パンチの独り言

(2013年9月23日〜9月29日)
(楽習、矢継、誇大妄想、秘匿、選択、蜚語、未来)



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9月29日(日)−未来

 懐に余裕が出てきた、と誰かが言えば、まだ早いと返ってくる。今だと言う人が居れば、まだだという人も居る。まだは、もう、と言われた言葉が、当てはまりそうな気配だが、当人たちは、足下ばかりを見て、先を見ない。何時から、こんなに弱気になったのか、との批判もあるが、本人は、慎重と返すのみだ。
 それでも、帳簿を見れば、何処かに余り金が出ている。以前であれば、何処にも余裕が無く、資金繰りに走り回った所も、今は、少しだけでも余力が生まれ、その使い道に思いを馳せる人も増えた。だが、長い間の苦しみの果てに、少しの余裕が出たとしても、すぐにそれを使う気にはなれない。それより、将来の窮地の為の準備を、と思うのが自然なのかも知れない。だが、会計上の余剰は、何のあても無く、放置する訳にはいかない。設備投資に回せば、とか、新たな展開を模索する為の研究資金に回せば、とか、昔と同じような考えを持ち出す人が居る。だが、一つ忘れていることはないだろうか。今回の成長戦略で、何度も強調されているのに、肝心な所では無視されている、給与の増額のことだ。基本給の増額が当然であり、それが年功序列で決まることが当たり前だった時代には、想定されていた仕組みが、窮地を切り抜ける為の方策として、最優先で切り捨てられた結果、その後の回復の過程でも、悉く無視されてきた。全体の体力が落ちているから、という理由も、好景気の兆しが現実のものとなりつつある中では、通用し難いものとなる。次に来る理由は、将来への備えなのだろうか。古くなった設備を、とか、新たな展開の模索を、とか、将来のことを並べれば、目の前の人間たちに施す必要はない、という論理は、人材育成も、将来に向けての方策であり、その確保に必要な要素としての給与も、と考えれば、一気に破綻するのではないか。経営の能力が、何度も議論されているものの、数字の動きばかりに目が奪われ、その為の基本を見失っていることに、社会全体が気付かぬようになった。明るい未来の為に、と称して、その道を塞ぐのは、どうしたことか。

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9月28日(土)−蜚語

 人の口に戸は立てられぬ、根も葉もない噂話で、酷い目に遭わされた人にとって、この諺はまさにその状態を表すものとなる。昔から、井戸端や戸の陰で、ヒソヒソと交わされた話は、事実に基づくものもあっただろうが、多くは、何の確認も無く、事実と全く異なるもので、単なる噂話に過ぎないものだった。
 噂には、根拠は必要なく、論理の破綻もあまり目立たない。多くは不安を煽るだけのもので、事実との関係など、考える人は居ない。となれば、多くの人の口に上れば、信頼度が高くなるように思え、信じ込まされることとなる。それでも、顔を合わせていれば、中に、疑いを抱く人も居て、あらぬ噂の拡散が妨げられるようになる。運が良ければ、根も葉もないものは、そのまま何処かに消える訳だ。だが、最近の傾向はどうだろう。噂を広げる媒体は、様々に変貌し、人の口など通さなくとも、指先と目だけで、事が足りるようになっている。人から人へという、効率の悪い時代でも、拡散の勢いは、一気に増すことがあったが、今や、始めから、一対多数の図式が成立する。効率は格段に増し、被害の広がりも予想できない程となる。何故、という思いで、情報に接する人々にとって、最新の方式は、何の変化も生じないが、鵜呑みを常とする人々は、被害者になったと主張する。だが、その大部分は、自らの判断の誤りによるものであり、確認をとらないことが、深刻な事態を招くことさえある。日々の下らない出来事に関しては、噂を信じようが、騙されようが、大した違いは生まれない。だが、それが生死を分ける事柄となると、いい加減な対応は取り返しのつかないこととなる。普段から、下らぬ情報に振り回されることなく、確認を怠らぬことこそが、転ばぬ先の杖となるのではないか。

