学問は、事実の検証と論理的解釈などにより、進展すると言われる。人々は、そこから得られる知識を、確実なものとして信頼し、判断の材料として使う。その一方で、いつの時代も、事実の誤謬と論理の飛躍に基づく、怪しげな偽学問が存在し、大衆を混乱に陥れる。トンデモ、と呼ばれる代物は、百害あって一利無しだ。
この問題に関して、最近の傾向は、更に深刻となっている。不安を煽る風潮も、この悪弊に対して、追い風となっているが、どちらの問題も、同じ根っこをもっていることに、気付くべきではないか。丸暗記が推奨され、その能力が学力を測る手立てと見なされる中では、理解は邪魔者として切り捨てられる。教育現場が、如何に馬鹿げたやり方に毒されているかは、今更取り上げても無駄と思え、諦めにも似た感覚を抱く。確かに、教え込む立場からすれば、遮二無二覚えることが、最も判り易い指標の一つであり、判断材料として使い易いものとなる。だが、それで人間の成長が測れるか、となると、話は別ではないか。長期に渡り注目されてきた問題について、対応策の無いままに放置してきたことは、愚民政治を導くことに繋がり、群集心理を用いた世論の操作を、容易なものにしてきた。施政者にとって、これほど魅力的なものは無いが、一方で、極端な変動を起き易くすることに、安定を失う危険性は、増すばかりとなる。高い偏差値を誇ったとしても、理解力の欠如が徐々に大きな問題となり、限界を感じた時には、既に手遅れとなる。個人の問題として片付けることは難しくないが、その弊害が周囲に及ぼす悪影響を考えると、このまま放置することに、何らの利益も無いことは、確かなのではないか。
返事はいいけれど、肝心なことは判っていない。軽い、と表現される若者たちに、辟易した経験を持つ人は多い。「はい」と返ってくるから、当然理解しているものと思ったら、何も伝わっておらず、叱るしか無くなる。だが、その後も何の変化も起こらず、同じことを繰り返す。困った人々が世の中には居る。
指示や命令は一度だけ、と言われて育った人々にとって、こんな若者たちは、足手まといだけでなく、邪魔そのものの存在になる。何故伝わらないのか、という疑問の前に、何故「はい」と返事をするのか、気になる所だ。伝わったか、理解できたか、と質問すると、そんな返事が戻ってくる。こちらの理解は、当然の一つしかない。だが、結果は、無理解であり、指示の内容は、殆ど伝わっていない。では、何故、肯定の返事をするのか。尋ねてみると判るが、その時点では理解できてなくても、後で判るだろうから、との説明が返ってくる。それでは、嘘を吐いているのでは、と質すと、「はい」と言わないと、相手に迷惑がかかるから、などと言い出す始末。やれやれ、失敗の後の迷惑は、どうなるのか、と思う。こんな連中は、別の特徴も見せる。彼らの纏めた報告書には、同じ事が何度も出て来るのだ。そういえば、と思い出すのは、最近の教育現場の話。少ない内容を繰り返し学ぶことで、成績を確保させる、という方式は、一度で、という話と正反対である。これがもしかしたら、と思い当たる話で、同じ事を何度も繰り返して、やっとのことで覚えてきた人々は、一度きりの指示では、何の理解も得られないが、以前同様のやり方を願っても、上司から叱られる訳だ。この部分で困り者の若者は、報告書でも無駄な反復を施す。簡潔な纏めとは、字数だけのこととなり、不可欠な内容への配慮は無い。今や、新人類などとは呼ばれず、皆がこんな状態になっているとしたら、現場は大混乱なのでは。
不安という言葉が、これほど好まれるのは何故か。心情を表すものだからという意見が多いのは、ある程度承知しているけれど、表すべきものかとの疑問は残る。心配とか不安が、心の動きを捉えたものであるのは事実だろうが、その場で表明することに意味があるか、そんなことばかり、思わされている気がする。
