興味を抱くことが悪いという訳ではない。だが、その対象を知った時、首を傾げざるを得ないことがある。目の前に広がる景色ではなく、向こう側に潜む何かに興味を持つことに、何故、という思いが過る。まず取り組むべきは、目の前に立ちはだかる壁であり、それを乗り越えてこそ、意味があるのではないか。
情報の洪水に襲われる社会では、誰もがあらゆることに精通できる。だから、表面的な興味は満たされ、その裏に潜む秘密を知りたいと願うのだろう。裏事情に通じてこそ、他人に自慢できるとばかり、その収集に躍起となる。したり顔で、関係ない話をするのも、自分の知識をひけらかす代わりであり、知らぬことなぞ何も無い、とばかりの態度をとる。だが、実際には、知っていることはほんの僅かで、情報に振り回され、無知をさらけ出す姿だけが、見えてくる。若気の至り、と慰めて貰えるうちは花だろうが、それがいつの間にか、年寄りの冷や水と言われるようになる。社会全体に、こんな傾向が強まるばかりで、無知が恥とはならず、知っていることだけを自慢げに話す。こんな大人の姿を毎日眺めていれば、同じ行動をとる若者が居ても、何ら不思議ではない、となるのだろうか。確かに、狭い視野ではそんなものしか見えず、情報の信頼性の吟味もできず、下らぬ質問しかできない。でも、こんな頼りない存在を、社会で役立つ人間に変えるのは、周囲の人間の責任ではないか。上に立つ人間が、無知蒙昧になっていては、望みはなさそうだが、まだ何とかなるのではないか。淡い希望を抱いても、何の得にもならないのかもしれないが、ここで諦めては、損ばかりで終わるだけだ。
懐かしい顔に出会う。実物に面している訳ではなく、画面を通してのことで、一昔前に亡くなった人なのだ。最近は、虫を見つけても、悲鳴を上げたり、後退りするばかりで、じっくり眺める子が少なくなった。人間とペット以外は生き物ではない、と考える人が居るくらいで、何とも不思議な時代のようだ。
懐かしい人と虫の話は、全く結びつかないだろう。この人は、地方都市に小さな博物館を開き、子供たちに虫の面白さを伝えていた。虫好きの子供にとって、こんなに楽しい場所は他に無く、一日居ても飽きない遊び場だった。しかし、母親にとって、男の子の多くが興味を抱く虫は、気味悪いものの代表に過ぎず、叱りつけてしまうことさえ起きた。今では、理科離れの問題が大きく取り上げられるが、当時は、母親の行動も、仕方ないものと片付ける人が多かった。その中で、件の人は、各地を巡り、自然に触れる大切さを説いていた。その言葉遣いは、今なら批判の対象となりかねないが、画面からは、会場を包む和やかな雰囲気と笑い声が流れ、興味を抱かせるのに、大活躍していた姿が見える。親や周囲からの妨げが、子供の興味を失わせることに、当時から危機感を抱いていたのは、先見の明と思う人が居るかもしれないが、実際には、当然のことにも気付かず、偏差値ばかりを重視した人々の無知にこそ問題があり、未だに変わらぬ世の中に、目を向けるべきだろう。理科や科学に対する興味も、偏差値への認識と同じ基準でしか判断できない状況では、あの人の心配は残ったままである。教え育むのは、その資格を持つ人の役目とばかり、責任転嫁を続けたとしても、目の前の自分の分身は、親の言動をじっと見ていることに、気付かねばならない。
高等教育の水準低下を嘆く声が聞こえる。世界標準から大きく離され、順位も下がり続けていると言われる。様々な梃入れの算段が為されているが、目に見える効果もなく、経済の停滞同様、厚い壁にぶち当たったかのような状態にある。監督官庁は高い目標を定めたが、実現の可能性は薄いと見られているようだ。
