パンチの独り言

(2013年9月2日〜9月8日)
(放棄、お節介、抵抗、脅迫、見通し、特種、予知)



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9月8日(日)−予知

 大雨が降り、大風が吹き、戸惑う人々の姿が映される。突然襲って来る天変地異に、何の手立ても無く、諦めの境地に陥っていた時代と違い、今は何かができるのでは、という思いが過るようだ。技術の進歩は素晴らしく、不可能を可能にする力は、限りないもののように見える。だからこそとの思いは、解らなくもないが。
 日々の変化を予想することさえ難しかった時代と比べ、確かに、精度の向上は目覚ましい。とは言え、占いの類いと呼ばれた頃と、少し違った程度のものであり、皆が期待する程には、辿り着いていない。その昔、研究に力を入れさえすれば、予知が可能になると信じられていた地異も、結局、無理との判断が妥当とされた。予知より対策に力を入れるべきと、反論を掲げた研究者は、頭脳流出の例となる行動に出た。今や、その弟子とも言われる人が、予知の中心だった組織に属する程、時代は変わった。ただ、計算能力の向上は、データ収集力の増強と相俟って、予想の可能性を高めてきた。その中で、数多起きる災害に、その回避の為の手立てを、と望む声が高まるのも、当然と言えるのかも知れない。だが、予想の向上は、その多くが、確固たるデータと確定した展開によるものであり、不確定な要素が山積みの状況では、依然として不可能と言われる。更に、これまでの反響から明らかなように、確率を基本とする予報では、多くの混乱が引き起こされる。我慢強い広報により、十分な効果が期待できる、と見る向きもあるらしいが、さてどうだろうか。狼少年の話は、始めから嘘を意図したもので、最後に真実と向き合った時の様子も、同じものとは言えないだろうが、確率は、当たるまではすべて0に帰する。確実なもの以外に満足しない人々に、どんな情報が適すか、考えておく必要がある。まあ、確率で表せるまでになれば、の話なのだが。

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9月7日(土)−特種

 真実は何処にあるのか、と思った人が多かったのではないか。国内の携帯電話会社の競争は、激烈なものとなっていると言われる。だが、その主体となる電話本体は輸入品ばかりで、今回の騒動の主もその一つだった。唯一仲介していなかった最大手が、ついに進出との報道は、否定の発表も加わり、混乱の極みに陥る。
 スクープと名付けられる情報提供は、当事者たちの思惑を裏切り、思わぬ時期にもたらされる。あっさり認められる場合もあるが、主導権を失いたくない人々は、否定を繰り返すことで、自らの立場を取り戻そうとする。だが、繰り返された否定は、逆効果を産むことが多く、ここでも過ぎたるは、が起きる場合もある。たとえ新情報といえども、時間が経てば皆の知る所となる。それまで、嘘誠を争ったとしても、事実かどうかは、いつか明らかになる。火の無い所に、と言われるように、確かに何のきっかけも無く、話題がもたらされる訳は無い。となれば、何処かに火元があるとなる。とは言え、これまでもガセネタに振り回された経験を持つ人々は、今度も「またか」という思いではないか。漏洩を歓迎する人々と、それをよしとしない人々が、互いの思惑を見せたり隠したりする。今回のものも、素直な見方をすれば、儲け話に群がる人々が、蠢いた結果なのだろう。この影響がどう出るかは、今論じても殆ど無意味ではないか。先行きを読み取りたい人々も、様々に活躍する場を与えられているだろうが、利用者にとってどんな意味があるのか、我々には、そこしか意味は無いだろう。

