パンチの独り言

(2013年8月26日〜9月1日)
(資格、増税、進出、満足、解説、受け取り、気配)



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9月1日(日)−気配

 日中に騒音のように響いていた声は静まり、日暮れ時のか細い響きへと変わった。蒸し暑さは相変わらずで、衰えた体力は中々回復しないようだが、季節の移り変わりを、感じる生き物も居るようだ。目に見える数値に、大きな変化が無くても、自然の営みは、その姿を変えていく。何かが起きていることを感じて。
 自分の感覚より、数値を信じるようになったのは、何故だろう。身近な変化を感じ取り、それによって、農作物への手入れを決めていた人も、最近は殆ど話題にならなくなった。山の雪解けの形から、植え付けの時期を決めていた話も、数値解析の結果とは結びつかず、必ずしも正しい情報ではない、とされる。ただ、肝心の数値も、その変動を眺めてみれば、同じ動きをするとは限らず、時々の変化が起きる。所詮完全な予想など無く、その時々で、様子を見ながら対応することが、必要なのだろう。その意味では、身近な変化に目を向けることは、正しい選択の一つとなりうる。それを無駄なものとして捨て去るのも、選択の一つに違いないのだが、広い範囲の解析に頼るばかりで、局所的なものへの対応が可能か、もっと考えてみた方が良いように思う。出回る解析の多くは、広範囲に渡る分析の結果であり、だからこそ、当てはまる範囲も広がり、有効性も高まる。だが、個人が関わる範囲は、ずっと狭いものであり、そこでの変化が、同じとなるとは限らない。それを見極めるのは、その場に居る人間の役目であり、その上での判断が必要となる。虫たちは、そんな責任を感じることもなく、ただ、感じた変化を頼りに声を出す。とは言え、それもまた一つの情報には違いない。何処に目を向けるかは、こちらの問題なのだ。

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8月31日(土)−受け取り

 理解力とは、じっくり考えて解る力と思う人が多いのではないか。確かに、そんな見方もあるが、時間をかけずとも解る力にも、目を向けるべきではないか。考えれば解るということから、その場での理解を放り出す人々は、他人の話に耳を傾けることに、集中力を欠き、聞き取りが不十分になっているのだ。
 中身の意味をじっくりと考えて理解する、という行為が悪いとは思わないが、その場で受け取る情報が、何らかの原因で失われてしまうことがある。その場での理解を追い求めれば、集中も続くのだろうが、後から考えれば良い、と思うことから、与えられる事柄の一つ一つの、確認を怠ることとなる。結果として、後で考えようにも、足らぬ情報に苛立ちを覚える、こととなる訳だ。これまでにも指摘してきたことだが、一度の機会を逃さぬことが、実は重要となることに、気がつかない人が居る。解らなければ繰り返すことで、という形で鍛えてきた理解力では、その場での情報獲得が疎かになることが多い。普段の生活でも、一度きりの機会は良く起きる訳で、どう対処するかが肝心となる。だが、何でも繰り返し、という形式に慣れてしまった人には、これが難物となるようだ。そんなことに悩む人が居るかは判らないが、今までとは違う鍛え方をしないと、対応できないのかも知れない。では、何をすれば良いのか。集中は第一だろうが、それ以外の要素も、ありそうだ。記憶力を高める、という話を出す人が居るけれど、実はそれ以前の問題であり、どう受け取るかが肝心だろう。では、何が。一人一人が考えねばならない。