多すぎると批判した大臣は、もう姿も見えないが、増やし過ぎた弊害は大きく、社会全体に広がった歪みは、修復不能な所まで染み込んだらしい。意欲も能力もない人々が、勝手気侭な行動を許される環境に、期待できることは何も無いが、それでも頂点に近い組織には、まだ希望が残っていると思われていた。そんな中で報じられた事件は、期待を裏切るものとなり、修復不能な事態に陥っていることを、実感させた。競争原理こそが、権威の回復の唯一の手立てと見なされ、その激化を歓迎する声が高まっていたが、渦中にある人々による不正は、何を意味するのか。倫理観や道徳観の喪失を、原因の一つに挙げる人も居るだろうが、間違っているように思う。競争を優先させた結果が、別の肝心な要素を無視させたのなら、その考え方自体に問題があることになる。運用の問題に責任を押し付けるのも、単なる責任逃れでしか無く、本質を論じる資格が無いことを示すだけだ。審査や評価に適う人間かどうかは、一つだけの指標に頼る仕組みでは、見極められない。簡単なことさえできない人間が、中枢に居座る事態に、憤りを感じてきた人々も、有効な手立てを講じなかった責任を感じるべきだろう。目標を掲げることに、反対を唱えるつもりは無いが、腐敗し、歪んだ組織に、期待できることは、何も無いことを考えておく必要がある。
民主主義の意味は何か、そんなことを考えたくなることが度々起こる。例えば、少数意見を取り上げるのが、その意義とばかりに、狂気に満ち、非常識極まりないものを拾い上げ、常識人に不快を押し付けたり、嘗ての栄光を背景に、注目を集め易い人の発言が、如何に下らないものでも、大きく取り上げる。
これらの行為が、どんな影響を及ぼすのか、渦中の人々が、何を考えるのかは、全く分からない。民主主義という言葉が表すのは、誰もが同じ権利を持つ、ということなのだろうが、その意見が正当かどうかは、発言の権利とは別に、吟味されるべきだろう。それを、権利ばかりが先に立ち、非常識を社会に拡散させることに、手を貸す人々の浅慮には、呆れるしかない。情報伝達に携わる人々の、こういう愚行は悪影響を及ぼし、無垢な人々に、誤った認識を授けることになる。若気の至りと、後に恥じ入るような行為は、誰もが経験してきたことだが、最近は、植え付けられた非常識を、改められること無く社会に飛び出し、自らの考えの誤りに気付けないままに、それなりの地位を占めるに至った人々が、その愚行や妄言を恥じること無く、周囲に迷惑をまき散らす。こんな状態が連鎖を産むことに、社会は気付くべきだろうが、その制動がかかる前に、染まってしまう人々が出てくる。現状は、まさにこんな形であり、勝手気侭な行動こそが、自らの権利と思い込んだ人々が、暴れ回る社会となった。勝手な要求が通ると信じたり、非常識な見解を恥じること無く押し通す。常識が通らぬ時代に、どんな行動をすべきかは、確かに大きな問題であり、多くの人は困惑する。だが、こんな時こそ、正しい考え方を身につけるべきであり、それを解決に結びつけるべきだ。
貿易の取り決めに関する交渉が始まったとのことだが、相変わらず、内容は明らかにされていない。選挙の争点ともなっていたが、蓋を開けなければ分からない、といった解釈が大半を占め、争いの対象とはなり得なかった。利害が入り混じり、複雑な様相を呈しているだけに、理解力の無い人々には、難しかったのだろう。
これが即座に国の間の紛争に繋がるとは思わないが、その火種を点すことにはなりかねない。正当化する為の詭弁と言われたりもするが、当時の孤立化も、自給自足が困難な国にとって、貿易への圧力がきっかけになったと言われる。それを避ける為の方策とは思えないが、為替の変動も含め、貿易への依存が大きな国にとって、こんな動きが盛んになるのは、当然のことだろう。だが、その一方で、極端に走ることへの警戒は、思った程強くはないようだ。だからこそ、選挙の結果は妥当なものに落ち着き、ねじれが解消されたと喜ぶ声が、大きくなった。だが、聞こえの良い言葉を並べる宰相は、その一方で、自身の極端な解釈を繰り広げ、周辺国との関係は、悪くなりつつあるように見える。相手の顔色ばかりを窺うのは、この国の人々の悪い癖とは言え、ある線を越えると、止まること無く突き進むのも、良いこととは思えない。今回の結果が、若者たちを戦場へ招くことに繋がる、という話は、如何にも極端なものと思えるものの、ああいった発言が続けば、制動をかけることが難しくなり、暴走へと繋がる可能性はあり得る。前回の挙動不審は、結果的に自らを壊すことに繋がったことから、大事には至らなかったものの、今回はどうなるのか。不安を煽ることに躍起になるより、こんな単純な警戒を怠らないことの方が、遥かに重要に思えるが、どうだろう。
