パンチの独り言

(2013年6月24日〜6月30日)
(忘れる、注目、歪曲、便利さ、欲求、中立、安定)



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6月30日(日)−安定

 安全を謳って誘致を進める、世界的な事業を実施しようとする人々の話だが、ここで言う安全とは、何を示しているのか。真夜中でも不安を抱かずに町を歩くことができる、との譬え話に、頷く人は多いけれど、他の国はどんな状態なのか、想像できる人は少ない。安全は数字に表せるが、安心はさて?
 犯罪が少ないとか、事故が少ないとか、そんなことを数値で表すことは難しくない。しかし、心の動きを表す、安心については、数字は役に立たないことが多い。更に、事実をそのまま示す数値で表せるものと違い、心の移ろいは激しく、一定の状態が保たれることは少ない。たった一つの犯罪が、心に与える影響は強く、安全という数値は殆ど変化しないのに、皆の安心感は揺らぎ始める。こう書いていると、ごく当然のことと受け取れるが、身の回りに起きている様々なことに当てはめてみると、当然とも言えぬことが多いのではないか。事実無根のことに不安を抱き、安全神話が崩れたと嘆く。安全は数値として確固たる地位を築いているように見えて、人々の心は揺らぎ続け、様々なことに左右される。そこに目論見が蠢くと、人々の揺らぎが強まり、不安定な状態が続く。心の不安は解消されること無く、次々と噴出する心配に、気持ちが落ち着くこと無く、集中力が失われる。こんな取り上げ方をすると、それこそが停滞の原因なのかも、とも思えるが、賛同は得られるだろうか。人々がそれぞれの役割に精を出し、勤勉に働けば、何らかの動きが起きる筈が、心ここに在らずの人々には、期待ができないのも当然か。安全が当然の国では、安心も当たり前で、心の安定は前提となる。筈だが、今の状況は。

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6月29日(土)−中立

 休刊や廃刊になったものもあるとは言え、漫画雑誌の人気はまだかなりあるようだ。それに比べると、一般の週刊誌は電車の中吊りや新聞の広告で見かけるものの、読む人の姿は殆ど見かけなくなった。活字離れが書籍のみに限られず、あらゆる媒体に及んでいることが、こんな所にも現れているのではないか。
 週刊誌の主体となっていた、ゴシップと呼ばれる、所謂噂話は、今や、電子媒体が最も得意とする所となり、わざわざ買いに行かずとも、欲しい時に情報が手に入るようになった。その点から見れば、活字から離れて行った訳ではなく、媒体を変えただけのことだろう。週刊誌に限らず、雑誌と括られる書籍の分野は、衰退の一途を辿っているが、その勢いを強めたのは、電子化の波ではないか。日々の更新どころか、思いついたその時に更新できる媒体は、噂や不確かな話題を取り上げるには、最も適したものなのだろう。すぐに忘れ去られる風潮も、準備に時間を要する媒体にとって、扱いにくさを強める。七十五日も保っていた時代と違い、今や、数日の命の噂は、週刊のものでも取り上げにくいのだろう。そんな環境で、それぞれの雑誌は生き残りをかけている。老舗の雑誌といえども、立場の危うさは限らず、特に、一般ではなく、限定された分野の雑誌は、既に廃刊になったものも多く、生き残っているものは、それぞれに工夫を重ねている。科学雑誌も、学生時代に世話になったものも多くが姿を消し、数えられる程しか残っていない。だが、残っているものも、当時と比べて内容の変化が著しく、政治や思想と無縁だった分野が、いつの間にか深い関係を結んだ如くに、ある方向性をもって編集されている。興味を惹かねば売れないという事情は、こんな所に悪影響を及ぼすが、編集方針がそんな影響を受ける事自体に、現代社会の抱える問題が現れているのではないか。

