パンチの独り言

(2013年7月15日〜7月21日)
(旬、謬見、常識、見極め、地道、導者、意欲)



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7月21日(日)−意欲

 欲望は限りない。だからこそ、上を目指し、努力を積み重ねる。こんな筋書きは、遠い過去のものとなった。前段はそのままに残り、後段は忘れ去られた。安定社会では、どのみち地道に働いても、限界が決められている。だから、何をしても始まらない、という訳だ。この話、どんな風に思われるだろう。
 限界が誰によって設けられたか、尋ねてみれば、今の社会情勢がはっきりする。昔も、そんな状況が続いていたけれど、それは個人の才能にかかるものでなく、社会的地位や家系に縛られるものであり、社会制度の問題とされていた。今との違いは明らかで、機会均等が謳われる中で、限界を感じる人々が居る。上辺だけのものとの解釈もあるが、以前に比べれば、遥かに有利な状況にあるのに、それを活かせない人が多い。その溜め息と共に聞こえて来るのは、厳然たる事実として、設定された限界の存在で、それにより、自由が妨げられていると訴える。だが、外から見ると、何処にも線は無く、何が妨害しているかは定かでない。この感覚の多くは、自ら作り出したものであり、思い込みによるものが多い。確かに、能力には限界があり、越えられない線はあるに違いない。しかし、その線は、彼らが見出した場所より、遥か彼方先にあり、霞んで見えない程だろう。それを身近に置き、嘆息を漏らすのでは、夢が実現しなくとも、自業自得としか言えない。教え育む人々は、正反対の行動をとり、何処までも伸びるものと期待を抱く。そんな期待が重荷となって、との話も、よく聞かれるものだが、これも同じこと、自作自演と言えるのではないか。持って生まれた才能が、こんな時に生きるとすれば、それは少々の障害にへこたれず、努力を積み重ねることで、才能を伸ばそうとする意欲にこそ、意味がある。それが無い人に、期待するのは、止めておいた方が良い。

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7月20日(土)−導者

 教育者の責任は重い。そんな言葉が並ばない日は無いが、子供が事故に遭ったからとか、死んでしまったからとか、大きなことに関係することばかりで、本当に重要な部分に目が向けられていないように思う。確かに、人の命は最も大切なものであり、怪我を負わせていいものではない。だが、多数への悪影響も無視できない。
 教育者の一言が、子供たちに与える影響は、重大な事件に関するものだけでなく、日常の平凡な時間の中でも、広がっている。純粋無垢と言ってしまうと、疑いの目が向けられるだろうが、少なくとも、他人、特に大人の言葉に敏感に反応する点では、無垢と呼んでもいい。彼らの目は大人の行動に向けられ、その大部分が親と教師を対象とする。親の責任は、こんな所で取り上げるまでもなく、非常に重いが、最近は、責任逃れと言い訳の山に、辟易させられている。一方、教師の責任については、事件の度に話題にされるものの、極端な事例だけが取り上げられ、大多数を対象としたものへ目が向くことは殆ど無い。しかし、人を育てる意味では、自分の子供にしか関われない親と違い、少なく見積もっても毎年数十人、教員生活の中では千人以上の子供と関わる人の責任は、浅いかもしれないが、大きな広がりを持つと言える。彼らの何気ない言葉が、子供たちを傷つける話は、これもまた、大事の際に聞こえてくるが、現実には、それよりも大きな影響が、様々な形で広がっているように見える。子供の成長に合わせ、様々な助言が繰り返されるのも、そんなものの一つであり、伸ばしたいという気持ちの現れだろう。だが、肝心の助言が、とんでもないものだった時、そこには悪影響しか残らないこともある。本から学ぶことの多さを、人生の先輩として実感することから、様々な良書を薦めることも、その一つだろうが、良書と話題の書の取り違えに、驚かされることがある。自分で読んで感心したから、という理由も、知識と知恵の年齢差を考えに入れずに薦めると、間違った考えを無垢な子供に植え付けることになる。自分の責任と称する愚行の多くと同じく、流行を追いかけ、子供の力を考えに入れない判断では、こんな失敗を繰り返すことになる。まあ、懲りないのも、あの人々の特徴ではあるが。