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8月30日(金)−解説

 何時だったか、第一線の研究者が人材育成の必要性を訴える文を、新聞に寄せていた。研究人材の育成は、既に長年に渡り続けられ、成果が上がらぬ状況に、見直しが検討されていたが、彼女が問題としたのは、そちらの話ではなく、研究の内容を判り易く伝える、媒体としての存在の人材の育成だった。
 最先端の研究は、毎度重要性が強調されるものの、一般には、その意味も意義も理解されず、ただ、重要との言葉が広がるのみとなる。それでも納得させられた時代とは違い、何かと注文が突きつけられる時代には、理解を促す手立てが必要となる訳だ。本来、内容を最もよく知る人間は、その研究に携わる研究者だが、仕事に専念させることが肝心であり、更には、一般に判り易く解説する力が不足する事情から、別個にそれに当たる人材を育成せよ、というのが趣旨だったと思う。妥当な意見とする評価の一方で、人材の流用との意見も飛んでいた。つまり、研究者育成の仕組みが、思惑通りに進まず、水準の向上が望めなくなるのと並行して、人材の行き場が計画通りに増えなかったことから、所謂人余りの状態になっていた訳で、十分な水準に到達できなかった人を、別の形で活用しようとするもの、という解釈もあったのだ。事実、その後に導入された育成制度に参加したのは、一部が、研究者育成からの転向組であった。解説の為に、専門知識が必要となる訳で、これもまた一つの道と言えるけれど、だがそれにしても、という思いを抱いた人が多かったのではないか。一方で、判り易い解説と言えば、研究者で良く売れた本を著した人を思い出す人も居るだろう。件の人物は、既に研究を行う立場にはなく、専ら著作に勤しんでいるらしい。これは、まるで始めの話に当てはまるのでは、とも思えるが、そう考えると、この役にあたる人の能力は、とても重要に思えてくる。何故なら、分かり易さが時に誤りを伝え、誤解を招くことが、彼の著作から明らかだからだ。こんな悪例を眺めつつ、求められるべき人材は、という問題を考える必要があると思う。

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8月29日(木)−満足

 至れり尽くせり、温泉旅館の話ではなく、大学の話らしい。進学率が上がり続けても、母数となる人口が減るばかりでは、限られた牌を奪い合う図式となる。本来の役割である教育の内容は、多様性が強調されるものの、それらの効果を表現する手立ては少なく、いつの間にか、付加価値に目が向けられている。
 この状況の異様さは、本来の価値を覆い隠し、付加的なものだけに目を向けさせていることで、このまま進めば、仕組み全体が崩壊する可能性があることだ。元々、高等教育は付加的なものであり、更に付け加えることにより、本人の価値を高める働きをもつ。最低限のことは、義務教育課程に盛り込まれ、最近ではほぼ全ての子供が進学することから、高校では社会的常識を中心に身につけさせる方式が定着しつつある。教育自体が追加のものなのだから、その内容に関して、質保証の必要なし、との考え方が、以前は大勢を占めていたが、最近は、商取引の如く、品質の保証を要求する空気が濃いようだ。一見当然と思えるものだが、従来の状況からは、矛盾となる点が数多見られる。全員が必ず、という仕組みの中では、教え込む形式が常道となり、内容を限定することで、それを実現してきた。だが、希望者だけが集まる段階では、限定は除かれ、自らの意欲を糧に、可能性は無限に広げられてきた。広がりこそが第一との考えに、保証を盛り込むことは、土台無理な話であり、効果を確実にする数値を示せる筈もない。この状況で、売り込みに使えるものは、やはり付加的なものとならざるを得ないのだろうが、それが、本来の役目から程遠いものを指すとなると、違和感を禁じ得ない。より多くの知識を持つことで、社会での役割を手に入れた時代から、それが問われることなく、学歴のみで評価される時代となると、それを経た上で、より多くの機会を与えることが、大学の付加価値となる。何ともおかしな状況だが、至れり尽くせりこそが売りな訳だ。ただ、不思議なのは、恵まれた状況にも関わらず、動きの鈍い学生が目立つ実情だろう。

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8月28日(水)−進出

 製造業は、モノを作ってなんぼ、の世界を築いていると思う。身の回りのモノには様々あり、それらを供給する企業が、それに当たる。車を作るのも、テレビを作るのも、それぞれの企業の得意分野だが、規模が大きくなるに従い、様子を大きく変えた所もある。中には、モノ作りから撤退したように見える所も。
 新たな考え方を提案する製品を送り出し、経営に当たる人々は、特異な才能を有するとして、人々の注目を浴びた。企業理念としても、従来のものとは違う点が強調され、時代の寵児として扱われてきた。別の新興企業の経営者に、目標の一つと言われる程に、概念の転換さえ起こした製品の開発は、既に過去のものとなり、件の企業の今の姿は、製造業に身を置くとは言えない状況にある。娯楽の媒体に手を出し始めた頃から、経営方針に疑いの目を向ける人が増えたが、金融業界への進出を見る頃には、企業の形態が様変わりしたと断定する意見が大勢を占めた。それでも、名前は以前のままだけに、依然として製造業での活躍を期待する声は、大きく残っていただろう。だが、肝心のモノ作りでも、自社開発した部品でなく、他社から供給されたものを組み合わせるようになると、最早遠い昔になったと思うしか無くなる。企画や広告という世界での活躍となれば、製造業というより、商社になったものと見るべきではないか。そんな企業が、新たな業界へ進出したと、一面で取り上げる意味は理解できないが、ある見方によれば、本来の事業との関連も見えるとある。だが、商社特有の何にでも手を出す姿勢と比較すると、この話題に、それ程の意味があるとは思えない。儲かりそうだから、というのが本心だとする見方は、あまりに偏ったものとなるのだろうか。

