お祭り騒ぎに浮かれる人々を横目に、反論を打ちまける。この行動を冷静と見る人も居るが、本当にそうだろうか。決まる前であれば、問題点を指摘し、軽率な行動を戒める、という意味があったのだが、ある線を境として、その言動は執念深く、諦めの悪いものとしか映らない。潔さ、と言った途端に、ムッとされそうだが。
誘致に反対するのも、一つの意見として尊重すべきだし、偏った見方を避ける為にも、様々な考えを聞く必要はある。そんな中で、冷静な分析から、見落としが指摘される事も多く、反論の役割は大きいものとされる。だが、それが決まった時、依然として反対を唱えても、負け犬の遠吠えにしかならず、意味も意義も見当たらない。冷静ならば、次に必要なものを見出し、それを指摘するのが当然だが、勝ちに拘る人間には、冷静は装いでしかなく、見失ってしまうものらしい。評価されたとは言え、問題は山積しており、それらを解決する手段は、容易には見出せない。その状況だからこそ、反対を唱えたと、今更叫んでみた所で、元に戻せないものであり、次に必要となる行動は、無理と断じてきた問題解決への道筋を見出すことではないか。もし、それが自信を持って無理と言えるのなら、反論を唱えるより、沈黙を選ぶのが妥当だろう。その上で、成り行きを見守り、結果を分析すればいい。まるで、常に反対を唱えるのが、冷静な人間の役目と思い込んでいるが如くの行動には、実は、冷静さを失い、乱暴な意見を並べる行動が潜んでいる。これが、冷静を保ち続ける人間には、よく見えることであり、思慮に欠けたものに映る。今一度、問題に取り組み、分析を繰り返すことで、解決法を見出すことが、冷静さの現れに違いない。容易なことではないが、それをしてこそ、冷静なのだ。
昨日まで疑いの目しか向けていなかった発言に、突然注目が集まる。信用できないと切り捨てていたものを、重大と切り替える心理は、まともな神経では理解できない。だが、批判を浴びせ、不安を煽るだけの人々には、当然の論理と見えるものらしい。冷静を失い、狂気に走る人の心理と、似たものを感じさせられる。
ご都合主義と片付けるのが一番だろうが、それ程に一貫性に欠け、論理の欠片も無い人々が、我が物顔で画面に居座る。有識者と呼ばれる人も、所詮、都合に合わせる形で使われるだけで、悪くなれば、切り捨てれば良い。横暴なやり方に、批判の声も上がるが、情報の流れを握る人々に、怖いものなどある筈も無い。良識は失われ、常識は無視される。そんな社会にしたのは、彼らとの思いを抱く人も居るだろうが、実際には、力を得た愚民が、最大の要因だろう。情報の流れに乗り、理解できないことまで口走る。真偽の判断もできず、単なる請け売りに過ぎぬものを、まるで我が事のように呟く。あの戦争の責任の一端を、マスコミに負わせる話は、反省も含め、多く出ているけれど、もしかしたら、今と同じように、そんな情報操作に、安易に乗った愚民にも、大きな責任があったのではないか。愚かな人々だから、判断ができないのは当然とするならば、始めから無視すべきだろう。だが、ご都合主義では、そういう連中の支持を得るのが、最も手っ取り早い手段と言われる。今の状況は、まさにそんな所に居て、理解力も判断力も持たぬ人々に、発言の機会を与え、不安を煽ることに躍起になる。似た事は、数値の扱いにも現れ、少なくとも3種の値を使い分けており、正しい情報を伝える為と説明があるが、疑惑の目を向ける人も居る。大きな数字を好む人々に、格好の材料を与える事で、どんな利益があるのだろうか。
長い物には巻かれろ、との戒めに、素直に従う若者が、寄らば大樹の陰を、実践しようと躍起になっていた頃、新聞記者だった人間が画面に現れ、舌鋒鋭く批判の矢を飛ばす姿に、憧れを抱く人々が居た。当時人気を誇っていた同種の番組では、同僚が脇を固める役に据えられていたが、こちらは中心に座っていた。