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9月6日(金)−見通し

 詰問が並び、用意した答えを繰り返すのみとなった。と外電は伝えるが、登壇した人々に、あの話題に関する説明責任があるのか、怪しいものだろう。競技を行う上で、如何に適した環境か、という点に焦点を絞り、利点を列挙する。物理的な面だけでなく、心理的な面を含めた主張に、横槍が入った感がある。
 心配や不安を第一に取り上げるのは、何もこの国の報道に限った話ではない。それがよく解るのは、こんな遣り取りが伝えられる度のことだが、それにしても、7年後の祭典に、今の状況がどんな影を落とすのか、どんな判断が下されるのか。隣国の内乱は、国内の不安定に加えて、大きな負の要素として取り上げられ、長く続く不況は、国の将来への心配を膨らませる。そんな悪材料に対して、同様に不況が続くとは言え、それなりの安定を誇る国には、不安材料は無いものと思われていた。だが、そこに大きなニュースが飛び込み、人の目はそちらに向けられた。だからこそ、始めに取り上げた詰問が浴びせられた訳だが、用意された回答は、如何にも冷たい対応に見えたのだろう。悪材料としたい人々には、格好の材料を与えることになった。同じ答えを返すのにも、別のやり方があったと思うが、あの人々にそれを望むのは、酷なのかも知れない。元々議論が苦手と言われた国民の代表が、突然雄弁になる訳もなし、危険と言われても、その影響は数字に表れておらず、今皆が居る場所とも変わらないが、今後更に危険になるとの回答を期待しているのか、と返した後で、そうでなければ、他の大都市同様に安全な状態だ、とすれば、ある程度の納得が得られた可能性も残る。ただ、何を返しても、結果は変わらずという台本どおりの展開もあり得た訳で、とすれば空回りの議論にしかならない。それより、こんな遣り取りを聞く度に、説明責任の有無を考えるべきと思うが、どうか。

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9月5日(木)−脅迫

 大衆は、不安という要素でしか、動かなくなったのだろうか。行動は、自分の判断で何をするかを決めるものだが、その基準が、脅しにも似たものであることに、誰も不安を抱かないのか。避難を促しても、誰も動かず、何も起きなかったとしても、それは各自の責任にはならず、結局、促しが不十分だったとされる。
 この話を聞いても、多くの正しく判断できる人々は、的外れな指摘に、鼻白むことだろう。だが、渦中の人々は、大真面目にそんな指摘を繰り返すのだ。避難せよと言われたら、すぐに実行に移したのに、という言い訳は、後からは、幾らでも言えるだろう。特に、被害の甚大さを目の当たりにした後は、逃げるべきだったと思うのが普通だろうから、こんなことを恥じらうことも無しに言い出す。彼らの殆どは、肝心の情報に接した時、不信を露にするだけで、何の行動も起こさない。それは、何が起きるのかが判らないからで、高をくくる反応しか思いつかないからだろう。結果として、命を失えば、沈黙しかないけれど、運良く助かることになった時に、人それぞれとは言え、中には傲慢な態度に出る人が居る。そこで編み出されるのが、不安を強める手立てであり、極端な表現を多用するやり方なのだ。仕方なし、との反応が多いようだが、どれ程の効果が望めるのか、はっきりとはしない。今回のものは、数十年に一度のふれこみだが、このところの気象情報からは、かなり違った様相が見えてくる。異常気象と言われた状況が、その多くがこれに当てはまるとされると、一体、まれにしか起こらないというのは、どんな意味なのかと思う。良く読めば、その地域で、という限定が加えられているので、その通りに受け取れば良いのだが、だとしても、各地で次々に起きるとなると、また、慣れた結果、聞こえなくなることも起きるのではないか。だとすると、更なる脅しが、起きるか。

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9月4日(水)−抵抗

 ゆとりが全てだったのか、と思う人も居るだろう。だが、その責任が無かったかと問われれば、やはり答えは一つしか無い。ただ、だからといって、その被害者のように扱われる人に、責任は無いかという質問にも、否という答えが適切ではないか。環境の影響は無いとは言えないが、それが全てではないと。
 この時期に育った人々は、既に社会に進出している。自分の力は、こんなものではないとか、自らの夢を実現する為に、努力を惜しまないとか、そんな声を出し続ける一方で、その成果の程は、あまりに小さ過ぎるのではないか。温かい目で見守ってやると言っても、そろそろ我慢の限界に来ている人も多い。更に、まだ社会に出ていない人が、沢山溜まっていて、そちらの動向も気になる所だ。どうすれば、彼らの才能を活かせるのか、という声も、何処に才能が転がっているのか、判らない状況では、何の意味も持たないものとなる。特に、他力本願ばかりが目立つ中では、期待を保とうとしても、無理に思えて来るのだ。何がどうすれば、目が開くのかと考えても、どうも無駄なことに思えてきて、待つ気が失せてくる。特に、やる気も見せず、努力も誤った方にしか向かぬ若者を、目の前にしたのでは、手詰まりの感が深まるばかりだ。彼らが育った環境に、色々な責任を負わせるのは、誰にでもできることだが、それでは、負の時代が十年以上続くこととなる。この期に及んで、この事態は何とすべきか、と考えたとしても、どうにもならない苛立ちだけが残る。家庭の問題であることは、ほぼ確実に思えるが、社会全体に、これほどの割合を占めるとなると、無視できないことは確かだ。では、何をすべきか。諦めだけでは、何ともならず、何らかの働きかけが必要だろう。

