パンチの独り言

(2013年9月16日〜9月22日)
(危局、余暇、国際化、発掘、偶然、尊厳、矜持)



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9月22日(日)−矜持

 欲にかられた人々に、冷たい視線を送る。そんな光景は、数の多少の均衡が保たれていた時代には、良く眺められていたものだが、最近は、多数の強欲者を、少数の当てが外れた人々が、眺める光景となった。現実には、ずっと遠くから、そんな競争に参加しない、ごく少数の冷たい視線が飛ぶのだが、一つの画面には入らない。
 欲望の塊は、昔は羨望の一方で、馬鹿にするような視線を受けていたものだが、最近は、多くがそんな状態になり、当たり前のものとなりつつある。となれば、欲にかられた姿も、異様なものとはならず、普通と捉えられる。こんな状態になると、欲を抑え込み、信念を貫く姿は、馬鹿げたもののように映り、逆に、冷たい目を向けられてしまう。こうなると、どちらが世間の常識となるのか。心配しても無駄なのだろうか。誇りとか、矜持とか、そんな言葉が、度々使われることに、何の違和感も抱かない人が多いのだろうが、昔はあまり聞いたことが無かったのに、最近、そんな言葉に触れる機会が増えたような気がする。逆に言えば、言葉で表現しなければ通じない程に、当たり前でないものになってしまったのではないか。そんな中で、欲にかられた人々は、それを満たす為に、権利やら、支援やらを、探し回って、手に入れる為の手立てを講じる。権利だから、と主張する人々に、義務の意識は皆無であるのを見ると、どうしたものかと思えてくる。自負心が強すぎる、などとの批判が出てきたのも、人間としての誇りをかなぐり捨てて、欲に走る人々の姿が、日常的に見られるようになったからではないか。だからといって、誇りを捨てていない人々は、恥も外聞も捨てた他人に向けて、その間違いを指摘するなどという、余計なことはしないのだろう。

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9月21日(土)−尊厳

 訴えた人々の姿が映る画面に、異様さを感じた人が居るだろうか。生活保護の減額に対して、不服の申し立てが、急増していることを伝える報道だったのだが、そこに映っていたのは、殆どが高齢者と括られる人々に見えた。手厚い年金とか、十分な資産とかで、悠々自適の生活を送っていると伝える話とは、かけ離れていないか。
 若者たちの加入率が下がり続け、何も受け取れないとさえ言われる制度に対し、それぞれに理由はあるのだろうが、受け取る権利を持たず、誰からも支援を受けられない人々が、行政に支援を求める。制度が存在するのだから、それを利用するのも権利の一つ、との彼らの声が聞こえてくるが、何かおかしくないか。同じような制度には加入せず、権利を放棄した人々が、別の制度によって、救い出される。社会の仕組みとして、年金や生活保護の制度が紹介されるが、それが成立する為の条件については、あまり触れられることが無い。年金破綻の条件ばかりを探り、ここでもまた不安を煽ることに躍起になる人には、全く別のものと映るのだろうが、二つの条件は同じ論理の上に立つ。同様に、生活保護には、様々な条件が適用され、それが満足されて、初めて支給が決まることとなる。だが、画面に映る人々には、幾つかの条件が当てはまらないように感じられたのだ。その異様さは、社会の制度の歪みが、弱者保護に偏り過ぎた結果を、如実に現すように見えたが、渦中の人々は、そんなことを微塵も感じていないのではないか。弱い人間に、誇りの話をしても、どこ吹く風と無視されるのだろうが、社会の構成員として、各自がどんな気持ちを抱くべきかは、教えられずとも、自ずと明らかになるものだろう。そんな中で、あの人々に批判を向けると、また、人権の話が出てくる。強弱の区別ばかりに目が向く人にとっても、誇りの話は戯言に映るのだろう。