最も大きな疑問は、済んでしまったことに不安を抱くことにある。始まる前の不安は、誰しも抱くもので、何が起こるか判らないからこそのものだろう。だが、終わった後の不安は、何だろう。面接が終わった後、どんな結果が出るのか、不安になるというのだが、済んでしまったことはそれまでであり、それに対する結果は、どんなに不安を抱こうが、心配しようが、変えようが無いものである。全力を尽くして、相手の判断に委ねる。それだけのことの何処に、不安や心配が入り込めるのか、さっぱり解らない。だが、現状は、そんな人々が社会に溢れ、恰も同情を求めるが如くの言葉を、繰り返し呟き続ける。何故、と思うのは、こちらとの見方の違い、なのかも知れないが、見方の問題か、と思う。済んでしまったことに悔やむ思いを抱くのは、後悔であって、不安とか心配では決して無い。何処から、この考え方に変化が起きたのか、全く判らないけれど、何時の頃から、後悔は良くないことであり、心配や不安は良いことのように受け取られるようになる。精神の不安定が社会問題となる中で、これが当然のことのように扱われるのが、問題を更に深刻化させることに繋がることに、気がついていない人々の思考力の無さに、呆れることさえある。自ら不安を招き、精神を病むことに結びつけるのは、他との関わりではなく、自分の中だけで閉じたものとなる。自業自得とは、こんなことにも当てはまるのだろう。優しい言葉でなく、突き放す言葉こそが、正しい対応なのではないか。
選ぶことの責任、上の人間が下を選ぶ時には、何処かにそんなものがあるように思われるが、逆の場合はどうだろうか。下に居る者が上を選ぶことは、殆ど起きないものだが、代表者を選ぶという形式で、投票を介することがある。選んだ責任の所在は何処に、などという問題は、議論する必要も無い程に、決まっているのでは。
代表は組織の意見集約をし、結論に導くことが役割だが、選ばれる時の約束は、その後の展開によっては、反古にされることも多い。裏切られた、と評される行動の一つだが、それを含めて、選んだ責任は消える訳ではない。魅力的な約束を重視し、その実現性を測らなければ、誰もが夢を追いかけるだけとなり、現実は遠ざかるのみとなる。選択の基準は、様々な要素を含むもので、逆に言えば、一つの約束に対する責任だけでなく、全ての行動に当てはまるものとなる。この部分への理解は、特に近年、著しく減退し、場当たり的な行動が目立つ。代表は、全員に代わる存在であり、選ばなかった人も、そこに含まれる。別の候補に投票したからと、責任を放棄する行動も、実際には、投票行動の基本を、理解していないこととなる。こんな非常識が横行し始めたのは、民主主義への無理解が著しくなった頃だろうが、それにしても、各自が勝手な言動を続ける状況に、解決の糸口は見出せない。更に、問題を深刻にするのは、基本的な考え方でなく、仕組みの問題とする見方で、構成員がそれぞれに負うべき責任を、放り出していることに、気付かないことだろう。選ばれし者たちの責任だけでなく、選んだ側の責任を、もっと強調する必要があり、それを前提として、何をすべきか、考えてはどうか。現状は、的外れの議論が盛んなようだ。
能力もさることながら、意欲の有無が鍵となっていたのではないか。夢と希望を抱くだけでなく、家族親族の期待を一身に背負って、歩む道に、楽なものなどある筈も無く、努力を続ける精神力が最大要因となっていた。機会を得られる人の割合は、一割にも満たない状況で、意欲を失った若者は、消え去る運命にあった。
当時は、最低限の教育で十分との考えがあり、家庭の事情が進むべき道を決める要因となった。優秀さは当然必要となるものだが、それだけでは機会は得られず、やむなく断念する人も沢山居た。時代が変われば変わるもので、半数以上の人々が、その機会を得られるようになったが、簡単に手に入ることは、様々な要素を失わせる結果に繋がった。能力の低下は、言うまでもないことだが、それに加えて、意欲の減退の著しさは、深刻な事態を表している。教えずとも、這い上がってくると言われた時代に比べ、教えても、ぶら下がったままと言われる時代には、人材育成は、難しさを更に増しつつあり、試行錯誤は限りなく続けられる。原点に立ち戻ってみれば、目の前に居る人間は、人材と呼ぶに相応しいものかどうか、問題の根源はそこにありそうだ。軽薄短小が、ものに当てはめられていたものが、いつの間にか、人間がそんな変化を呈し、能力だけでなく、意欲さえ失ったままに、機会が与えられる状況に陥る。教わるという表現が使われなくなり、教えて貰うという表現を頻繁に見かけるようになり、多くの若者が、教えてくれないとの苦情を、当然の権利として主張する。意欲の現れは、自らの努力を前提とするが、現状は、どちらも見当たらず、餌を待ち続ける雛のような光景が目立つ。巣立ちの時が来れば、状況が一変する鳥の子育てと違い、ここでは、何の変化も起こらぬままに、時間は過ぎていく。そんな現場に、人材がある筈も無い。