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6月28日(金)−欲求

 希望を尋ねられれば、次々に口に出す。尋ねられたのだから、その答えを示すことは当然と思う人も居るだろうが、どんな場面の何に関するものか、問うこと無く当然と結論づけるのはどうだろうか。何が欲しいか、と尋ねられたのだから、欲しいものを答えただけ、と思う人は、逆の立場ではどう処すか。
 客と店の立場、と言えば、この辺りの事情は簡単に理解できる。客であれば、要求は当然であり、無理難題も押し通せる。だが、逆に店の立場に自分をおくと、客からの要求に、可能不可能を吟味し、選別を繰り返すこととなる。無理難題には、言い訳も含め、数々の言葉を並べてでも、諦めさせようとする。この心情の違いは、立場の違いからくるものだが、こんなことを書かねばならない程、今の時代は、相手の立場を考えに入れられない人が増えたようだ。要求は高まるばかりで、満足が得られることは決して無い。そんな人々を対象に、様々な方策が講じられても、終着点に達することは無く、次々と噴き出てくる希望に、疲れは増すばかりとなる。少し考えれば分かる筈の、互いの事情の違いについても、目を向けること無く、欲しいものを探しまわる人々が、社会の大きな存在となる。特に、弱者の仮面を被った人々のそんな行動には、意図的な横暴さが溢れ、当然と言いたげな顔には、相手を思いやる気配は全く見えない。そんな社会では、子供も若者も、こんな行動を当たり前と受け取り、劣悪な大人の真似を繰り返す。大人が正しい行動を示すことは、社会では当然のことの筈が、こんな状況に陥ると、全く違った方に向かってしまう。教え育まれるべき子供たちは、まさに弱者の代表のように扱われるが、成長することを課せられる立場では、単純な要求だけでは、それが実現しないことは明白だ。にも拘らず、こんなことが横行しては、将来に明るい兆しが見えないのも、当然なのではないか。

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6月27日(木)−便利さ

 インターネットの利用者は増える一方だが、その仕組みの弱点は中々改善されない。元々、参加者の自由を優先させる仕組みだった為に、管理を強めることは難しいようだが、だからといって、増える一方の参加者に、自らの権利を守る手立ても無く、様々な攻撃にさらされている現状は、改善されそうにない。
 悪意に満ちた仕組みを仕込んだメールを受け取った為に、乗っ取りの対象となってしまった人に、被害者としての意識は無く、普段と同じ調子のままで、ネットへの接続を続けている。それが更なる被害者を産むことに、当人が気づく筈も無いことは、こんな事情からすれば当然と思えるが、この状態を放置しても良いとはならないだろう。自由に動き回れることから、様々なページを覗き回ることも可能だが、それが罠にかかるきっかけになるとは、無垢な人々が思い当たる筈も無い。こんなことの繰り返しにより、被害者を作り続けるのも、便利な仕組みの陰の部分と、諦めに似た声も起きるが、本当にそれで良いのだろうか。何も知らなくても使うことができる、という意味では、便利さの極みのように思えるが、それが悪意に接した途端に、被害者ではなく、実は加害者に豹変することに、もっと目を向けた方がいいのではないか。知らなかったからでは済まされないことが、社会の道徳の基本の筈だが、それが何時からか無視されるようになった。犯罪の匂いとは無縁とはいえ、この独り言を掲げるページも、今この時には、ブラウザによる接続ができない状態にある。多くの人が同じ状態に陥っているから、システム上の問題なのだろうが、利用者の知識ではそれを理解することもできない。管理者の対応を待つのみだが、最近の不安定さからすると、今回も暫くかかることになるのだろう。

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6月26日(水)−歪曲

 褒める為には、その材料を見つけ出さねばならない。欠陥を見つけるのは得意だが、長所はどうも、という人が多い中、その作業に時間をかけることとなる。ただ、目立つ欠点と同じくらいに、良い所があればいいのだが、実際には、そう簡単には見つからない。そこで、悪い所に目をつぶり、となるようだ。
 そんなことをしてまで、人を育てる必要があるのか、との思いを抱く人もいる。自分の実力を見極められず、いつまでも本気を出していないと豪語する、そんな邪魔者が増えるのも、こんな事情があるのではないか。欠点は欠点として厳しく指摘され、それに応えることこそ、成長に繋がる道と思われるが、現実は、正反対のことが行われている。欠点に覆いを被せ、無いのも同然の長所を、高く掲げるやり方では、反省の上の成長は無く、自らの力を測る機会も失いかねない。実は、この方式は、成長を妨げるだけでなく、正しい評価を排除することにこそ、より大きな問題がある。自身の成長を抑えるのは、一人の問題にしかならないが、組織内の評価が難しくなることは、全体の問題となりうる。正当な評価の上で、本人の能力を伸ばすこととなれば、人材登用も功を奏するのだろうが、肝心の評価が甘い中で、能力の無い人間を登用したとなれば、本人の不幸だけでなく、組織全体に歪みが広がる。こんなことが度々起こるのも、評価の正当性が失われつつあるからであり、長所に対する過大な評価に対し、短所には過小評価を下すことで、実力を見誤るだけでなく、将来を担うべき潜在能力をも増大させる傾向がある。その結果、人事異動が様々な問題を生じ、積み重なる歪みは修正不能となる。こんなことが色々な所で起きているのは、誰もが見聞きしているけれど、対策は見えていないようだ。