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9月20日(金)−偶然

 何度書いても、読まれないのだから、役に立たない。そう思っているのなら、とっくの昔に、書くのを止めているだろう。偶に覗く人々は、その多くが検索によるものであり、このページに直接入ってくる。独り言の呟きが引っかかった訳で、話題になっている言葉を使うと、そんなことが起きるようだ。
 とは言え、検索で表示されるにしても、そこにも篩がかけられる。基準は不明とされるが、いずれにしても、順位を付けられる訳で、何だか判らない確率が適用される。たとえ、流行言葉を入れ込んだとしても、それが功を奏するとは言えない訳だ。そんな当然なことに、腹を立てる人が居て、彼らの要望に従い、商売とする人が出てくる。注目を浴びたい人が居る一方、正反対の注文を出す人が居て、不可思議な情勢となるが、利害とはそんなものなのだろう。それにしても、確率の話について行けない人の多いことは、事実とは言え、理解に苦しむ事象の一つではないか。日常生活で、確率に触れる機会は少ないのだろうが、理解可能かどうかは、それとは別の話だろう。期待値という言葉も、確率を学んだ時に触れただろうが、その意味もすっかり忘れてしまったのではないか。期待とは、夢の一つとして、実現を目指すものとの解釈を、ここでも引き合いに出すようだが、心の問題が、入り込む余地は全くない。話は違うが、どんなに小さくしようとも、決して起きないという事象は殆どなく、低い確率の積み重ねも、積み上げれば、結局「確実」なものとなる。命が絶えることも、その例の一つであり、これについては流石に理解できるようだが、それと似た話が数多あることに気付かない。一方で、どんなに積み上げても、小さすぎる数値には大した変化がないことに、気付かぬ人も多く、扱いの難しさを感じさせられる。

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9月19日(木)−発掘

 若気の至り、と言われるのも当然。昔は、余りにも非常識な若者たちを前にして、そんな思いを抱いていたが、最近は、それだけで事は済まない。非常識な新人に、注意した途端に辞めたとか、精神疾患を持ち出されたという話だけでなく、非常識が改められること無く、同じ過ちを繰り返す、若気で済まない人が増えたからだ。
 人材ではなく、人財だと言われる程、渇望の声は大きくなる。育てるのを止めたと言われるのも、社会の組織として不適格との烙印を押すものだろうが、教える側の適格性だけでなく、教わる側の問題を考えねばならない程、深刻化が進んでいるのではないか。更に、この事態を悪くしているのは、いい加減な体制で人材育成を進めてきた結果、若気で済まない人々が、いつの間にか中堅を成すようになり、教えるものを一つも持たずに、後進の育成に取り組まねばならない人が、急増したことではないか。常識は身に付かず、非常識を押し通す人々に、周囲が辟易した時代と違い、今は、非常識が常識化する組織までが、現れてくる。どうしたものかと悩んでいた人々も、いつの間にか姿を消し、勝手なことしか言わぬ人々が、中枢を構成するとなっては、組織の腐敗も極まったとしか言いようが無い。愈々、教育への期待は高まるのだろうが、こちらも同じような腐敗が進み、教えることも、育むこともできず、自らの欲望を満たそうとする人々が、活躍すると紹介される。社会全体がこんな状態にあるのでは、手の施しようが無いと思われるかも知れないが、現実には、数を増やした結果が、こんな事態を招いただけで、少数精鋭には、大した影響も及ぼしていない。家庭教育が第一との見方は、今や常識となりつつあるが、そう考えれば、細々とでも生き続ける伝統は、途切れていないのだろう。選ばれし者、という捉え方は、批判の対象となりかねないが、こんな人々に期待するしか、安定を続ける手立ては無いのではないか。人材探しの無駄は、こんな所にもある。

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9月18日(水)−国際化

 遊べる場所として、悪名高いとされた教育機関は、長く窮地に追い込まれている。子供の数が減り続け、増え過ぎた機関の多くは、人を集めることにさえ苦しむ事態に陥っている。無名な所ばかりが苦境にあるのではなく、有名校とされた機関でさえ、水準の低下が顕著となり、改善に追われる毎日となる。
 悪い状況にあるのだから、改善を図るのは当然、との意見がある一方、人材への期待は薄まるばかりであり、目の前では足らないとばかり、ここでも世界規模の活動が必要と言われる。奪い合いの状況にある市場に、今更参入することで、改善が図れるのか疑わしいものだが、当事者たちは次々に新手の手法を編み出し、その効果の皮算用に忙しい。国内の企業で働く人を眺めれば、少しずつ国際化が進んでいるように見え、更に、企業が国外への手を伸ばせば、自ずと他国の人間を雇用せねばならない。これを後押しと見なし、国際化の必要性を、教育機関も強く主張する訳だが、だからといって、国内の人材が不要な訳では決して無い。水準の低下は、元々、それらの人材に起きている現象であり、それを改善する手立てが講じられ続けてきた。にも拘らず、殆ど効果が得られていないことに、問題がある筈が、国際化という一言で、別の方に目を向けさせている。目先の誤摩化しが、何処まで通用するかは不明だが、所詮、根本的な問題解決へとは結びつきそうにも無い。人材という面から、その育成を考えた時に、どんなことをすべきかは、大した考えも無く、答えを見出せそうに思える。だが、現実には、その適性も無く、能力も備えぬ人間たちが、居座る機関に、期待の目が向けられている。それでも、頂点に居座り続けた理由は、まさに次々に入って来る人材にあり、そこに目を向けずに、育成力に期待するのは、大きな間違いだろう。内に宝が無ければ、外に、とは何ともお気楽な考えだ。

