パンチの独り言

(2013年7月29日〜8月4日)
(本来、空振り、訃報、漏洩、やる気、危機、伝聞)



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8月4日(日)−伝聞

 最近はカタカナ言葉で言い表されるようだが、以前は聞き書きと呼ばれていたらしい。記録に残すのは、事実を後世に伝える為に必要な手立てであり、他の生き物との違いを際立たせているのは、文字という媒体を介するからだろう。それにしても、何故、自身で記録するのではなく、他人を介在させるのだろう。
 事実を有りの侭に残す為に、自身の記憶以外に必要なものは無いと思える。おそらくはその通りに違いないのだが、実際にやってみると、意外な難しさに直面するようだ。記録映画のように、時間の流れに従って、文字を並べていけば良い、などと思って始めてみると、纏まりの無い、読むに堪えない代物が出来上がる。それぞれの話題ごとに、枠を設けて纏めれば、格段に読み易いものができるが、では、どんな枠が好まれるか、当事者にとって、定めることが難しい。ここに聞き書きにあたる人の活躍の場ができるようだ。記録が事実に基づくとは言え、ただ漫然と時系列に並べるだけでは、伝達は可能とは言え、正しく汲み取ることは難しい。それを助ける為に、理解し易い構成にすると、効率よく理解することができるから、伝達も容易となる。だから、聞き書きの役割は重要とされるのだが、これは、一方で、歪曲に結びつくこともある。何をどのように聞き取るかは、構成の作業の段階で選別せねばならず、選ばれなかったものは、無かったことになりかねない。となると、事実はどう残されるのか。もう一つ、気になることは、各項目の聞き書きにおける内容について、である。ある事柄を話題にしたとして、何処まで話を進め、何処で終わるかは、聞き取りにあたる側の、思い通りとなる。その結果は、時に満足に結びつくが、時に消化不良のような感覚が残る。限られた時間、限られた紙面では、当然のことだが、読者が知りたいことはそれぞれ違い、同じ話を読んでも、そこから出て来る疑問はそれぞれに違う。聞き書きは重要な役割だが、何かが足らない気がするのも、そんな事情によるからか。

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8月3日(土)−危機

 学問の危機、という声は聞こえてこないが、このままに放置しておくと、そのうち、腐りきってしまうのではないか。知を極める為に、学問に精を出す人々がおり、すぐに役立つかどうかは別にして、社会はそれらの人々を支援してきた。だが、成果を求める声が大きくなり、交換条件を満たすことが優先された。
 その結果が、最近話題になっている不正へと繋がったとは、簡単に言うべきではないだろう。ほんの一かけの人が、何を思ったのか、結果を操作し、改竄を繰り返したと言われる。その背景には、金銭的な支援を追い求める心があり、自分自身や組織の利益を追求する気持ちがあったと言われる。不正を働いたと言われる本人からは、その事実を認める言葉は出ていないものの、関係者からは直接的でないにしろ、何らかの作為があったと認める声があったと伝えられる。だが、当事者が認めぬ限り、事実は明らかにならず、たとえ、何らかの処分が下されるにしても、皆が望むような事実は、闇の中に残されたままとなる。その一方で、彼らが得た利益が、どんな経緯を辿るのかは、簡単には明らかにならない。新薬の効能を明らかにする、治療効果を見極める為の調査結果も、改竄が疑われるどころか、確実視される状況では、嘘であったというしか無いようだ。だが、薬がもつ本来の効能は否定されておらず、ある意味の付加価値のみが否定されただけでは、不正を指摘したとしても、下される罰はあまり強くない。印象という意味での損失を、強調する声があるが、どうかと思う。また、これまでにも不正を働いたとして、処分された人々も、地位を失ったとしても、何らかの形でその活動を続けることが多く、損失はさほどでもない。こんなことが繰り返されては、学問の場に対する社会の評価だけが下げられ、個人の損失ではなく、組織の損失ばかりが膨らむ。その結果、学問の危機が訪れても、誰も責任を負わないのではないか。

