事実の伝達に演出は不要と言う人が居る。確かに、事実をそのままに伝えるのであれば、そこに細工は一切必要なく、ただ、記録を流すだけでことが足りる。だが、それでは、事実を把握する為に、全ての人々が同じ経験をする必要があり、かかる時間も同じとなる。雑多な情報が氾濫する中では、無理がある。
一人の人間の経験を基に考えれば、今の時代のように、様々な情報が流されていることは、処理しきれない状況を招く。一度に使える時間は一つしかなく、その中で経験できるものも、複数にすることはできない。にも拘らず、情報を手に入れることこそが、生き残りの手段であるとするならば、始めのような、細工を施さない情報には、手を出すことができなくなる。では、ダイジェストと呼ばれるような、短縮版ではどうだろうか。演出に対する解釈にもよるだろうが、短くすることで、取捨選択が行われ、担当者の思惑が、何らかの形で入り込む事態を招く。ただ単に短くしたものは、映像にしろ、文章にしろ、前後の繋がりが見えず、役立たずのものへと変貌する。それを補う為に、前後を入れ替え、新たな表現を差し込むことで、短くとも用が足りるものを作り出す。これを演出と呼べば、そうなるに違いない。更に、細工の程度により、事実の歪曲に至ってしまう場合も出てくる。皆がこんなことをしていれば、互いに鵜呑みにせず、吟味を繰り返すのだろうが、今の時代は、鵜呑みにする人が急増し、それに乗じるような嘘吐きが横行する。こんな世の中では、情報の流れの最下流に居る人々が、自らを守る為に、知恵を身につける必要がある訳だ。解りきったことのように見えるのに、何故鵜呑みを繰り返すのか、理解不能となるが、現実は、そんな状況にある。確かに、一つの見方を紹介することに、意味が無い訳ではないが、事実伝達と見方は、全く異なる行為となる。それを忘れてはならない。
新しい道具が次々に発明され、生活が便利になる。誰もが経験したことだが、便利とは何か、改めて考えてみたことがあるだろうか。様々な道具が世に溢れ、便利さばかりが強調されるが、世の人々は、使えない道具に四苦八苦しているのではないか。便利さを享受する為に手に入れた筈が、不便に振り回される。
有名講師の話が、画面から流されるのを眺め、受験戦争に勝ち残れるとは、誰も考えないと思っていたら、多数を相手にする為の手立てとして、使い始めた予備校があった。効果の程は判らないが、画面を通してでも、有名な人の話を聞けば、現実感が出る人が居るのか、人気はあるらしい。便利な道具の話が、何故こんな話に繋がるか。記録媒体の発達が、その場に居た人々だけでなく、後からそれを眺める人にまで、事実を伝えることを可能にした、という訳だ。だが、効果の程を考えると、事実が伝わるかどうかは、受け手によると思われる。これは、その場に居たとしても、全てが理解した訳ではないのと同じで、媒体のご利益を得ることができたしても、それを役立てられるかどうかは、別の話ということだ。臨場感を持たせることでの事実伝達は、確かに、ある程度は可能とできるが、一方で、その場と同じ時間の流れが必要となる。その代わりに使われるのは、切り貼りした映像や文字による抜粋だろう。だが、事実の切り取りは、殆どが多くを失わせ、全てを伝えることを難しくする。更に、仲介者の存在は、その人の理解を伝えることになり、事実が歪曲される恐れもある。基地問題で揺れる地域で、墜落事故から、新たな装備の移送が中断されたとき、その理由を原因究明と伝えたものがあったが、再開された時、原因は明らかになっていなかった。不満の声が上がるのも、この事情ならやむなし、と見る向きが出てくるだろうが、実際に、事故原因の解明と中断には、繋がりは無かったのではないか。一部の仲介者が、想像を巡らせた結果、事実と異なるものが伝わる。一部が事実なのだから、正しい伝達とはならないことに、気付かないのか。
成長期にあった時には、将来への期待が常に念頭にあり、より良い生活を夢見る人々で社会は溢れていた。では、弾けたことをきっかけとして、停滞期に入った後、人々の期待は何処に向けられたのか。消し飛んだとする考えもあろうが、多くの人の頭の中では、一度膨らんだ期待が萎まずに居座っているのではないか。
