パンチの独り言

(2013年7月8日〜7月14日)
(自力、復古、視界、選り取り、近道、成長、期待)



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7月14日(日)−期待

 教育の力、強大なものと思い浮かべる人と、無力の固まりと思う人が居る。極端かどうかは別にして、これまでの長い期間、その力に高い評価を与える人が、沢山居たようだ。時に、限界さえ無く、誰もが無限の可能性を持つとさえ、訴える人が居たが、最近は、無力感を抱く人の存在が、目立ち始めているようだ。
 教え育むことの重要性は、その力とは別に、認識しておく必要があると思う。ヒトという生き物は、世代を継ぐことで、知識や知恵を受け渡すことを可能とし、それらの積み重ねが、発展を築いてきたと言われる。世代間の伝達だけでなく、文字を介することで、更なる広がりを約束することが、結果的に、この生物種の発展を加速させた。記録に残せば、記憶とは違う形で、確実な伝承が可能となる。だが、その道具を手に入れる為には、誰かに教えて貰うことが必要となる。そこに教育の関わりが出てきて、その効果に期待する気持ちが高まる。ただ、始めに取り上げた教育の力は、基礎的な能力を対象としたものではなく、更に上の段階にあるものである。生まれながらに身に付いたものとは違い、読み書き算盤と呼ばれた能力は、基本的とは言え、誰かに教わらない限り、勝手に身に付くものではない。その代わり、基礎の繰り返しによって、誰もが習い覚えることができる。ここまでの教育には、確実な力が約束されているが、その上に向かうと、個人差が大きくなり始める。そこにも、何かしらの切り札がある筈、との思いが、教育への期待へと繋がるけれど、現実には、差を縮めることはあっても、無くす所までには至らない。それでも、との期待は強く残っていて、それを信じる人は多い。可能性を信じたい気持ちは、理解できない訳ではないが、それにしても、誰もが、と思うのは、どうなのだろう。

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7月13日(土)−成長

 負荷の軽重に応じて、力の入れ方を変える。意思があるように思えるが、生き物がもつ仕組みには、実はこんなものがあるのだと言う。重い物を持とうとすると、意識的に力を入れる。だが、力を入れたからといって、筋肉の縮む現象には殆ど違いがない。となると、気の持ち様の違いだけなのか、と思えてくる。
 研究者の実験では、意識の関与を省く為、脳と引き離した形で、筋肉の動きの解析が行われた。すると、不思議なことに、負荷を増すに従い、エネルギー消費が増すとの結果が得られた。機構の内の働く割合を変えるとの見解もあるが、働き方の効率を変えるとの見解もあり、結論は得られていないようだ。機械的な仕組みを思い浮かべると、前者は理解し易いのに対し、後者は何が起きているのか、思い当たらない。人間の理解を超えた所に、自然の法則があると見れば、どちらにしても、事実として受け取れるだろうが、その為には自らの理解を拡張させる必要がある。流石の研究者も、そう簡単なことではないらしく、やはり理解の範疇に留まる見解が好まれるようだ。こんな話を引き合いに出したのは、最近の風潮が、かかる負荷の大きさに、制限をかける傾向があるからで、軽減された圧力に、無理無く臨めることが、特に重視されていることに、力を養う為に適切かどうか、と思えるからだ。負荷を増減させることで、それに応じた対応を身につけさせることができる、との見方もできるが、実際には、過度の負荷が害を及ぼすことに、人々の関心が集まり、無理は禁物との考えが、主流となっている。これが原因となり、適度も含めた負荷をも、取り除こうとする動きが強まる。だが、負荷により、それを跳ね返す力を身に付け、上を目指す意欲を保ち続ける。その機会を奪いながら、優しさとの言葉で括られる話に、疑いの目が向けられるのは、何時のことか。