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8月2日(金)−やる気

 意欲とか積極性とか、そんな言葉に頻繁に出合う時代ではないか。能力を追い求めていた時代とは違い、その手前にある心構えのようなものに、多くの目が集まるようになった。潜在的な能力を伸ばす為に、取り組み姿勢が重要と言うのだろうが、果たしてどうだろうか。周囲には、気合いだけの人が増えた感があるが。
 心構えの問題であれば、明らかな結果を求められずに済む、と思った訳ではないだろうが、成果を強く求められない事業は、取り組み易いものと受け取られ、注目を浴びるだけでなく、参加する人の数も増え続けている。意欲が増したとか、やる気が出たとか、そんな形にならない結果を、前面に押し出すことで、成果を強調するが、目を向けるべきは、その後の展開にあるべきだろう。長い目で見ることは、即席の効果が好まれる時代には、脇に寄せられるもので、上辺だけの報告で済まされるのも、こんな背景によるからと思われる。だが、人材育成という、本来の目的からすれば、精神論では済まないものがあり、成果は、有用な人材の登場によって、初めて認められるものとなる。その第一歩として、心構えが先に立つのは、ある意味当然のことだろうが、そこで立ち止まってしまう現状では、何かが不足していると見るべきではないか。始めの意欲がいき、次の意欲へと繋がる為には、その間で、ある意味の成果が上がり、達成感が満たされる必要がある。心の問題を重視するからには、節目節目で、山を越える感覚をもつ必要があり、それが達成感と言われるものである。当然と思える話だが、現実には、心に灯を点すだけで、その後の展開は、殆ど考えられていない。そんな提案が、これほど好まれてきたのは、やはり、真の成果ではなく、見かけに騙される世相によるものか。

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8月1日(木)−漏洩

 煽る側にとっての朗報だったのか。漏れが続き、処理が遅れ、それが意図せぬ放出に繋がったとの見方は、確認されたものではないようだが、どうでも良いらしい。害を及ぼすものが、依然として存在することを、報道できたことで、危機が迫り来るものとして、強く訴えることができる。思惑通りといった所か。
 毎度お馴染みのことだが、数字は確定的なものとして、紹介される。だが、それが表すべき対象は、殆ど理解されず、当然のことながら、意味を表す為の単位に、目が向けられることはない。何をどう伝えたいのか、明確にされること無く、ただ単に不安を膨らます為に、適切な表現が採用される。現代の狼少年たちは、欺瞞に満ちた伝達を、何の疑いも抱かずに続け、報道の本来の務めを果たさぬことに、何の疑問も抱いていない。確かに、害が存在し続けることは事実だが、真に重要な問題は、それが拡大し続けるかどうかである。処理が順調に進むかどうかについて、監視を続ける必要はあるが、その遅れが漏洩に繋がったとしても、驚くべきことではない。連鎖反応の恐ろしさを伝える中で、総量の増加こそが注目の的だった筈だ。だが、今、人の目は狭い場所へと導かれ、そこに問題の核心があるかのように思い込まされている。このような誘導は、事故直後から度々使われてきたが、依然として好んで使われているようだ。処理に手間がかかることは既に明らかであり、時間をかけるしかないのだが、大体の総量は決まっている。確かに、崩壊という現象により、姿を変え続けるので、標的が変化しているように見えるが、実際には、全体として大きく変化した訳ではない。それが、このような扱いを受けるのは、やはり何処かに思惑があるのだと考えたくなる。伝えたいならそうすれば良いのだろうが、全貌を明らかにするように心がけなければ、また嘘の上塗りになってしまうことに、気付くべきだろう。

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7月31日(水)−訃報

 怪しげな情報を流し続ける媒体だが、それでも確実なものもある。首を傾げる人が居ると思うが、その情報が訃報であると言ったら、どうだろう。死亡広告は、企業などが出すものだが、訃報欄とかお悔み欄と呼ばれるものは、著名人の死を伝えるという意味で、報道の一種だろう。毎日必ず眺めるから、重要なものだ。
 革命家のことを書いたと思えば、バイクで世界を駆けるなど、常識破りな行動で知られた人も、最近は話題となることが少なくなっていた。がんに冒されたと伝える訃報にも、昔の著作が並ぶだけで、近年の作品は出てこない。過去の人と言ってしまうのはどうかと思うが、何となく、そんな気分で接する訃報だった。あの世代の人々は、団塊と呼ばれ、一括りにされることが多いが、そんな扱いに、不満を表す為の言動だったのかもしれない。こんなことを考えていたら、今度は、電子メールで訃報が届いた。業界の長老の死は、その業績を、改めて考える機会を与えてくれたが、正当な扱いを受けてこなかった人に、不遇を感じた人も居たのではないか。こんなことは、どんな世界にもあり、不当な扱いの主因となる人の存在は、指導者と呼ばれる反面、歪みを生じる源となる。歴史は、事実を伝えるものとの解釈がある一方、様々な歪曲や改竄が繰り返され、史実は事実とは異なると言われる。業績も、それらが出される段階で、人為的な圧力を受けていれば、それ自体が事実とされる訳で、その裏にあった出来事に、目を向けることは、渦中の人を除けば、不可能だろう。正しく伝えられても、既に歪曲されたものであれば、事実とは異なる。そのままに伝えることの難しさは、こんな所にもある、と考えていたら、もう一人の長老の訃報が流されてきた。これで、一人を除き、あの時代に活躍した人は、皆姿を消した。まるで、「そして誰もいなくなった」とばかりに。