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9月27日(金)−選択

 資格を取ろうと努力する人は多い。では、何故、資格が欲しいのか。この疑問に対する答えは、人それぞれかも知れない。仕事に必要なもの、という答えはよく出るし、ごく当然のことと受け取られる。だが、将来の選択肢を増やしたい、という理由はどうだろうか。頷く人が多いだろうが、解せない部分が残っているのでは、と思う。
 選択の幅が広がることは良いことだと、世間では信じられているが、その一方で、二つかそれより多くの選択肢に、迷うばかりで決められぬ瞬間を、経験した人も多い。人間の欲望は、より多いもの、より高い所へ向かうのだろうが、だからといって、満足が得られる訳でもなく、却って、贅沢な悩みを抱えることとなる。より多くを求める為の努力は、知識を増やす為には役立つだろうが、手に入れたものが、本人にもたらす効果は、それ以上には望めないのではないか。一方、選択肢の多さを評価する人々の考えには、安全性の高さとの比喩があるように見える。制御系に見られるように、様々な道筋で、調整を図ることで、全体の均衡を保ち、安全性を高める仕組みを、自らの将来への安全性に映し出し、それが、安心に繋がるものとする考え方だ。これは、考える人には、同じものと思えるようだが、実際には、全く違ったものに、同じ考え方を押し付けたに過ぎない。均衡という一つの標的に向けた、多彩な制御系という仕組みと、多くの選択肢に向けた、それぞれの努力は、集中するものと拡散するものとの違いであり、正反対の考え方となる。安全とか安心とかは、彼らにとっては重要な要素なのだろうが、一時の不安に取り憑かれて、出鱈目に手を出すことには、更なる不安を膨らませる効果以外に、大した効用は無いように思える。渦中の人々は、いつまでも追い続けることしかできないのだろうが。

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9月26日(木)−秘匿

 名前がバレたと、騒ぎが広がった。匿名で発言できる場は、自由な発言を促すとして、一時人気を誇っていたが、その中身は、いつの間にか、自由とは異なる、全く別の発言を許す場として、一部の人々が巣食う場所となった。有用な発言の数は減り続け、暴言や放言ばかりとなり、無用、不要との見方が広がった。
 そんな場で、噂話とそこから生まれる批判の対象となっていた当事者が、実名をさらしながら、反論を繰り返すことで、信頼を取り戻した話は、その業界では有名となっている。匿名性を優先させることで、たとえ実名をさらしたとしても、騙りと見なされる始末では、発言の信頼性など、望むべくも無いということだろう。こんな場所で、好き勝手な発言を繰り返した人々が、登録情報が漏洩された途端に、血の気を失ったのは、自業自得と言うべきことだろう。自由という言葉を履き違え、無責任な発言を繰り返した人々は、倫理や道徳の意味を知らず、更には、最近の流行言葉で言えば、格さえも失った訳で、社会的地位とは無関係な指標で、劣悪と評されるべき人間だろう。極端で過激な発言で、自分は人気を集めたと思い込んだ、あるブログ書きが、その世界の人々の調査により、現役官僚であったことが暴露され、責任を問われることとなったという話も、当人にとっては、別人格が書いたものであり、現実社会の人間としての責任は無い、ということになるのではないか。何を馬鹿げた、と思う人は、まだ普通の感覚を持っているように思えるが、その先を尋ねたら、首を傾げることになりそうだ。前にも書いたことだが、社会的地位を掲げ、その後押しで発言を押し通す人々は、肝心の中身は空ろなものが多い。それに対し、匿名では、庶民の一人であり、愚民になるか、賢人となるかは、中身次第となる。そのことに気付かず、暴言の為に匿名性を利用する人間に、こんな場所は、何の意味も持たない。

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9月25日(水)−誇大妄想

 この世界を理解する為の理論があると言われる。ひもとか、弦とか、そんな言葉で表現される理論は、何をどう説明しているのかさえ、素人にはさっぱり判らないものである。物理学の世界は、ある時期から、目の前に起こることの説明より、見えない世界の説明に力が集中し、その理解こそが、全体の理解に繋がると言われる。
 難しい世界を、更に理解不能なものとするのは、そこで使われる数式だろう。万国共通の言語として使われ、専門家の間では、相互理解を深めるものとされるが、それとて、始めのうちは、真意を理解できた人は殆ど居なかったとされる。それが徐々に理解を深める手立てが集められ、初期の段階では思いもよらなかった程に、その適用範囲が広がることが見出されると、一気に、その能力に対する評価も高まった。そんな時の流れを伝えようとする番組が、先日流されていた。字幕で表現される内容は、発言者本人の真意に沿うものかどうかは、見ている側には判断がつかない。だが、そこに現れた文字には、疑いを膨らませる気配があった。「宇宙の全てを説明できる」との発言は、その数式と考え方の力を、伝えようと意図されたものなのだろうが、科学が魅力を放ち、その力に期待が集まっていた時代と異なり、その限界が、様々な場面で示され、期待が裏切られる中では、俄には信じ難いものと映る。全てとは、所詮、発言者本人の知る全てに過ぎず、真の意味の全てにはならない。事実を伝えることを常とした科学者たちも、耳目を集めようとする意識が強まるにつれ、表現法に注意を払い、より魅力的な話へと変換することが、当然のものと見なされるようになった。となれば、発言には、事実とそうでない部分が含まれ、その境界が不鮮明となることが多い。売り込みの為に、期待を込めた表現を使うのだろうが、それは事実に反する場合もある。倫理とか道徳が、こんな所で引き合いに出されるのは、どうかと思えるが、ここまで病に冒されていることを、表しているのだろう。