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7月12日(金)−近道

 優秀な人材を奪い合う、と評される状況に、注目が集まる。義務教育の仕組みの中では、短縮することは許されないが、それを過ぎれば、何らかの形の飛び級が許される。そんな制度も、人材の青田買いに有効と見なされ、発掘に力を入れることが、人材獲得への近道と言われる。青田のその後は、気になるが。
 何度も書いてきたことだが、安定した時代には、傾向と対策が十分に講じられ、誰もが確実な道を歩むことができると言われる。その中で、特に優れた人々には、それらを一足飛びにする手立てが講じられ、まるで成長を促しているようだ。だが、確実な道がどれ程のものか、はっきりせず、それを飛ばすことへの効果も、明確にはなっていない。単なる特別扱いに過ぎない制度で、その恩恵を受けた人々は、確かに時間短縮を手に入れたのだろうが、才能を開花させる為に、十分な効果があったかは定かではない。特に、その対象となる人の数が、様々な制度の導入により、増え続けていることには、危惧の声も上がっているのではないか。既に、長年に渡り、この制度を実施してきた国では、その効果が評価されているようだが、全体の中での割合や効果の程度に関しては、あまり情報が流れていない。個人に的を当て、個別の例を引き合いに出すことは、確かに効果を測る手立てにはなるが、制度自体の社会的影響は、成功事例のみへの評価では、十分ではない。特に、特別扱いを嫌う傾向にある環境では、失敗を隠す事情も手伝って、制度の運用に対しても信頼が得られず、厳しい状況にある。人材は、特別扱いにせずとも、勝手に育つものとして、何が悪いのかと思うが、当事者たちには、そんな考えは微塵も無いのだろうか。

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7月11日(木)−選り取り

 本気を出すかどうかは別として、様々な選択肢の中から選ぶことが、当然とされる。その一方で、自らの好みを決められず、次々に飛びつく行動に出る若者の数は、増え続けているようだ。違いを見つけられず、他人に同調するだけの人も多く、選べるようにとの気遣いが、何の為なのかさえ見えなくなっている。
 選ぶ権利を優先する動きは、まるで客商売のような姿を想像させるが、売り手と買い手に分けられるような状況には無い。魅力的な商品、といった概念が適用される場合もあるが、手に入れさえすれば、楽しみが広がるのではなく、機会を手に入れられるだけのことで、そこから先のことは、自分の努力次第となる。選ぶ所より、後半の努力にこそ意味があるのだが、今の風潮では、自由に選べることにこそ意味があり、その後の地道な活動には光が当たらない。自分の好みさえ決められぬ人々が、対象の本質を見抜ける筈も無く、選択後の努力も、的外れになるばかりで、選んだものへの不満が募る。そんな人々に更なる機会を与えることが、人を育てる上で重要とばかり、選択肢を提示することがあるが、何も決められない人々に、ただ選ぶ機会だけを与えたとしても、多くは無駄に終わるに違いない。豊かな時代の常とは言え、こんな無駄を繰り返すだけでは、結局、何の役にも立たない人を増やすだけではないか。強制は、確かに時代遅れの話かもしれないが、適性がはっきりしないうちに、枠にはめ込むことも、時に必要なのではないかと思う。広がる未来に、大きな魅力を感じる人も居るが、決められぬ状況に陥ると、結果的には、行き先さえ見失う事態となる。自由と制限、と書けば、後者より前者と思うけれど、その後の展開に目を向ければ、かなり状況が違って来るように思える。

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7月10日(水)−視界

 技術の進歩に逆行するような話かもしれない。あらゆるものが電子化され、紙媒体の存在が危うくなる中、電子化されたものと紙の上に印刷されたものの違いを、意識する人が増えているのだ。これは、時代遅れの人々のことではなく、電子化の波に乗る人々の話であり、情報獲得の効率の悪さの問題である。
 以前の仕組みでは、情報を手に入れようとする人々は、紙媒体を保管する場に出向き、そこで一つ一つにあたる必要があった。膨大な情報を前に、糸口さえ見出せずに、途方に暮れることが多かったが、それでも、一歩ずつ確実に前進することで、必要なものを揃えていったものだ。それが電子化により、検索単語を打ち込むだけで、膨大な情報の中から、必要なものを抽出することが、容易となった。ここまでの話は、誰もが疑問を抱かずに認める所だろうが、情報の質に的を絞った時に、疑いが頭をもたげる。的の中心を貫く情報収集においては、検索の充実は圧倒的な力を示す。しかし、目的とした言葉だけでなく、周辺にある情報にまで対象を広げると、閉ざされた窓を開けることは難しく、限定を打ち破ることができない。紙媒体に慣れた人々は、こんな時に目に飛び込む雑多な情報に、意外な出物を見つけた経験を持つ。的確な情報収集が無駄とは言わないが、こんな限定が失敗を招くことに、度々出会すと、便利さに潜む欠陥にも、目を向ける必要があることに気づかされる。実は、紙媒体の特長を再認識する人は増えており、紙媒体を模倣した電子化ファイルにも、疑いを向ける人が居て、見た目だけではない何かが、そこに在ることが指摘され始めた。その中で、最も深刻な問題は、画面のみを頼りにし、紙面を顧みぬ人々の、能力の著しい低下であり、情報収集を始めとする学習の手法を、模索する動きも出ている。更なる発展による改善も、掛け声のみに終わり、厳しい状況にある。昔は良かったと見直すだけでは駄目だが、価値を見直すことは必要だろう。

