パンチの独り言

(2013年8月5日〜8月11日)
(先後、悩み、目的、虚実、事実、指示待ち、史観)



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8月11日(日)−史観

 事実をそのままに伝える読み物は、ノンフィクションと呼ばれる。事実に基づくのだから、架空の話でもなく、虚構でもない筈だ。それを生業とする書き手にとって、読み手の心を掴むのは、事実の羅列であるべきだが、余程の事柄でない限り、興味深い話の連続とはならない。そこで、少しの色が加えられる。
 脚色とか演出は、事実だけでは味気なくなる話に、魅力を加える為に施される。やむを得ない存在とされることもあるが、度を過ごすと架空の話になりかねない。そこに難しさがあると言われるが、一方で、そこに楽しみがあるとの見方もある。経済小説と呼ばれる分野で活躍する著者は、事実を曲げないことを信条とし、最低限の脚色でとどめることを心がけていると言う。面白さを追うばかりに、事実を歪曲させてしまっては、自らの役目が果たせない、という訳だろうが、全てがその通りかと問われると、どうだろう。過去に起きたことを書き記す役割は、専ら研究者に託されるが、一部、小説家と呼ばれる人々が担うこともある。歴史小説の分野で活躍した人にも、色々な考えがあるのだろうが、始めからそれを生業にしてきた訳ではない人にとって、自らの役割をどう考えるかは、重要なものに違いない。史実に基づくものの、そこにある程度の脚色を施し、関係者からは事実をねじ曲げたと批判された人も、元々は事実を正確に伝える為の役所に勤めており、事実の大切さを理解した上で、歴史小説の本質を面白さという点から捉えたと言われる。別の小説家は、そこに施した脚色を、独特の歴史観と捉えられることに、生前良い顔をしなかったとされる。確かに、脚色の主体は書き手そのものにあるのだから、それを独特の見方とするのは一つの見解だろうが、脚色と見方は、必ずしも同じものではない。事実を伝える職業に就いた人にとって、史実の解釈に及ぶ話は、虚構を築く立場とは、かなり違ったものに思えたのだろう。今や、目の前の現実にさえ、勝手な解釈を塗り込める人が出る時代である。彼らは、こんな人々をどんな目で眺めるのやら。

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8月10日(土)−指示待ち

 誤報に対する批判が高まる中、警報の遅れに対して、厳しい声が上がる。毎度お馴染みと書いては、不謹慎との指摘を受けそうだが、そうとしか表現できない程、同じ状況、経過、等々、並べられている。確かに、被害を受けた人にとっては、悲劇以外の何ものでもなく、原因は恰もそこにあるように見える。
 何処かで独特の警戒音が響く。ほぼ全ての人が保有し、その多くが設定する中では、当然のことだが、無関心な人間には、何事かと思える。心の準備の為とは言え、遥か彼方の大地震を、こんな形で知らされても、どんな意味があるのか判らない。今回は誤報となり、そちらへの批判が集まるが、この仕組みが何の為にあるのか、そんなことを話題にする人は居ない。情報は注意を促すものであり、その後の行動への判断に、役立つ筈のものとされるが、果たしてそうなのか、と思う。警報は、ある意味、驚かすことによって、その役目を果たす訳だが、受けた人間がどんな反応をするのか、設定した本人さえ、理解できていないようだ。自分で選ぶものさえ、こんな具合なのに、上から落とされる警報に、どんな感覚を抱くのか、十分に理解できる筈もない。そんな中で、発令の遅れを批判し、被害を招いたかの如くの言動を繰り返す人々は、一体何が判っているつもりなのだろう。他への依存度ばかりが高まり、自らの判断を下さぬ人々に、何らかの災害が襲ったとしても、それは自業自得なのではないか。周囲の状況を見極め、それを頼りに自分なりの判断を下す。ごく自然な流れだが、最近は普通ではないとされる。指示待ち人間は、職場で嫌われる存在となっているが、警報待ちの人々は、まさにそれと酷似する状態を作る。そう考えると、これもまた世相の一つとなるが、もしそうなら、批判の対象は何処にあるのか。各自の判断で動くと、勝手な行動を叱責されるが、その内容に目を向けず、冷静な判断までも同じ扱いを受けるようでは、どうにもならない。横並びで居たいなら、被害を受けても、文句を言うべきではないだろう。

