賢く生きる。安定が当然の時代には、一つ上の生き方に見られるが、的外れなものも多い。自己満足の賢さには、見た目に流されて、本質を見失うことがある。効率は、表面的な特徴として、捉え易いものだが、そればかりに目が奪われ、肝心なものを見抜けぬ人が多い。地道や愚直を嫌う傾向も、賢さを優先する。
経済活動にも賢さは肝心とばかり、人を出し抜く企画が注目されるが、その多くは、短期間のうちに消え去る。一時の流行は、その魅力から始まるものだろうが、長続きしないのは、結局、一時的な効果ばかりで、長期の積み重ねに向かないからだろう。本質の見極めにも、上辺ばかりに目が奪われる中では、あまり目が向けられず、結果的に、流行を追いかけて、右往左往する人々が増えることとなる。彼らの吟味は、特に効率に向けられることが多く、少ない労力で、多くの成果を得られるものに、目が向く。たとえば、販売実績を伸ばす為には、その商品のことを知らせることが肝心と、昔から、広告に力を入れられてきた。紙媒体に広告を差し込み、不特定多数の人を相手に、商品の存在を知らせる。画像や音声でも、同じような形が行われてきたが、一方的な送り込みは、その効果を測る手立てが、販売実績にしかないことが、問題とされてきた。そこに登場したのが、双方向的な情報伝達を可能とした媒体で、それにより、受け手の興味を測ることが可能になったとされた。広告に興味を持った人々は、その中身をより詳しく知ろうと、更に次の段階に進む。その動きが、効果を測る数値として使われている。これが商売として成立するのは、広告の料金が、効果の大きさで決まる仕掛けにある。より多くの興味が集まれば、より高額の広告料を課すわけだ。一見、賢い仕組みに思えるが、そこに悪意が潜む場合、成り立たないものだろう。最近気になっているのは、ある無料のメールを提供するページで、メールを点検しようとする度に、時々広告に飛ぶことがあることで、管理者の作為が感じられる。多くの利用者は、操作の間違いと感じるだろうが、これほどの頻度で起きるとは思えない。何か仕組んでいるとしか思えないが、こんなことをしていると、元も子もなくなることに、気づくべきだろう。
暑い季節が来ると、外出を控える動きが強まる。強い日差しにさらされることで、日焼けになることは、以前は健康に良いとされたが、最近は正反対の意見が殆どだ。高い気温の中で動き回ると、体の恒常性を維持する機能が低下し、熱中症なる症状を呈する。調子が悪いと思った途端に、動きがとれなくなるという。
部屋から外の景色を眺めるのが精々かもしれないが、たまの遠出で車窓の景色を眺めると、自然の草花や庭に植えられた草花に、目が奪われる人も居るのではないか。強い日差しも高い気温もものともせず、鮮やかな色を見せる花々に、あれは何、これは何、と思うこと頻りとなる。グラジオラス、ユリなど、小さな頃からよく見かけたものがある中、濃いオレンジ色の花が蔓のように上に伸びた中に咲く姿が、多くの庭に見える。特に新しいものではないが、見たことはあっても名前までは、といったものの一つかもしれない。ノウゼンカズラという名で、中国原産で平安時代には栽培されていたとあるから、随分と古いものである。ただ、遠くから眺めると気づくけれど、道を歩いていても、通りに面した家のものは、上の方に花が咲いているから、意外に気づかないものかもしれない。野生の花々も、この時期沢山のものが咲いているが、栽培種も庭に咲く姿が見かけられる。無理をしてまで外出する必要は無いが、気温が上がらぬ朝のうちに、ちょっと近所を歩いてみるのも良いのではないか。仕事のことを忘れ、体調の不安を忘れるのに、少しは役立つかもしれない。一方で、そんな余裕を失いつつある人には、鮮やかに色づく花さえ、目に入らないのだろうか。
身の丈に合った生活を、という声が聞こえてくる。分相応な判断への要求に、様々な思いを抱く人が居るが、上を目指すこととの違いが見えていない人が多い。欲しいものへの願望は、上ばかりを眺めているのに、自らの力で切り開くべき対象は、下を見つめ続ける。確実にできる課題にしか手を出さないわけだ。