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8月27日(火)−増税

 仕方がない、という嘆息が出ることになるのだろうか。慎重な対応が求められる、と強調する声があるが、その必要性を強く訴える声は少ない。庶民への悪影響を懸念し、毎度お馴染みとなった先送りを願う声も高まるが、自分の懐具合は気になっても、国のそれがどんな状況なのか、全く気にならないようだ。
 この話とて、国の借金の返済に、こちらの懐から奪われる話題となると、態度は一変する。今話題とされる国の経済は、かなり深刻な状態にあると言われる。にも拘らず、人々はそれを改善する為の手立てに参加する気は毛頭ない。遠い世界の国の組織を再編し、出費を減らせば何とかなる、という主張は、国の運営に携わる人々から出され、自らの腹の痛まぬ話に飛びついた人々は、その後の展開に、唖然とするばかりだった。だが、そんな経験も、何の役にも立たぬものだったようで、依然として、収支の均衡を眺め、必要性を吟味する機運は高まらない。確かに、財布の中身が減り続けることに、不安を抱かざるを得ない状態にあるけれど、無いなりに何処に答えを求めるかは、考えねばならないことだ。慎重な対応には、冷静な分析が不可欠だろうが、最終段階では、数字だけの判断ではなく、心理的な決断が必要となる。その場で、仕方ないとの判断を持ち込めば、冷静な分析は全て吹き飛ばされる。以前から言われ続けられたものの、結局実現できなかったことから、論理での説明は無駄との見方もあるが、少なくとも、変えることで何が起きるのかについて、最低限の説明は必要だろう。それらの議論を経ることで、更なる改正の必要性にも、踏み込むことができるかもしれない。ただ、逃げ回ることでは、何も解決しないことは、既に明らかなのだから。

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8月26日(月)−資格

 学歴が切り札と言われたのは、遠い昔となった。不問を強調することで、人材発掘を謳った企業は、確かに、特異な才能を持つ人を集めていたが、その他大勢に関しては、難しい状況に陥ったのではないか。一度間違った方に曲がってしまうと、下り坂を進むしか無くなり、折角集めた才能も、無駄となったようだ。
 その後も進学率は上がり続け、学歴そのものは殆ど意味を持たない状況に至る。その質を重視する見方もあるが、入るまでの能力と、企業人としての能力には、かなりの隔たりがあり、発掘の手立ては容易には見出せないようだ。これは見極める側だけの問題ではなく、される側にとっても大きな問題となる。入るまでの努力で選別されるだけならば、そこまで積み重ねれば済む筈が、その後の展開をも求められる。となると、何をすれば良いのか、戸惑うばかりとなる。入れば、後はほぼ自動的に出ることが可能、と言われる制度では、内容が問題となることも無かったが、そこを重視するとなると、何をどうしたら良いのか、答えは簡単には見つからない。ただ、この辺りの事情は、例の如くの思い込みが勝っているようだ。何が要求されるかばかりが注視され、何を学びたいか、何に興味があるのか、という問題には、目もくれない。目標が大きくなるだけで、その過程には一切目が向かない。となれば、唯一の糧は、卒業と同じに見える、資格の獲得となるのではないか。毎週のように入る広告では、それが大々的に示され、始めの一歩のように扱われる。同じ事は、専門学校にも当てはまり、学歴を手に入れた後に、実用性を求める人が集まる。焦る気持ちが強調されるが、基盤となるものには目を向けない。時代を表す行動に、足らないものは何か。自分で考えるしかない。

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