懲りない人々とは、ここでは何度も取り上げている、ある種の人々だが、今回の対象は、少し違っているかもしれない。間違いを何度も繰り返し、その度に言い訳を並べる人々は、遠くの存在ではなく、身近にも沢山居る。何故そんな行動を、と相手が思ったとしても、彼らにはそれ以外の選択肢は思い当たらないようだ。
問題は、潔くない言い訳にあるのではない。何度も繰り返される間違いに、振り回される人々が受ける被害なのだ。当人は、自らの犯した過ちを、意識することさえ難しく、反省の文字は、一切浮かばないのだから、手の施し様が無い。組織や社会から見れば、単なるお荷物にしかならない人々も、構成員としての役割を果たして貰わねば、全体の均衡が保てなくなる。だからこそ、どうにもならぬと思いつつも、荷物の相手をする人々が居る訳だ。自由競争の観点からすれば、彼らが落伍することが当然となるが、社会構造として、それを許さぬ仕組みがある。共同の言葉が踊る中で、迷惑が脇に寄せられるのも、そんな事情があるからだろう。だが、問題が起きてからでは遅すぎるのだ。こんな人々を育てた人の責任は、社会の中では非常に重く、こんな閉塞感の中では、特に、この荷物による重圧感は、事態を悪化させている。家族の問題は当然として、それを許さぬ仕組みは、やはり教育現場にあるのだろう。試験に受かる為の技術の伝授に、時間の大部分を使い果たし、人間性の確立を忘れてしまった現場に、今更何を期待しても無駄、との声も聞こえるが、本当にそうなのだろうか。競争という名の、誤った解釈が、ここまでの悪化を招いたとしたら、それを見直せば良いだけのことではないか。ここでも、別の懲りない人々の、自らの誤りを認めぬ姿勢が、厚い壁を築いている。
良いことは伝えなくても、悪いことさえ伝えられれば良い、と思っているのだろうか。自分たちの役目は、話題となるものを提供すること、と思っているのかもしれないが、その基準が、そんな所にあるとしたら、どうだろう。悲観を歓迎する人々にとって、都合の良いもののように思えるが、何かが違うような気も。
先が見える時代に、見えない不安を紹介することが、社会に情報を伝える中で、重要な役割と見るのは、間違いではないだろう。特に、傲慢な空気が満ち、挫折を知らなかった人々が、膨らみ過ぎた風船が弾け、奈落に落ちたことで、楽観を戒め、悲観を優先させる態勢に、豹変してから、情報伝達が果たすべき役割も、中身の無い強がりから、不安を煽る姿勢へと移り変わった。それはそれで、経験を糧に、為すべき役割を見直した結果なのだろうが、極端に走る性向は、根本から変わることは無く、別の極端へと移っていったに過ぎない。楽観が駄目なら、悲観で勝負、とでも言い出しそうな雰囲気だが、そんな言葉は決して吐かない。重要な情報を吟味した結果、選んだものが、警告を発するものとなっただけで、決して、不安を煽ろうとの意図は無い、とでも言うのではないか。安定社会では、苦もなく安心は手に入るのだから、間違って不安を手にしないように、警告を授けるのが重要という、勝手な論理に基づく話だ。判断力が減退し、自らの考えを導く力も、衰えてしまった人々には、作り話は言い過ぎとしても、全体ではなく、一部にだけ光を当てる話も、全てが真実に思えてくる。そんな中で、責任の所在は不鮮明となり、信じた人間に押し付けられるとあっては、無責任な人間が蔓延るのも当然だろう。