努力が必要となる話には興味を抱かないが、権利が確定した話には飛びつく。その話が、自分の能力に見合うかどうかではなく、欲望を満足できるかが優先され、その一方で、時間を費やすことは嫌われる。日々の努力を積み重ね、階段を一つ一つ上がるが如くに、上を目指す人生は、いつの間にか、馬鹿げたもののように扱われ、賢く生きる為の手立てが紹介され、その模索が若者たちの課題となりつつある。地道な努力への評価は、愚直なものから愚かなものへと変貌し、即席で効果的な手法の獲得を目指す人が増えている。能力を高めなくとも、簡単にできることで、効果が得られるのなら、誰しも大歓迎となるのだが、現実はそれほど甘くはない。気楽に取り組めるものに飛びつき、疑わしい効果ばかりに目が向くが、結果は当然芳しくはない。このままでは、地力が身に付かないとの心配は、かなり広がっているものの、当事者たちは依然として安直な道を選び続ける。一つで効果が上がらずとも、他に良いものがある筈と、根拠なく信じ続ける人々の考え方には、どんな問題があるのか見えていないようだが、現状を眺めれば、深刻化は間違いないようだ。特に、努力が強いられた時に、異様とも思える反応が出る。上を目指す為の手段を、無理難題と受け取ることに、与える側には違和感が広がる。それでも、当人たちは、上が無いから楽な生活を、となったままで、でも、欲望は膨らみ続ける。何時まで気づかぬままなのか。
したい放題、周囲の国は皆そんな見方をしているのではないか。歴史の長さや嘗ての栄華を、以前にも増して掲げる姿勢にも、強い意図が感じられ、国の現状の仕組みが、昔とは大きく違っていることさえ、意に介していないように見える。如何に長い歴史を誇ろうとも、施政者の交代は、異質の存在の発生でしかない。
こちらの国の事情とて、それほど確かなものではないのかもしれないが、それでも、同じ系統の人間が中枢に座っていたことは間違いではない。今から考えれば、人種の違いにさえ及ぶ交代が、長い歴史を支えてきた所とは、明らかな違いがある。それにしても、勝手気侭な論理を、次々と出して来るのを眺めると、口だけだった時代と違い、経済という力を身に付けたからには、自らの権利を主張するのも当然との考えが、中心に据えられているように見える。その力を行使し、支援という名の下に、影響力を増してきたが、支配には及ばぬうちに、極端な動きに踏み切ったことは、本人たちは兎も角、周囲からは傲慢で身勝手なものとの見方が主となった。周囲の小国にとっては、独立を勝ち取った歴史への思いから、支援が支配へと変わることへの警戒を怠ることはない。如何に利益を得ようかと、軒先を貸したとしても、母屋を乗っ取られることは、あり得ない話だろう。強引なやり方も、世界的な結びつきが強い時代には、成立することは難しい。そんなことは承知の上で、何処まで可能かを調べているだけ、とも思える行状に、批判の声が高まるのは確実だが、出した札が拒絶されても、知らぬ顔して引っ込めることは、あの手の国の得意とする所だ。落とし所を探しているとは、好意的な受け取り方だろうが、見方を変えれば、何処まで無理が通じるかを試しているだけなのだ。
戦後の荒廃から高度成長期まで、今から考えれば、かなり長い期間に渡って、貧しい生活を強いられてきた。それでも、明るい未来を夢見て、人々の心は荒れることなく、高みに向かって突き進んできた。その結果、豊かな生活を手に入れ、幸福も手に入る筈だったが、そうは問屋が卸さなかったようだ。
頂点はまさに極みであり、通り過ぎると下り坂が始まり、その勢いは弱まるように見えない。海の向こうのように、上り下りの繰り返しならば、落胆があったとしても、その後の楽しみに期待が持てる。だが、こちらでは一方的な上りの後に、一気の下りに陥ってしまったようで、楽しみが見出せないままにある。現状を眺め回しても、以前のような明るさが見つけられない訳で、解決は時間に任せるしかないのかもしれない。その一方で、厳しい時代を生き抜く為の工夫は、あの時代の生き方に学ぶべきものがあるのではないか。商売の世界では、金融機関からの借り入れがあったが、一般庶民の世帯では、そんな機会も得られなかった。それでも、時に、必要に迫られることもあり、親戚や知り合いに頼った人が居たようだ。当時と比較すれば、社会状況は大きく変貌しているから、今は、気軽に用立てして貰える。だが、その気軽さが重なった結果、膨らみ続けた借金の返済に苦しむ人が出る。軽さの後にやって来る重さに、潰されそうになるのを見ると、昔のやり方が良さそうに見えてくる。簡単に見えて、それが商売として成立することは、収益という面で見込みが立つことを意味する。それが、先見に暗い人々に、喜びから苦しみの奈落への道を、歩ませるのだろう。身近な人々からの借金は、今は恥ずかしいことのように扱われるが、当たり前だった時代もあり、恥でもなんでもないのではないか。子が親から借りることも、もっと当たり前に見られてもいい気がする。