彼の論法は、様々に評価されるだろうが、特に強かったのは、力を持つ人々への批判だったのではないか。当時、長く続いた経済成長が翳りを見せ始め、ついに弾け飛ぶこととなる。成長の陰で、様々な不正が蠢いた時代に、権力者への批判は徐々に強まり、その先頭に立つ立場にあった人たちは、力を持つ者が常に悪であるとの図式を、意識的に描いていたようだ。確かに、虐げられた人々にとって、その批評は、応援する声のように響き、手を差し伸べられた気がしただろう。だが、何度も繰り返される批判に、疑問を抱いた人も居る。届かぬ声に、何の反応も示さず、決まり文句を繰り返す姿には、力を持たざる者の宿命が重なり、希望は失われていった。彼の姿が消え、別の人々が画面を賑わす中、同じ手法は相変わらず業界を飾り、虚飾に満ちた言葉を投げかける。力を持つ者への批判は、持たない者への応援歌と言われたが、いつの間にか、そういう図式は崩れ去り、目標を失った批判が、巷に溢れることとなる。ある治療薬の効能に関する論文の捏造でも、製薬企業への批判が集中し、著者の責任に目を向けない姿勢には、権力構造しか目に入らない人々の、均衡を欠く思考が見えるし、核心を探るより、話題を見出そうとする編集方針を露呈する。科学論文の作成における様々な不正が、近年暴かれているが、その根底にある問題に目を向ける姿勢は、殆ど見られない。不慣れな分野であり、学界への畏怖が、妨げになっているのかも知れないが、人間の欲、という点では、理解不能なものとは思えない。ただ、罰するだけの手立てでは、急激な増加を防ぎきれないのは、他の事例でも明らかなことだろう。期待できないと切り捨てるのも一つだが、巷に流れる情報の殆どがそれを通すとしたら、無視する訳にもいくまい。
責任追及には躍起になるが、責任を果たしたことを評価しない。歪んだ人間性を示す人々に、何の批判も向けられないのは何故だろう。弱い者同士の仲間意識が、そうさせているとの意見があるが、弱者の代表たる人々は、公共の電波や紙面を利用して、歪曲した態度を表明する。まるで、当然のことのように。
上に立つことの責任の重さは、その立場になったことが無ければ、判る筈も無い。そんな分析を施すと、どんな反応が返ってくるだろう。見当違いの反論だけでなく、自らの言動を正当化する不見識が付け加えられそうだ。頂点に座る人間にとって、手に入れた力より、責任の重さの方が、重要とされるのは、こんな周辺事情によるものと思われる。事故の収束に向けて、全力を尽くしたとの評価より、些末な間違いを殊更に取り上げ、罰を与えようとする人々が居ることに、驚きを覚えるのは、少数派に属する人だろうか。個々の責任に目を向けず、命令系統の頂点だけに、責任追及の目を向けるのは、民主主義に反する行動に思えるが、どうだろうか。同じ事故を発端とし、依然として不安が残る処理作業に関して、膨らみ続ける不安の風船に、息を吹き込み続ける人々は、その根拠も論理性も見失い、迷走しているように見える。その負の効果を心配する声の中で、制御下にあるとの断言をした宰相は、責任を負うべき人であり、そのことを表明したに過ぎない。だが、その一言は重く、だからこそ、心配する人々への効果も大きかったのではないか。喜びを爆発させる人々を映した直後、彼への評価に触れること無く、嘘吐きの如く扱う人たちに、どんな責任を負う気持ちがあるのか。冷静に見れば、現時点での嘘吐きは、批判しかしない人々であり、根拠の欠落は、彼らの方にこそあるのではないか。
心配の声が上がるのも当然、との意見があるが、何をどうすれば当然なのか、説明してくれる人は居ない。兎に角当然なのだから、当然であり、説明の必要は無い、という訳だ。これが一つのことではなく、次々と出て来る心配に当てはまるのだから、困ったものだと思う。心配するから安心、とでも言うのか。
不安を煽る為の心配だけに、それが安心に結びつくとは、流石に言わないだろうが、あんなに心配を並べるのを眺めると、そんな思いがあるのでは、と疑いたくなる。自分の役目を果たすことで、達成感を得て、安心する、とは言い過ぎなのだろうが。それにしても、種ばかりを見出し、芽を出させることに躍起になる人々は、何故、それを収穫にまで結びつけないのか、不思議でならない。見つけることだけが役割と思っているのかも知れないが、だとしたら、そんな人に目を向ける必要は無いと思う。その点でも、現代社会は、重い病に罹っていると言えるのではないか。一方で、付け火を消す作業に走らされている人が居て、無責任な心配を、宥める役目を負わされる。こちらは、知識と論理を駆使する必要があり、更なる困難は、無知な人々の説得にあると言える。