王道とは、基本に則った確実な道筋を表すものと思われるが、ネット上の辞書では、悪い意味が載せられている。安易な方法や近道という意味で、地道な努力ではなく、楽な手立てを示している。どちらの意味で使うかは、人それぞれだろうが、いずれにしても、何にでも通じる方法があるかどうかは、確かではない。
経験者なら、判りきったことと言い捨てるだろうが、夢ばかりを追いかける未経験者たちは、その夢のような方法の存在を信じ、探し回ることとなる。その為に、地道な努力を積み重ね、基本に則る形で道筋をつけることになれば、何も問題は生じないだろうが、安易な選択を繰り返し、楽な道を選び続ければ、解決の道は見出せないままとなる。優しい社会の時代には、こんな人々にも、援助の手が差し伸べられ、王道なる代物が示される。皆が好んで選び、成功に繋がる確率も高いことが、その条件だろうが、かといって、全てが可能となる訳でもない。様々な条件が入り混じり、展開もそれぞれに違う中では、その経過に応じて、微調整を施す必要が出てくるが、そのような多様性は、縋り付く人々にとって、難しい選択を迫り、結果として、失敗に繋がることも出てくる。楽な道ばかりが注目される時代には、地道な努力や細かな分析と対応などという、各自が為すべきことが、無視されることが多いが、これらを前提とせずに、成功を手中にしたいというのは、如何にも勝手な考えではないか。誰かが成功したからと、それを真似しただけでは、中々うまくいかないことが多い。判りきったことに見えて、意外に気付いていない人が多いが、成功はそんなに簡単なものではない、というだけなのでは。
PL法、覚えている人がどれ位居るだろうか。製造物責任法のことだが、ここまで来ても、さて何だったか、となるのではないか。その第一条には、「製造物の欠陥により人の生命、身体又は財産に係る被害が生じた場合における製造業者等の損害賠償の責任について定める」とあり、国民の安全を目指したものである。
正確にその時期を覚えていなくても、それが制定された途端に、あらゆる製品の説明書が、何倍にも増えたことを覚えている人は多いだろう。製造業者の責任とは、まず第一に、安全な製品を作ることであるが、使い方次第で事故を生じる可能性がある場合に、それを避ける手段となるのが、懇切丁寧な説明、という訳だ。あらゆる道具が、使いようによっては、危険なものへと変貌するだけに、作る側がその責任を果たすことには、相当の無理があることは理解できる。その中で実行に移されると、当然の如く、可能性の多少に関わらず、全てを説明しようとする姿勢が現れた。その結果、一部には読む価値なしとの判断が下り、責任を果たしたとする製造側と、それを受け止めていない使用側の、何とも不思議な図式が出来上がった。それでも、常識の範囲で使えば、大抵の事故は回避できる訳だが、あらゆる可能性という言葉が示すように、常識とは、何とも不確かな括りでしかない。そこから見れば範囲外の行動も、一部の人にとっては、何の不思議も無いものであり、普段から何気なく行っているものとなる。BBQの火がおきないからと、着火剤を放り込んで、引火した事故も、注意書を見ずとも解りそうに思えるし、携行缶の話も、同じ類いのものだろう。起きた途端に、必死の形相で伝える人々に、違和感を覚えるのも、その話が非常識を指摘する為か、あるいは、注意を促す為か、はっきりしないからだろう。作った側の責任は、確かに存在するが、だからといって、使う側の責任が、無くなる訳では決して無い。