成長が約束されていた時代、今支払えなくても後で、という考えは、何の違和感も無く受け入れられていた。所謂出世払いの類いの話だが、身の丈を考えぬ人が目立っていた。だが、膨らみ続けた風船が破裂して、萎んだ残骸を目にした人々は、夢も希望も失い、心の隅に居座った欲求の扱いに窮していた。
必要であれば借金をしてでも、という考え方は、この国独特のものではなく、どちらかと言えば、海の向こうから意図的に持ち込まれた仕組みの一つだろう。商売の世界では、現金払いは珍しく、信用による取引が当然のものとなっていた。これは、外から持ち込まれたというよりは、この国でも一つの形として確立されたもので、その延長として、個人の借り入れも短期のものは存在していた。だが、高額な買い物における長期の借り入れは、殆ど無かったのではないか。両替商の商売の一つとして、そんなものが成り立ち始めたのは、ずっと後のことであり、信用貸しという商売が入り込んでからではないか。成長の勢いは、こんな所に最も大きく影響を及ぼし、一気に膨らんだものが、弾け飛んだ。その結果、後に残ったのは、返せない程の借金であり、人によっては自己破産に陥った。これは何も高額な買い物によるものだけとは限らない。海の向こうで当然とされた、進学に要する資金の借り入れも、卒業後の展開が大きく変わるにつれて、様相が大きく変わり続けている。額の増加は、様々な要因による所だろうが、その一方で、返済に注目が集まる。自分のことは自分で、という文化が根付く国では、当然のことなのかもしれないが、学歴を手に入れることで将来を確実にする手続きが、いつの間にか、何の保証もできないものになりつつある。となれば、この仕組みも成り立たず、破綻を来すのではないか。同じことがこの国でも起こるが、違いは個人の借金の部分だろう。中途半端な個人主義の国では、大人になっていない若者の借金は難しく、親の丸抱えが主体となる。ただ、抱え主の生活が危うくなるにつれ、状況は厳しくなりつつあるようだ。
必要なのかどうか。議論は高まっているように見えて、庶民にとってはどうでも良いものになっているようだ。電気は必要という点に関して、異論は無いのだろうが、どの位必要か、という量的な議論に関しては、各人勝手な論理を展開し、共通の目標は立てられない。どの位昔に戻せば、との議論は無意味に思えるが。
我慢を強いることは、上に立つ人間にとって、選択の一つに思えるだろうが、強いられる側にとっては、拒否の対象としかならない。当たり前に思えることが、現状では、余地のないものとして扱われ、脅しまでが混じった論理で、押し付けられ始めている。共同責任も、下層の人間にとっては、意識に上る筈も無く、被害は広がるばかりに見える。被害者意識の問題は、ここでも大きく立ちはだかっており、このままでは、加害者の居ない社会が構築されるしかないが、あり得ない現実は、避けるまでもなく、消し飛ぶことにしかならない。もっと現実的な話を、という指摘も、狂気に満ちていた時に比べると、比較的多く為されているが、個々の被害や不安を取り上げる度に、現実から遠ざかる動きが甦る。全ての人に優しい社会を、という掛け声に、反対の声を上げるのは難しいが、今のようなやり方を押し通せば、別の歪みが出て来るに決まっている。権利を手にした途端に、その力を振り回す人々は、力を持つこと自体に酔い痴れている気がする。力をどう使うべきかに思いが至らず、ただ、弱者の心のままに、武器を振りかざす。力を持てば、誰かに対して上位に立つ筈で、そこでは、弱者のままに居ることはできない。その点に目を向ければ、今巷で盛んに見られる行動は、不当なものとして忌み嫌われることになるのではないか。