冷静な分析と状況把握は、当然のこととしても、その解説となると容易なことではない。あの事故の後の騒ぎを思い出しても、自らの無知を棚に上げて、悲鳴のような叫びを上げる人々に、落ち着きを取り戻させようと働きかけたが、結局、愚かな言動は止まることがなかった。依然として、その状況が続く中で、心配が噴出する。例えば、汚染水の問題にしても、肝心な数値が抜け落ちていても、平気で「心配」する人々に、何を伝えれば良いのか、考えねばならないし、理解させるとは、も考えねばならない。ただ、考えるだけで終わりそうな気配はある。
昔、ある官庁で上司に報告書を提出したら、無言で突き返されたということがあった。返された理由は簡単で、出来が悪いからだ。だが、何故、の答えは示されず、部下は想像を巡らせつつ、改訂に取り組み、再び上司のもとへ、だが、結果は、同じ。まだ足らぬとの宣告に、更に頭を悩ます日々が続いたそうだ。
若い人々がこの話を聞いたら、どんな反応をするだろう。一番に思い浮かぶのは、何たる無駄、というものではないか。悪い部分を的確に指摘し、その通りに直させれば、一回で済むことを、何故、何の指摘も無く、同じ事を繰り返すのか、という訳だ。済ませる、という意味では、それが最も簡単な方法だろう。だが、指摘を受けた人間は、どんな変化を示すだろう。この疑問に、若者たちは答える術を持たないのではないか。件の部下は、何度も行き来する中で、自分なりの答えを見出し、上司の認めをいただく所まで到達した。時間はかかったものの、本人の能力は確かに向上しただろう。助言に従うことで済ますことに慣れた人からは、無から何を導けば良いのかとか、最善と判断したものを改訂するのは不可能だとか、そんな声が聞こえてきそうだが、自分の判断を否定された時、何ができるか考えてみてはどうか。最善が、そうでないことに気付くのは、見方を変えれば難しくはない。ただ、一つの見方に固執するから、否定された結論に辿り着けただけなのだ。始めの話は、無言でそれを示した訳だが、思いもよらない話と考える人々には、通じないのかも知れない。知らないからとか、判らないからと、できない理由を並べる人々も、知らないからこそ、判らないからこそ、と見方を変えると、何か別のものが見えて来るのではないか。ただ、始めの話も、有能な人にしか当てはまらない、という限定は、あるに違いない。
考えるだけでは駄目だ、行動で示せ、と言われた経験は、誰にもあるだろう。口先とか、口ばかりとか、そんな言葉が批判の矢として、向けられることが多かった。最近も、何の変わりもなく、と思いたいのだけれど、実態はそうでもないようだ。他の批判をするばかりで、自ら動くことは無い。どうなっているのか。
口先だけの人間という言葉は、蔑む気持ちを込めて発せられた。そこに、社会での発言が自由になり、様々な媒体を通して、発言の中身に関わらず、全てが社会全体に広がる機会を、得ることができるようになった。中には、含蓄のあるものもあり、知識だけでなく、知恵が感じられるものがあるが、大多数、というより、ほぼ全部という程の割合だが、は、ただの思いつきで、中身は無く、下らない戯れ言に過ぎない。時に、嘘が鏤められ、面白半分の人々の注目を浴びることで、満足を得る人が出る。彼らの発言は、媒体の仕組みによって、急速に拡散されることで、賛同を得たと受け取られ、非常識なものが、常識と転じたように装われる。だが、間違いはあくまで間違いであり、嘘は嘘に過ぎない。その結果、徐々に忘れ去られるだけだが、その過程で、様々な悪影響をまき散らす。批判という行為は、悪い意味と受け取られることが多いけれど、誤りを正したり、意見に耳を傾ける姿勢を保つ為に、必要不可欠な要素となる。だから、その行為自体を禁じたり、批判した者を罰することは、現代社会においては、忌み嫌われるものと扱われる。ただ、批判を口にするだけで、高みの見物を決め込む人々に、自ら変えようとする気は毛頭無く、批判はそれで終わりと結ばれる。実は、小さな人々に広がるこの動きに、合わせるかのような大きな媒体に属する人々が、更に下らぬ動きを繰り返す。こちらの方が深刻に見えるのだが、皆が批判に走る時代には、何も見えないのか。