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7月19日(金)−地道

 安定社会では、努力をしたとしても、それが報われることは無く、ある程度定まった位置に留まる。安定は、奈落に落ちること無く、保証も得られる代わりに、上昇の機会が奪われると言われる。これから社会に出て行く人々にとって、やる気を失わせる環境は、好ましくないものとして、嫌われているようだ。
 確かに、そんな傾向はあるのかもしれない。だが、個々の事例を詳しく見てみると、環境の実態を知る前から、既にやる気を失っているのではないか、と思えるものが多々あることに気付かされる。頑張れば伸し上がれる、という時代に、気合いが乗らず、流れに乗り遅れた人々は、単に、怠慢を厳しく批判されるのみで、本人の責任以外に、都合のいい原因が出されることも無かった。時代が変われば変わるもので、今や、何もしなくても、様々な理由や原因が差し出され、本当の理由や原因と差し替えることで、自らを正当化することも可能となる。さぼり癖のある人々にとって、怠慢が批判されることも無く、責任転嫁も簡単にできるとなれば、誰もがそちらに走るのだ。だが、責任は逃れたとしても、自らの生活の糧が手に入る訳ではない。結局、一時の責任逃れの後に残るのは、情けない自分の姿なのではないか。ありのままの姿を伝えることが、こんな時に必要となる筈が、いつの間にか、そちらは棚に上げられ、被害者や弱者に仕立て上げられた人々が、社会に溢れることとなる。たとえ、安定していたとしても、そこから上昇の糸口を見出すことは、言われる程には難しくない。単純に、楽をしたい心と、叱責されない環境が、怠慢を許しているだけだ。そんな中で頑張る人は、実はどの時代にも居て、人参などぶら下げられずとも、努力を積み重ねる。周囲から、無駄と言われても、なのだ。

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7月18日(木)−見極め

 情報の信頼性の確保に、努力しているのだろうか。信じて欲しいと訴えるだけでは、何の意味も無いことを、受ける側に回れば、いとも簡単に言い切るのに、流す側になった途端に、疑わしい言葉を並べ続ける。こんなことの繰り返しでは、確保の可能性は殆ど無く、信頼を得ることは難しいままとなる。
 疑わしい情報を、恰も確実なもののように扱うのは、その吟味を怠っているからだが、何をすれば確認できるかを、知らない人にとっては、どうしようもないことだろう。そんな人々が、したり顔で居座り続けられる業界は、腐っているとしか言いようも無いが、それを許している責任は、いい加減な情報に振り回される大衆にもあるのではないか。間違った情報に振り回されても、結果的に間違いを生じなければ、問題として取り上げることは無い。大事にならなかったから、という評価自体は、特に問題視されることもなく、そんな気構えでは、一々情報の正誤の吟味に、時間を割く姿勢が出てくる筈も無い。言葉では、曖昧なものも含められるから、いい加減さや誤りを厳しく吟味することは難しい。しかし、数字であれば、大した手間をかけずとも、そこに含められた矛盾に気付くことは、それほど難しくない。暫く前に話題にされた、胎児の遺伝子診断も、その意義を議論する間もなく、必要だからと始められたようだ。母体の血液を検査するから、従来の方法より、安全性が遥かに高いとされたものは、既に、1500を超える実施例があるとの報告に、陽性が29例あったとの情報が付け加えられたが、その先の情報が不確かだったのが気になる。ここでの陽性は、異常の可能性が高いというものであり、確定できないものだから、別の手法で確認する必要がある。事実、更なる検査の結果が確定した8例のうち、2例は問題なしとなったのだから、確定診断の情報を加えることで初めて、吟味が可能となる。だが、そこに示されたのは、29の半数にも満たない11例のみであり、残りは現時点では不明なのだ。驚くべきは、そんな発表を流れ図で示した新聞で、矢印はまるで全てが繋がるように見せている。29が11どころか8になる流れに、何の違和感も抱かぬ人々が、情報の吟味に適しているとは、とても思えない。

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7月17日(水)−常識

 この所、読んだ本の当たりが少ない。一言と共に、評価を示してきたが、内容に同意しかねることが多く、何故、そんな結果になるのか、と不思議に思う。読み手の気の持ち様なのかもしれないが、それにしても、書き散らかしたものが目立ち始めているようだ。特に、新書ではその傾向が強いように思う。
 気軽に手に取ることができる本として、新書や文庫がある。まずは価格の問題が一番大きく、通常の書籍であれば、千円の桁が当然となるのに対し、それらは、百円の桁の上の方で購入できる。大した読書量ではないにしても、年間十万円くらい使っている身にとって、安いものに走るのはやむを得ない。小説も新刊ではかなりの額で売られるが、文庫になると五分の一くらいになるだろうか。評判も既に確立された後だから、質に対しても、何となくの安心が得られる。そうは言っても、確実とは言い難く、評判も作られたものとの印象もある。一方、新書は一発の勝負の如く、当たり外れの差は大きい。こちらの評判も、当てにならぬものが多く、書評なども、ろくに読んでも居ないと思えるものだったり、勝手な解釈を並べたものが多く、批判の目が向かない為に、質の低下を看過しているように感じる。評判に振り回され、噂を追い続ける大衆の性癖は、こんな所にも影を落とし、悪質なものを市場に送り込む業界の悪弊も手伝って、文字情報の不確かさは、強まり続けているように見える。こうなってくると、読み物を手当り次第に、というやり方を推奨することは難しく、良書を選んだ上で、手渡すことが必要となる。批判の目を育む為にも、まずは指標とすべきものを、との考え方だが、その発掘にかかる時間は、馬鹿にならない程となる。人に勧めることの難しさは、本来、保証を付けることから来るが、悪書の山から掘り出すことに、その大半が向けられる。どうしたものか。