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8月9日(金)−事実

 事故直後に、様々な解説が施され、難しい内容の理解を助けようとする動きがあった。これは何も、特殊な内容だからではなく、多くの事象に対して同様の手立てが講じられていた。ただ、対象への思惑が取沙汰され始めると、国策への関与を勘ぐる声が出て、詳しい解説も空回りする結果となってしまった。
 その後の展開は、専ら事実を伝えるだけのものへと変わり、事実に対する理解は、棚に上げられることとなる。確かに、事実は事実であり、それを正しく伝えておけば、何の間違いも生じない。意図も思惑も、入り込む余地がないから、批判される心配はない、という訳だが、その結果は、どんな状況を招いたのか。事実を並べられても、それが何を意味するのか理解できず、過度な不安だけが強調される状況では、騒ぐ人のみに注目が集まり、その根拠に目が向けられることはない。始めの考えが何処にあったにしろ、不安を煽る結果へと繋がったことは、否定できない事実だろう。事実の羅列も、始めは正確な数値を並べることに力が入れられたが、いつの間にか、そこに並ぶ数字への無理解から、単純な数値のみを選び出す操作が施され始めた。事実の一端を紹介することは、本来の目的に沿ったものとの解釈だろうが、現実には、処理後の数値には意味を成さないものが多い。例えば、比較の為の相対値は、比べることを助けるけれど、元となる絶対値が見えない中では、大小を比べることにしか繋がらず、危険の程度を示すことにはならない。量の問題さえも、直接的な数値を示さず、間接的なものを採用するのも、その反響を意図した結果に過ぎない訳だが、事実を扱うという考えは、曲げていないとする。こんなに役立たずの数値でも、事実の一つなのだから、方針は正しく果たされ、受け手にも正しい理解がもたらされる、という訳だろう。だが、現実には、事実の理解ではなく、不安の煽りという意図ばかりが強まり、その成果ばかりが評価されているのではないか。こんな連中に期待するものは無く、やはり、こちら側が理解力を高めるしか無い。

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8月8日(木)−虚実

 日々の生活の中で、様々な差を感じることがある、という。格差社会とか、差別社会とか、そんな言葉で言い表される状況だが、現実にどんな差があるのか、明確に示されることは少ない。その代わり、人々の感覚が専ら取り上げられ、実感という表現で、現実感を強める手立てが講じられる。虚を実にする為か。
 差別が問題視されるのと並行して、人権の問題に注目が集まってきた。これらの繋がりは、原因と結果のように直結するものと見なされるが、実際には、それほど簡単なものではないだろう。この経緯の中で、特に気になるのは、差別も人権も、客観的な見方より、主観が主体となってきたことだ。自分がどう感じるかは、確かに重要なものに違いないが、他人との差を意識することが、これほど前面に押し出されているのは、今の時代の特徴なのかもしれない。差があることは、誰がどんな見方をしようとも、歴然としたものであり、否定することはできない。だが、それが所謂「差別」に結びつくかどうかは、確実なものではない。にも拘らず、これほどまでに差別が問題視されるのには、その主体の変化が大きく影響している。当事者が自らの処遇に不満を抱くことは、どんな時代にも起きていたことだろうが、それを差別と主張することは、必ずしも正当なものとは言えないだろう。自身の評価と他人の評価が異なるのは、至極当然なことであり、見る方向が変われば、そんな違いが出るのも不思議なことではない。その中で、不公平を殊更に取り上げ、差別の考えへと結びつける。こんな論法が通用するように見えるのは、何事にも自分を中心に据える考え方が、いつの間にか台頭してきたからであり、根本とか基礎と表現されるものが大きく変化したからだろう。自分を大切にしたい心は、誰もが持つものだけに、それ自体を否定することは難しい。だが、客観を失っては、多くを見失うのではないか。

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8月7日(水)−目的

 何の為に働くのか、と聞かれて、答えに窮する人が居る。生活の為とか、遊びの為とか、最近は直接的な理由を挙げる人が多いらしいが、そんなものなのだろうか。そこで一つ二つ質問を加えると、途端に答えが曖昧になる。世間一般で通用する答えだから、という安易な返答では、何も定まらないということか。
 仕事の目的は、そう簡単に答えが見つかるものではない。そんな思いに至るのにも、かなりの時間を要するから、始めたばかりの人に尋ねることではないのだろう。だが、何故かは分からないものの、こんな質問を繰り返す人が居る。その目的さえはっきりせず、ただ漫然と同じことを繰り返すのは、何の意味があるのかと思える。働くのは社会の構成員として当然のことだから、と答えたとすると、すぐに「えっ」という声が返ってくる。予想外の答えに、正直な反応で応えたのだろうが、果たしてこれは意外な考え方なのだろうか。仕事が楽しいからとか、社会の役に立つようにとか、そんなことを聞いて育った人々にとって、当然という理由は、成立し得ないものに思えるようだ。だが、たった一人で生き延びるのではなく、社会の中で、他人との関係を築きつつ生きる人にとっては、当然というのが唯一の答えになるのかもしれない。目的ばかりが強調され、自然の帰結としての答えは、無意味なもののように扱われる時代には、こんな扱いを受けることもあるだろうが、実際には、在りもしない目的を掲げ、それに突き進むかのように振る舞うことは、全く無意味なことに過ぎないのではないか。こんなことも、無理矢理考えろと言われては、ただ迷惑なだけとなるが、自然の成り行きで、こんな考えに至ることがあれば、それは正解の一つとなるのではないだろうか。