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7月9日(火)−復古

 後ろ倒しとはどんな意味なのか。聞いたことが無かったので、不思議に思えてしまったが、辞書を眺めると、前倒しに対して作られたものとある。成る程、勝手に作られた言葉なのかと思うと、何とも変な感覚も当然と見えてきた。先送りが期限を示せないのに対し、時期を遅らせただけという時に使うようだ。
 この言葉の対象は、若者たちが社会に飛び出す為の試練が始まる時期である。遥か昔は出る直前に決まっていたものが、ある時代から早まり始め、ついには出られるかどうかが分からぬ時期にまで、前倒しが続くこととなった。半数以上の人々が進むようになった結果、そこから先の競争が激化したとの見方もあろうが、現実には、このところ話題にされる「不安」が一番の要因となっている。試練に挑む側にとって、御眼鏡に適わねば話にならない。何が評価され、どんな選ばれ方をするのか、全く分からないどころか、自らの評価さえ難しい状況で、どんな挑み方ができるのか、分かる筈も無い。成果が上がらぬままに、長い期間が過ぎることは、訓練にはならず、出鱈目の繰り返しは、効果を発揮することがない。一方で、宝探しにも似た人材発掘にあたる人々も、成長の止まった組織では、慎重な姿勢が、適切な動きさえも止めてしまう。じっくり選べば、何とかなるとの思いが、前倒しに結びついたのだろうが、結果は芳しくないどころか、悪影響だけが目立つこととなった。時間をかけることで起こる疲弊は、互いの中に染み渡り、暗中模索には光が射してこない。その中で、時期を遅らせるという提案は、苦肉の策のように扱われるが、現実には、元の姿に戻すだけのことではないか。本来の役割を果たすこと無く、次への繋となってしまった機関は、肝心の教育もしないままに、就職という成果のみを掲げる。力を備えないままに、社会に飛び出す悲劇も、不安という切り札に為す術も無かった。重い腰を上げたとしても、暫くは混乱が続く。その中で、本来の姿を見出せるかは、当事者たちの課題となる。

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7月8日(月)−自力

 素読という言葉を久しぶりに聞いた。論語の話題の中に出てきたものだが、ただ読むことを繰り返すことに、効果を疑う声があるという。意味も分からぬものを、声を出して読んだからと言って、何の学習効果もない、というのがその主張らしい。それに対し、声に出す訓練の重要性が、反論の中心だろうか。
 読むことの意義は色々とあるのだろうが、その中に意味を知ることを含めようとする気持ちは、分からなくもない。だが、反論では、意味を知りたければ、自分で調べればよく、素読の意義を無視して、意味に走る動きに釘を刺していた。教育の意義に関することは、様々な考え方があり、それぞれに一長一短があるように思える。ただ、受ける側の意欲や努力を頭に入れず、ただ教え込むことばかりに目を奪われると、表面的な効果を追い求めることとなる。更に、意欲についてさえ、知りたいという気持ちより、将来の利益だけに目を向けさせ、それを追い求めさせれば、知ることの意義は顧みられぬことになる。本来は、知りたいからこそ学ぶという姿勢が中心にあったが、最近は、役立つことを学ぶといった風潮が高まり、知ることの利益ではなく、別の利益を追い求めている。その結果、教わることを当然とする考えと、効果の有無が知るべきことを決めるとの思いが、重なり合うことで、傾向と対策がここでも重視される。だが、素読の話から見える、意味を知るなら自分で、という誘い込みは、すっかり消え去ってしまい、自学自習の心得などは忘れられた。「教えてもらってない」という決め言葉を、安易に使う人々を相手に、為す術無しとの思いを抱く人々にとって、根本から変える為の手立ては、何処にあるのだろうか。学校に責任を被せたとしても、今目の前に居る人間には、何の効果も得られない。彼らが持つ間違った考えを改めさせるには、かなりの荒療治が必要であり、それを乗り越えた人間だけが、次の段階に進めるとするのも、やむを得ないことではないか。

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