老後に不安を抱く人の数は、以前に比べると格段に増えている。家族との生活も、子が親の面倒を見るのが当然とされた時代と違い、親を頼りに生活を続ける子が目立ち始めている。特に、親が頼れる存在である今と違い、30年後には、自らがその存在となれるかどうかが、最大の問題となる。頼り頼られる関係を脱し、自立することを前提とした場合、停滞期は、様々な障害ばかりが増し続け、将来への不安は、期待を遥かに上回る存在となりつつある。そんな状況を、収支の比較から分析し、備えを促す意見が、様々な形で出されているけれど、支出の概算に違和感を覚えた人も居るのではないか。二人暮らしで22万円の支出に、その根拠も項目別に示されていたが、細目ごとの疑問だけでなく、大きな部分を占めるその他の項目には、何故という思いを抱く。日々の暮らしにかかる経費は、人それぞれに異なるものと思えるが、この額が妥当なものかどうか。更に、明らかに足らない収入に、それを補うべき蓄えが、一億を超えるものと聞けば、多くの人は何を思うだろう。試算も重要だし、備えも大切だろう。だが、不安が膨らむばかりで、分相応の生活を見失っては、何の為の準備か判らなくなる。将来の展望の前に、目の前に目を向けることが、まずは必要なのではないか。
経済の見通しは、専ら増税との関連で語られる。冷え込んだ状況から、やっとのことで脱出しつつあるのに、何故逆戻りさせるのか、という解釈は、専門家も含め、好んで語られるものだが、根拠はどの程度のものか、はっきりしない。元々後付けの解析だけで生きてきた人々に、予想は余りにも荷が重い気がする。
マクロとかミクロとか、恰も見方の違いにより、解釈の違いが生じるかのように言われるけれど、果たしてどうなのか。経済という袋の中で、どんなことが起きるのかに付いて、局所的な変化に注目するか、全体を見渡す努力をするか、それぞれで全く違った様相が出て来るのには、全く別の要因があると見るべきだろう。関係する要素を並べ、その変遷を予想することで、全体の流れを見極めるのだろうが、どうも、そんなに簡単なものではないようだ。その代わりに、解析に使われるのは、自らの論理展開に都合のいい、一部の要素を殊更に強調し、都合の悪いものに蓋をする手法であり、意見の偏りは、議論を始める前からあったものとなる。当たったか外れたか、などという話も、事実を解き明かそうとする気がなく、単なる思いつきを並べる状況では、まるで宝籤か何かを買う態度そのものであり、表面的な分析が並べられても、その積み重ねが何かを導くとは思えない。所詮、人間の身勝手な営みの結果に過ぎず、そこに思惑が現れるのも当然であり、それによって全体の動きが左右されるのは、当たり前のことに過ぎない。だとしたら、躊躇するばかりの態度では、何も打開できないこととなるのではないか。それこそが、失われた時代の最大の原因だとしたら、思い切ってやってみるのも、一手に思えてくる。
客と店の関係は、一方的なものとされる。今の人々にとって、当然に映る関係だが、こんな形になったのは、ごく最近のことであり、以前は、こんな所にも、お互い様の関係があった。「神様」と呼んだ人が、持て囃されたのは、現実がそうでなかったからであり、当然ならば、聞き流されたのではないか。
これを極端な関係とする見方もあるだろうが、実際には、白黒はっきりした区別が好まれる時代で、お互い様などとする、どっち付かずの関係は、理解不能なものと嫌われる。分かり易さが優先され、あるべき関係が崩壊することは、方向を間違えれば、均衡が失われ、社会そのものの維持が難しくなる。民と国の関係が、互いの利益を求める形であるべきが、いつの間にか、始めに取り上げた、客と店の関係のようになり始めた頃、民を中心に据える考えでは、権利拡大を歓迎する声が高まったように思う。だが、懐具合を考えると、収入と支出の均衡が崩れ、一方的な関係を維持する為に、無謀な施策さえ行われることになり、今の問題が、小さなものから、一気に膨らむこととなった。国民にとって、自らの利益を考えるだけで、お互い様の考えを放り出せば、一時の得が手に入ったとしても、結局は、全体の破綻に徐々に近づくしかない。どんなに脅されたとしても、自身の事しか目に入らぬ民には、何をすべきか、などという答えは見えない。国が民の利益を考えつつ、自らの利を追ってきた時代と違い、一方的な施しを要求される時代には、お上の決めたことにさえ、異論を唱えることは、当然の権利と見なされる。民主主義の典型として、好まれる考え方だが、今では、愚民主義と揶揄されている。このまま自滅に突き進むとしたら、どうすべきか、考えているだけでは、いけないのでは。