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9月3日(火)−お節介

 忘れられることを、これほどに恐れる時代は、嘗て無かったのではないだろうか。興味深いのは、有りもしないことを取り上げ、実しやかに扱われる、所謂風評なるものは、否定しようとしても、勝手に広がり続けることで、愚かな人々の興味を惹く、何か特別な仕掛けがあるように見える。何処が違うというのか。
 そんなことに注目し、忘れてはいけないことを、何とか伝えようと努力する人々が居る。一見、正しいことを行っているように思え、何度も取り上げられるのだが、その手法に、違和感を覚える人は居ないのか。忘れるかどうかは、個人の自由であり、それこそが、衝撃を和らげる役目を負う、とも言われる。だが、ここで問題となるのは、忘れさせないことであり、呼び覚まされたくない記憶さえも、無理矢理引き摺り出されることとなる場合もある。重要なこと、との主張は、既にタコができる程に聞かされており、それを認めぬ訳ではないが、人を束縛する程に大切なことかどうか。強い衝撃の後、精神的な不安定が続く、という症状が取り上げられてから、被害に遭った人々を、保護する動きが強まったが、その一方で、この忘れさせない動きにも注目が集まり、殊更に強調する提示手法が、定着してきた。風評の広がりが、興味本位への偏りによるものとなれば、興味を惹く題材を扱うことこそが重要と、衝撃的な内容を取り上げる。被害者保護との両立は難しく思えるが、当事者たちには深刻な雰囲気は無い。自らの役目を果たす為、という考えが中心となり、広がる影響への配慮は、忘れられているようだ。たとえ、一時的には忘れていても、何かのきっかけで、思い出すことは多くあり、軽重に関わらず、そんな形で記憶を管理するのが、人間の頭脳ではないか。躍起になったが故の行動だろうが、勇み足に思えるものが多いようだ。

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9月2日(月)−放棄

 数値を頼みとする情報が流される中で、肝心な数字が抜け落ちても、衝撃を与えるのに十分と判断された情報が、漏れ出てくる。漏出の発表は、その事実に対する、当然との反応と、一方で、隠蔽そのものへの、当然との反応が入り混じり、何とも不可思議な反応に迎えられ、肝心な数値は、またも無視されてしまった。
 漏出の事実は、そのまま垂れ流しを認めることとなり、微かな望みを抱いていた人々も、愕然とするしか無く、見通しは立たないものとなった、と眺めた人が多かったのではないか。だが、この情報の不思議さは、見出しと内容の乖離にあり、漏出量が具体的に示される一方、高濃度の意味を伝える数字は、抜け落ちたままとなっていた。相変わらずの欠落情報は、その後も不足分を補填する気配もなく、次々に飛び出す数字は、互いの関連を繋ぐこと無く、孤立したものばかりとなる。日々の量が十分に衝撃的と判断する一方、総量は重要とばかりに、大きな数字が並ぶ。事故の重大さの指標が、漏出量で決まるかのような、補足情報も意味不明ではないか。タンクに貯められたものの量も、嵩は判っていても、放射能の話は出てこない。発表されないからとするのなら、伝え方を変えるべきだし、漏れた部分の線量から、中身を推測したかのような伝え方には、いい加減な発表をする主体と、大した違いも無い不確実さを見る思いとなる。都合の良い悪いで、使い分けてきた人々が、事実を伝えねばならない事態に追い込まれ、右往左往する姿には、信頼は一切感じられず、情けないとの思いが過る。右から左に伝えるのみとしても、間での吟味が忘れられては、末端で受け取る人間に、全ての責任が押し付けられることになる。では、末端にその力はあるのか。

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