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8月6日(火)−悩み

 自分が何をしたいのか、わからないと言う若者が増えているらしい。やれることは沢山あるが、やりたいことは見つからない、という訳だ。悩むことを勧め、その過程で答えが見つかる、と言う人の数は多いが、始めの若者たちが見つけたかどうかは明らかでない。悩むことの重要性は確かだが、答えに届くかは定かではない。
 彼らの動きを眺めて、気になる所があるとすれば、悩み方にあると思う。見つからないことに対し、どんな探し方をするのか、人それぞれとはいえ、首を傾げたくなることがある。新しい環境に馴染めず、その不満をしたいことからの乖離として、表明する人が居る。やりたいことをする為に進んだ場所が、期待にそぐわぬものだったとする訳だが、では、何をしたいのかと問うと、まともな答えが返って来ることが無い。見つからないから探し続ける、という話が間違っているとは言わないが、何を探せば良いのか、何を見つけたいのか、それが分からぬ状態では、どうしたものかと思えてくる。待てば何とかなるものならば、と思うが、さて、どうだろうか。あれも駄目、これも駄目と続く中で、したいことが見つかったとしても、それがまた長続きしない。こんな様子を眺めていると、答えが見つかることは無いように思えてくる。全ての同世代の若者たちが、同じ症状を抱えている訳ではなく、大多数は昔と同じように、何の悩みも無く、新たな環境に進んでいく。とすれば、一部の悩める人々は、そのまま放置しておけば良いのかもしれない。ただ、現代社会の仕組みでは、手取り足取りが当たり前であり、放っておくことは禁忌のように扱われる。助けられるものなら、と考える人が居るのは、ある意味仕方の無い所だろうが、自身でさえ、その対象が見えていないものを、どうにかするのは、やはり無理難題なのではないか。

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8月5日(月)−先後

 経済は、本当に回復しているのだろうか。国内だけでなく、海外の動向を眺めても、株価が最高値を更新するなど、期待だけではなく、実質を伴った形で、回復どころか、成長、上昇に転換しつつあると言われる。だが、関係者の多くは、浮かれてはいけないと自らを戒め、警戒を怠らぬように気を引き締めているようだ。
 心理的な効果は一時的に得られたものの、実質的な回復は目に見える形では現れていない、と伝えられてから、人々の目は遠い存在でしかない経済指標ではなく、自らの生活に直結する収入の増加に向けられている。当然の成り行きと見る向きもあるが、全体の仕組みから見れば、経済指標の回復が明らかとなり、それが安定した成長に結びついて、初めて給与への転換が可能となる。つまり、庶民にとって身近な存在が、実は社会構造では遠い関係にあり、即座に変化が見られる訳ではないのだ。にも拘らず、人々は自分に関係するものにしか目を向けず、遅々として進まぬ回復に、苛立ちを覚える。伸び続けた時代には、全てが増え続けた訳で、それが当然だったのだろうが、一度落ち込んだ後には、同じ経過を辿ることはできない。冷静に見れば、当たり前のことだが、今の窮地を抜け出したいと願う人々にとっては、即効性への期待だけが強まる。長い目で見ることは、何時の時代にも当てはまることだが、落ち込んでいる人々には、何処から下りているかもしれない「蜘蛛の糸」とて、上昇のきっかけに飛びつきたくなるものだろう。だが、回復の為に基礎固めすること無く、細い糸に皆がしがみついたら、そのきっかけも切れてしまうのではないか。回復への優先順位は、見かけのものは明らかになっているものの、実効性のある手順に関しては、定かではない。朝と暮れの餌の量の話ではないが、目先に囚われる人々にとっては、早く手にしたいと願うのも当然だろう。だが、もしそれが長続きしないのなら、両方とも減らすことも必要となる。どれから手を付けるか、悩み所に思える。

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