「今でしょ!」、言い訳ばかり重ね、煮え切らぬ若者たちに、行動を促す言葉として、予備校講師が長年使ってきたものが、広告をきっかけに、興味を誘ったようだ。踏ん切りをつけられないのは、若者の特徴のように見られてきたが、現実社会は、煮え切らない、生焼けの料理のように、食欲を失わせるものとなっている。
失われた自信が回復する機会は、見出されること無く、一昔どころか二昔を超えてしまった。その中では、筆頭に扱われるものの殆どが、言い訳ばかりとなり、自信喪失による消極性を、吹き飛ばす積極性は、何処にも見出せない状況に陥っている。そんな世相に、「今でしょ!」という呼びかけが注目を浴びるのは、何とも皮肉なものと映るが、物事を深く考えない人々にとって、流行はただ単に追いかけるものであり、そこに意味を見出すことは決して無い。考えない連中を相手に、意味を説いたとしても、受け入れられるどころか、耳を傾けて貰える筈も無い。判りきった状況で、未だに得々と持論を展開する学者たちには、学問の理解があったとしても、事実の理解は無く、机上の空論にしがみつく姿勢は、依然として保たれている。成長期に入ったと、自慢げに語る政治家たちに、疑いの目を向けることは、何の間違いも無いことだ。だが、それとこれとは別と思えるのは、減る一方の税収と、増える一方の支出の差を、どのように縮めるかの問題だ。一方的な変化に、講じるべき手立てを持ち出すのに、これまで同様の先送りに触れるようでは、机上どころか、浮かぶ泡の様に、すぐに割れてしまうものに映る。社会の維持に必要な要素を考えること無く、目の前の課題だけに目を奪われていては、何の解決にも繋がらない。今やるべきことは何か、と強調する人程、やってみる勇気がないのだろう。
国の存在を危うくする話なのだろうか。節税の話題は、以前であれば、如何に税の徴収を避けるか、という点に絞られ、同じ税制が適用される範囲での、ささやかな抵抗と言われた。国民の義務を果たす中で、できる限り、自分に有利になるように、別の言い方をすれば、損をしないように、というものだった。
それぞれの企業が国内産業であり、たとえ、他国で収益を上げたとしても、それぞれに税が課せられる仕組みが、当然とされていた時代と違い、世界の国々の繋がりが、密接となるに従って、同じ企業の存在が、国ごとに異なるものであるだけでなく、その間で収益の移動が見られるようになった。同じ組織内での移動は、当然のものであるとの見方がある一方、収益そのものは、その国で得られたものであり、課税の観点から言えば、それぞれに課せられるべきとの見方がある。これが問題視され始めたのは、税率の多少により、低い国への収益の移行を図る動きが出てきたからで、節税の一種と見る向きと、脱税の一手と見る向きが、対立する図式が築かれている。元々は、本社への移動という手法が、多数の国で収益を挙げる企業の基本とされていたものが、本社という考え自体が、仮想空間に属するものとなり、その存在が自在に扱えるようになったからだろう。以前なら、西の大都会に置かれたものを、東の都会に移すことが、首都の利点を得る為のものと言われたが、存在が紙の上だけでも、現実のものとなっていた時代と違い、今では、全てが仮想的なものとなりつつある。となれば、自らに有利になるように、様々な手立てを講じる中で、こんなことが起きるのは、当然となる。よく考えずとも、何となく答えが見えるのは、商売の基盤こそが課税の対象、という見方ではないか。商取引による収益への課税は、それが行われた場所で、とすれば、こんな混乱は起きない。たとえ税率が高くとも、収益が上がるのであれば、手を出すのが商いの基本なのだから。