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9月17日(火)−余暇

 鉄ちゃんと呼ばれる人が居る。男に限られていたものが、いつの間にか、女も現れることになり、こちらは鉄子さんと呼ばれるそうな。趣味は、無関心な人間にとって、理解できないものが多いが、ここでも不思議な行動を示す人々が居る。時に、必死になり過ぎて周囲に迷惑を及ぼす人も出るが、総じて大人しいものだ。
 自分の楽しみだけで、他人に迷惑をかけることの無い人々は、車内で運転席の後ろに立ったり、列車の前から写真を撮ったりと、それぞれの心を満足させる。様々な路線を使うことに、頭を使う人々も居て、全路線走破が時にニュースとなる。昔を懐かしむ人は、ブルートレインと呼ばれた夜行列車に、もう一度乗りたいと願うのだろうが、当時と違い、今はあまり運行されていない。だが、そんな中で、ある地域でそんな列車運行の企画が為されているらしい。単に夜走るだけでなく、高級感を前面に押し出しており、その料金を目にした人は、驚いてしまうようだ。しかし、驚きは、それだけでは済まされない。そんな高価な買い物にも関わらず、人気は凄まじく、あっという間に売り切れた結果、ずっと先まで予約で一杯とのことなのだ。そんなことに何故、と思うのは、同好の士で無いからなのだろうが、それにしても、金が無いと連呼する一方で、こんな話が流されると、首を傾げるしか無い。そういえば、趣味に使う金は別、などと言う人の多いこと、バブルの時代には無かったことのように思える。あまりに大きな金が動いていたので、全く気にならなかっただけなのかも知れないが、今は全く別の様相が見えている。将来への不安を口にしたと思った途端に、趣味の話に移ると別では、普通の感覚では理解できる筈もない。それにしても、この国は、金が無いのか、余っているのか。それとも、こんなことは複雑な社会では、当然のことなのか。

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9月16日(月)−危局

 痛い目に遭ってみないと判らないのか、それとも、と考えてみても、答えは見つからない。毎度のことながら、何故と思うけれど、人騒がせな人々は、居なくならない。恐いもの見たさ、という思いもあるらしいが、それとは別に、大きな波に乗りたいから、というのも。いずれにしても、命を失っては、何にもならない。
 災害が起こる度に、被害に遭った人々のことを思う。ただ、その中には、被害と言うには少し、と思う人が時に居る。波に乗ろうと思ったのに、波に飲まれた人が居ると思えば、物見遊山の如く、災害を眺めに行って、巻き込まれた人々も居る。命を守るとの掛け声が、次々に流される中で、こういう人たちは、何を考えたのだろう。様々に理由が並べられても、命を失ってしまっては、何ができるというのだろう。その場に居なければ、その時の心理は理解できないものだろうが、それ以前の問題として、そんな考えに囚われるのは何故か、やはり理解できないものではないか。危ない遊びを繰り返す若者たちにも、同じような心理が働いているのだろうか。命の問題だけでなく、他人への迷惑まで蔑ろにするようでは、どうにもならない気がしてくる。それを防ぐ為の方策を、という声を盛んに出す人が居るけれど、どんなものかと思える。好き勝手に振る舞う人々に、関わることで被る迷惑は、好きで買ったものかも知れないが、こんなことを繰り返しても、大勢に影響は無いのではないか。命を無駄にする人に、無駄な関わりは無用と言っては、過ぎるのかも知れないが、こんなことが起きる度に、やはりという思いが過る。

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