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7月16日(火)−謬見

 おそらく、固い信念を表そうとしたのだろうが、最近の言葉の乱れと同じく、意味不明な訴えにしか思えない。盛り上がりに欠ける活動は、既に後半に入ったと言われるけれど、連呼のみの声さえ聞こえぬ状況は、何か大きな変化があったようだ。道端に立てられた掲示板には、各候補者の顔が並び、訴えが目に飛び込む。
 その中に、「最後の」という文言を見つけた時、決意を込めたつもりが、全く別の想像を招くことに、本人も周辺も、何故気付かなかったのだろうか、と思えてくる。最後とは、まさに最後であり、その次は無いことを意味する。彼らの十八番のお願いも、最終日には、その連呼となるけれど、ここで使われた「最後の」は、機会に被せられたものであり、もう次が無いことを、本人は訴えたいということとなる。一つ一つの出来事は、それ限りのものであり、次は無いことを、考えに入れた結果の使い方であれば、意味も理解できるだろうが、それでは、決意や信念も月並みに過ぎず、大した重みを持たぬこととなる。大きな文字で訴えるからには、そこに自らの思いを込めた筈であり、もっと直接的な表現を意図しただろうから、こんなに捻った話などある筈も無いが、もし直接的だとすると、今度は、「最後の」という言葉で表すものが、傲慢なこじつけに結びつき、一種の脅しにも似た表現に思えてくる。こんなことを考えても、政治は何も変わらないと思うからこそ、盛り上がりに欠ける日々が続く訳で、伝達する側が最も盛り上がる話題が、庶民には何の魅力も感じられないものとなり、ただ、ばらまきでも何でも、一時の利を求める人々への、売り込みの戦いにしかならない。そのことさえも、既に弾切れの様相を呈し、期待感という形の無いものに、話題の中心が移っている。このまま票を投ずる日が来て、結果が出るのだろうが、本当に、これで良いのだろうか。

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7月15日(月)−旬

 季節の移り変わりを楽しむ。と言っても、こんなに暑い季節は御免、と聞こえてきそうな気配だが、暑い時にはそれにあった食べ物がある。熱い体を冷ます為に、氷菓子を食べるのが、今時のやり方かもしれないが、氷自体が手に入らなかった時代にも、そんな考えに基づく材料の選び方があったという。
 体を冷やす食べ物と聞いて、凍ったもの以外で何を思い浮かべるか。そんなことは考えたことが無い、という人が多いだろうが、実は、そんな言い伝えは沢山あるようだ。秋茄子と嫁の関係も、美味しいからという嫁いびりの話がある一方で、茄子が体を冷やす効果に嫁の体を案じる話がある。夏野菜の多くは、体を冷やす効果があると言われ、旬がその味だけでなく、体への効果との関係から、重視されるものがある。冬は温める野菜を摂るようにし、夏は逆に冷やす野菜を摂る、という考えからは、旬を外した食べ方が、体に悪影響を及ぼす可能性もあるが、好きなものを好きな時に、という考えが優先される時代には、そんな迷信じみた言い伝えは、忘れ去られるしかないのかもしれない。日常的な食べ物である野菜では、そんな傾向が強まりつつあるが、値段が高く、たまにしか食べられないものでは、依然として、言い伝えが強い影響を及ぼす。そろそろその季節に入り、宣伝文句に使われた「土用の丑の日」が迫っており、店で楽しむ人だけでなく、自宅に買って帰る人も増え、全国的な騒動は、例年と同じように続く。絶滅を危惧されるものとして、制限をかける動きがあるものの、最大の海棲哺乳類の話とは違って、まだ強い圧力はかけられていない。デフレの時代に、値上がりが続いた昨年とは違い、今年は落ち着きを見せているが、本番はこれから。どうなるのだろうか。

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