には、正反対の結果が生まれる。不安を更に煽り、誤解を更に強める。そんなことばかり繰り返す人々が、我が物顔で蠢いていても、批判の声は強まること無く、仲間内での同様の行動は、傲慢な考えをも正当化させる。その結果が、真意の喪失と、騒動の拡大を産んだとしても、当人たちの知ったことでは無いのだろう。前言撤回を強いられても、失言はあの職につきものとの解釈が加えられ、いつものこととの説明が付け加えられる。伝達者の無責任と無能ぶりに、自分たちが目を向けることは無く、受取手たちからも何の批判も出ないとなれば、好き勝手な行動は留まる所を知らぬままとなる。まあ、曲解の上に、持論を展開する人が出れば、これも当然のことか。

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6月19日(水)−応報

 何事にも原因を知ろうとする風潮は、何処から始まっているのだろう。これもまた、原因を知ることで、と思われたくはないけれど、別の意味も含めて、その理由を考えてみたい。乱暴な論理と批判されるのを覚悟して、一つの考えを示してみよう。何事にも、他力を中心に据える見方が主体、という考え方だ。
 多くの事柄に原因を求める時、それ自体の中にあるものを挙げることは殆ど無い。その代わりに、外からの力や影響に注目し、それらを原因に据えることが多い。内にあるものは、始めからあるのが当然であり、何かが起きる原因は、そこに加わるものに違いない、という見方だが、始めからそこに向かうのが当然だった場合、原因を他に求めることは間違いではないか。では、何故、そこまでして、外を見ようとするのか。それ自身の問題とするより、他の問題とした方が、それが自分の問題となった時に、気楽となるからではないか。何事も、自分に落ち度は無く、他人の責任にしたい人は多い。となれば、原因を探ると称して、他責を論じる限り、それ自身に責任を負わせることにならず、自分の問題に関しても、同じ手法を適用すれば、自責の念に押し潰されることも、周囲から糾弾を受けることも無く済む。こう考えると、社会全体で、そんなことに躍起になるのも、自衛手段の一つと見なせるのではないか。ただ、全てを他人任せにする風潮では、何かの目標に向かって突き進むことは難しく、手助けばかりを求めることになる。このままでは、尻すぼみになるとの心配も、自分から何かをしようという意欲が無ければ、解消できる見込みは無い。乱暴な論理かもしれないが、そう思いながら眺めてみると、今の風潮は、閉塞の中で、何も切り開けない状況にある、と言えるのではないか。

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6月18日(火)−育成

 仕事を覚える段階は、今は殆ど無視されているのではないか。即戦力を欲する動きは止まることなく、実情を無視する形で、新参者に圧力をかける。社会常識を当然のものとし、最低限のものさえあれば、何でもできるかのように扱われる。だが、現実は正反対で、決まったことさえできぬ人材に、職場の混乱は極まる。
 丁稚奉公は遠い過去のものとなり、下働きさえあまり聞かれなくなった。仕事を覚える為の手だては、こんな言葉が日常的に使われた時代には、時間を設けることで編み出されていた。それがいつの間にか、即座に使えるという要求が突きつけられ、強い圧力がかけられることになった。途中の段階では、先行投資なる表現が使われ、人材育成を手元で行うことがあったが、余裕が無くなるにつれ、その手間や資金を惜しむ声が強まり、優秀な人材の奪い合いへと移っていった。一時的には、表面的には何とかなっているように見えたものの、徐々に積み重なっていった歪みは、全体の能力の低下を招き、個人の能力の低下より、個人間の知識の伝達の欠如が目立つこととなった。下働きの中で、教えられずとも盗むことで、仕事を覚えた人々は、次の世代を育てる時も、隠すこと無く、盗ませていたが、即戦力の時代には、他人に追い抜かれることを恐れるあまり、教えることも、盗まれることもない、全てを隠すのが当たり前となる。個人主義がそれに拍車をかけ、個々の力の集まりは、結集という形をとること無く、あくまでも個別の力の和にしかならない。三本の矢、などという喩えが当てはまること無く、更なる追い打ちは、人を育てる土壌の喪失による、個々の力の低下によってかけられる。このままでは、悪化の一途となるが、どうだろうか。

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6月17日(月)−見当

 先が見通せると思っている一方で、不安を隠せずにいる。不思議な心持ちに思えるが、本人は至って真面目に悩んでいるようだ。多分、傾向と対策を十分に行い、万全の備えをすることで、不安を解消したけれど、予想外のことが起きたときに、どう対処できるのかが、次に出てくる不安の要素なのだろう。
 あまりにも当たり前すぎて、助言のしようも無いといった状況に見えるが、真面目な悩みには、そんな冷たい対応では応えられない。だから、もっと手を差し伸べて、相談に応じたり、起きてもいないことへの対策を編み出す。一見、懇切丁寧な対応に見えるが、実際には、大した効果が得られず、悩みに落ち込む人々は、新たな助けを待ち続ける。こんな現状を眺めて、人々は何も疑問に思わないのだろうか。何故、人々は、何もかも与えられるものと思い込むのか。何故、人々は、未知への取り組みに目を向けないのか。何故、人々は、的確な対策ばかりに心を奪われるのか。そんな疑問は、ごく簡単に湧き出てきそうに思えるが、触れてはならない事柄のように、人々は、そんな現実から目をそらそうとする。決まったことにしか当てはまらない対策は、確実さに強みがあるものの、不確定なものに対して、無力となる。当たり前に見えるのに、何故、安易な選択に走るのだろうか。基礎固めとか、基本に忠実とか、基礎となるものに力を注ぐことに、昔は当然との見方があったが、何時頃からか、何時役に立つかわからないものに、力を注ぐことの無駄に目が向き、それらを切り捨てる風潮が高まった。その結果、グラグラと揺らぐ基礎の上に、危なっかしく、尖ったものを積み上げる手法が、効率が良く、優れたものと見なされるようになった。その後の経過は、今更書くまでもない。

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