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6月25日(火)−注目

 震災からの復興が期待通りに進まない、という話が届く。予算の使い方に賛否両論があるのは当然のこととして、何が肝心なのかとの点に、注目が集まる。しかし、人の目が集まれば、様々な方策も講じやすいだろうが、徐々に離れていく注目に、策も尽き始めているのではないか。どうなるのだろうか。
 復興は復旧ではなく、新たな展開を模索すべき、という声は、直後から大きくなっていた。都会での復興事業とは異なり、人の数も少なく、働く場所もあまり無い状態から、何とか脱したいという気持ちの現れだろうが、それまでにも様々に試みられてきたのに対し、復興という手立てが功を奏するとしたら、注目が最大の要素となるのではないか。自分たちの目ではなく、他の地域の人々の目が集まることが重要であり、それによって、例えば観光の芽を育むことになると言われる。確かに、人が集まれば、観光の機会が得られるだろうが、それは注目を浴びている間に限られる。忘れることが常である大衆にとって、いつまで記憶に残り続けるかが肝心となるのでは、早晩見向きもされないことになるのではないか。だからこそ、元に戻すのではなく、この際、違った方に向かうことを望むのだろう。しかし、今までの経過を眺める限り、画期的な展開は見えてこない。遠い存在とは、身近に無いという意味だけでなく、そこに至るまでの道筋が長く、出かけるのに時間が掛かるということだろう。それを克服する為の手立ては、無い訳ではないものの、効果の程と予算の問題が、立ちはだかる。以前の努力が実らなかったのも、同じ理由からと考えると、注目を浴びたからといって、そう簡単に解決できるものではないと、わかるのではないか。

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6月24日(月)−忘れる

 不安を拭い去ることはできない。様々な形で与えられる安心の証も、心の奥底にまで染み入った不安を消し去る程の力は持たない。結局、不安を抱く人々それぞれが、自分の力でそれらを抑え込む必要がある。その一方で、時間という力は、忘却という形で穏やかでない心を、落ち着かせる作用を持つようだ。
 それにしても、一時の騒ぎように比べ、今の状況は大きく変化したのではないか。相も変わらず、不安を煽ることに腐心する人々は、いつも通りの形で自らの存在を誇示し続けるが、反応は芳しくない。興奮しやすい人々も、感情の起伏が激しい為に、一時の興奮状態から、一気に関心を失った状態へと変わり、もっと大きな刺激を求めるが、大事件はそう簡単に続出はしない。となれば、落ち着きを取り戻すというより、別の不安要素に飛びつく訳で、それぞれの事柄から離れてしまうこととなる。気紛れな大衆を相手に、関心を惹こうと躍起になる人々は、論理の飛躍を恐れず、理屈に合わない話にも手を出すが、結局、大衆の心は一所には落ち着かない。不安を買い漁るような形で、気紛れな行動を続けるものの、そこから生まれるものに大したものは無いようだ。一時的に標的とされたものも、移り気のお陰からか、不安を叫ぶ人は忘れ、状況を正しく理解した人々だけが残る。その結果、農産物の流通も、一時の混乱を脱し、再び美味しいものへと関心が集まる。狂気に満ちた人々が関心を失った頃から、様々な場所が落ち着きを取り戻し始めた。汚染状況のポスターに目を向ける人が居ないことも、無関心を問題視するより、落ち着きの証と見るべきかもしれない。減る勢いも徐々に無くなってきたけれど。

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