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9月24日(火)−矢継

 期待通りとはいかなかったようだ。次々に矢を放ち、その効果に期待が集まるものの、人の心情には、期待感以上のものは芽生えなかった。当然のことで、目前の利益を追うことにしか、知恵の無い者たちに、その後の展開を見通すことは難しい。手に入れば入っただけ、気が緩むだけであり、その還元には目が向きそうにもない。
 これは、矢を放った人物にも当てはまることで、次々に方策を講じているように見せて、その実、その後の展開に配慮を行き届かせることは無い。初速を与えれば、後は慣性で動くとばかり、考えているのではないか。摩擦が様々に働く環境では、始めに力をかけるだけでは、すぐに止まってしまうのは、当然に思えるけれど、ここでも、次々と放たれる矢の力で、速度が増すものとの思い込みが働いたらしい。いずれにしても、同じ事に力を入れる訳でもなく、多彩な手立てを自慢げに掲げる姿勢では、矢は早晩勢いを失い、地に堕ちてしまう。儲け話に飢えた人々は、差し出された利益に飛びつくが、それを抱えたままで次の動きに移らない。当然、下への配分に回されることなく、満たされた顔だけが見える。抱えていると言っても、満腹にはなっていない訳だから、次の利益も同じ流れに乗せられる。食べ切れない程の利益がもたらされれば、違った様相も期待できるが、そんなことは起きそうにもない。少し膨れた腹具合では、何処に利益を回そうか、迷う所らしいが、何故、構成員への配分が無視されるのか。長期の計画が練られていない状況で、利益配分を将来の為に、と称する人々は、結局、何も考えていないだけなのだろう。こんなことの繰り返しで、次々と機会を逸して行った時代と、全く同じ事をしていることに、気がつかない人々は、既に退場の機会さえ逃しているようだ。

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9月23日(月)−楽習

 休日には色々な所へ出かける人が居る。遊びと括ればそれまでだが、目的はそれぞれに違う。遊園地に出かけ、文字通り遊び呆ける人が居るかと思えば、美術館や博物館で、作品や歴史について学ぶ。学びと言っても、教育での強制的なものと違い、自分の好みに合わせたもので、意欲も違うし、試験も無い。
 自然に触れる機会が増えるのも、こんな遊びの一つだろうか。春の花と違い、派手さも、潔さも無いけれど、義理堅いと思える程、時期を合わせて咲く赤い花に、昔とは違い、多くの人の目が向くようになった。田の畦に咲く花には、以前のような暗い印象は無く、写真を撮る人の姿が見られる。赤だけでなく、白い品種も出てきたようで、更に色を添えている。秋は、果実の季節と呼ばれ、肥えることを気にしつつ、その味を楽しむ人が多い。店で買うものについても、季節は感じられるが、それを楽しむのなら、果樹園に出かけるのが一番だろう。林檎、葡萄などの果物から、栗や甘藷と言ったものまで、訪れる人々は収穫の喜びを味わう。その場で味わえる果物となれば、楽しみも倍加するのだろうが、調理が必要なものでも、帰ってからの楽しみを思い浮かべ、せっせと拾い集めたり、掘り出したりする。食べることばかりを思い浮かべる人が居るが、何も知らない子供たちには、普段食べているものが、どんな状態で実るのかを、知る手立てを与えることになる。これも学びの一つであり、楽しみと一緒に、何かを知ることは、教室とは違う意味を持つ。遊びと馬鹿にするばかりで、そこにある意味に目を向けない人には、こんなことは通じる筈も無いだろうが、楽しいものにも、そんな役割があることに、気付いて欲しいものだ。

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