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7月30日(火)−空振り

 何処かで聞いたことがある、と思った人も居るのではないか。災害の報道がある度に、今まで見たことが無いとか、初めてとか、そんな言葉で表される、経験を主張する表現である。これは、画面に映る一人の人間の話に過ぎないが、それを一般化したものだろう。だが、経験はあくまでも個人的なものではないか。
 そんなことを考えながら、確か、しばらく前に同じようなことを書いた覚えがある、と思っていた。久しぶりに検索してみた所、一年前に避難を促す言葉として、強い印象を与える為に使われ始めた様子を書いていた。そんな言葉に頼ろうとする気持ちは、分からなくもないが、効果の程は、結局大したことが無かったようだ。次の方策として、更なる効果を狙った表現が決められたらしいが、それまでは、相変わらずの「経験」を押し出すしか無い。だが、言葉の重さの問題より、指示や命令に対する考え方の問題の方が、大きいのではないか。震災の教訓から、警報の言葉遣いや的の絞り方に、改善を狙っているようだが、今回も、以前と同様に、空振りに終わりそうな気配だ。命令に従わずに、責任を転嫁する心情に、効果を及ぼす言葉があるとは思えず、例の如くの不安を煽る話も、ただ漫然と流されるだけに終わっている。脅しも、何度も出されることで、効果を失い、意味を為さなくなる。警報の出され方を見ると、このことが一番大きな問題であり、慣れを防ぐ手立てこそが、重要となる。だが、この筋書きこそが、真の問題に蓋を被せているのではないか。指示や命令を受け取る側が、慣れることが無いようにすれば、こんな心配は無くなるのだが、やはり無理か。

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7月29日(月)−本来

 本来の役割を果たすべきと、何度も書いてきたが、依然として、そんな気は起きていないらしい。不安に繋がる話があれば、すぐに飛びつくものの、安心の兆しが現れると、蓋をしようと躍起になる。数字の扱いも杜撰で、印象を強めるもの以外には目を向けず、数字がもつ意味へも、正しい理解が向けられない。
 こんな状況では、僭越ばかりに手間をかけ、自らの本来の役割を果たすことに戻る気配は見えてこない。思惑に満ちた情報に振り回される人の数は増えるばかりで、非常識が常識になってしまいそうな勢いだ。危険性の吟味は、安全安心に満ちた生活において、最初に行われるべき事柄だが、その能力も必要となる情報も、明らかに不足している。そんな状態であれば、皆が非常識にしがみつけば良く、不確かな情報も意図的に歪曲された話も、大いに役立つものとして重宝される。だが、誤りは誤りであり、間違いは間違いである。事実を伝えずに、脚色ばかりを施していては、いつか、それが発覚する時が来る。危険性を明らかにし、真実を暴くことに、人生をかけたいと思って飛び込んだ世界も、いつの間にか腐ってしまった。そんな思いで、彼らが眺めているとしたら、それこそが大きな間違いと言うべきだろう。自分が中心となって、こんな事態を招いておいて、時代の流れのせいにするのは、無責任の極みだからだ。事故後の処理は、長い時間がかかるのが当然で、その過程で、大筋を外れること無く、紆余曲折があるのも、当たり前のことだ。それを承知の上で、一つ一つの事象を伝えることは、必ずしも、事実を伝えることには繋がらないことに気付くべきだろう。一方、受け手側には何の責任も無いという話も、いい加減に止めにした方が良い。

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