海の向こうの様子がおかしい。民主主義の基本である議論に、互いの意地が邪魔をして、妥協点を見出す作業に移ることさえできない。このままでは、と心配する声が聞こえる一方、利害の衝突では譲れない、とする意見も出る。衝突の陰で、自分たちの生活を危ぶむ声があることが、異様さを更に増している。
意見の一致を見るまで、とことん議論を深める。そんな形で発展した様式も、どうやら限界に近づいているのだろうか。互いに意見を掲げるだけなら、以前と何も変わらないが、基本となる筈の前提が、無視された現状では、議論の機運は高まらない。互いに平行線を辿るだけでなく、更に離れる方に動くようでは、歩み寄りへの端緒は掴めそうにない。法律は守る為にある筈が、それさえも枉げて話を進めることに、通常の感覚なら、違和感を覚えるのだが、渦中の人々は、正論と信じて疑わないようだ。おそらく、何処かに密約のようなものが埋められており、それが燻り続けているのだろうが、それ自体、あの国の主義からして、奇異なものとしか映らない。更に、驚くべき仕組みは、予算が未定となれば、それが関わる全ての業務が停止する、というやり方で、多くの公的施設が一時閉鎖となり、観光客の戸惑う姿が映される。だが、本当の問題は、偶に訪れる人々にあるのではなく、そこで働く人たちにある。一時帰休と称せられる措置では、給与の支払いも停止され、収入が断たれることとなる。公務にあたる人々への保証という考えからすれば、こちら側ではあり得ない措置だが、あちらでは論理矛盾が無いとされ、粛々と進められる。これが長引けば、かなりの被害が広がるのだろう。この違いが、今回の成り行きを眺めた時に、驚きの元となっている。一方、こちらでも、国難の一言で、全体ではなく、公僕のみに強いているものがある。このやり方は、海の向こうで、論理の破綻と見なされるのかも知れない。
尤もらしいことを喋っているが、実際には、意味不明な言葉の羅列であり、真面目な表情からは想像できない程に、狂気が迫っているように感じられる。そんな光景が、大都会の真ん中の学びの園で見られたとしたら、人は何を感じるのだろう。著名な学者の講演会の、一こまであれば、仕方の無いことなのだろうか。
講堂を埋める程に集まった人々は、機知に富んだ話を楽しみ、難解な内容を汲み取ろうと身を乗り出していた。予定の時刻を過ぎても終わらぬ話に、そろそろ疲れを感じた頃、それまでのゆったりとした語り口は、急に速度を増し、映写される絵も慌ただしく動かされた。外国語に触れる機会は、徐々に増えているとは言え、一時間以上も集中を続けるのは、かなりの負担だったろう。ホッとした雰囲気の中で、質問が受け付けられ、初学者たちに機会が与えられた。研究を始める直前の、期待と不安が入り混じった雰囲気を漂わせた若者の質問は、講演の始めに演者が紹介した、研究を始める段階での戦略と興奮に、誘い出されたものだろう。我が意を得たりとばかりに、必要要素を次々と紹介する姿には、後継者への期待が感じられた。盛り上がった雰囲気を打ち壊したのは、始めに取り上げた狂気溢れる言葉の羅列だ。更に驚かされるのは、そんな人が複数居たことで、まるで場違いの森から出てきた妖怪を見る雰囲気さえあった。話の内容と無関係な話題に終始した質問者には、我慢強く対応していた司会者さえも、叱責の言葉で応じていたが、的外れな内容を延々と続けた女性は、期待外れの回答に、自分はそれを知っていると礼を失する態度で応じていた。自分しか見えぬ大人たちに、若者たちはどんな目を向けていたか。おそらく心配する必要などないだろう。だが、社会の豊かさが、こんな形にも現れてしまうことに、何とも言えぬ感慨を抱いた人も居るのではないか。
いけないと言われても、何がいけないのか分からない。最近、そんなことが数多あるような気がする。幼児期、頭ごなしに叱られた時のように、理由も何もなく、ただ「ダメ」と言われていたかの如く。善悪の区別がつかない時に、理由を聞いたとしても全く無駄だったのは、今考えれば当然のことだ。だが、今巷に溢れる話は、そんなものに思える。
倫理とか道徳は、そういう意味では、社会の取り決めのようで、自分だけの判断では、踏み外してしまうこともある。ただ、それにしても、と思うことは度々あり、何時か話題になっていた、論文捏造の話もその一つとなる。関連企業の社員が、意図的に数値を改竄して、都合の良い結果を導いたとされる話は、いつの間にか、企業の責任のみを問う声で満たされることになった。自分より大きなものへの反発、そんな表現が当てはまるのかも知れないが、それにしても、常軌を逸していると思える部分が多かった。寄付を受けたから、捏造に荷担したのでは、と疑われた研究者も、たまったものではないが、その一方で、著者の一員として、論文への責任を果たしていなかった点は、曲げられない。金銭の授受との結びつきに目が向く人々は、多分、自分の場合にも同じ行動様式を取るのではないか。だからこそ、そんなことに目を奪われ、肝心なことを見落とすこととなる。論文捏造の責任は、もし起こったとすれば、その著者に全てがあり、研究機関にも、ましてや、寄付をした企業にも無い。それを、金の絡みを声高に訴えるのは、的外れな指摘と言わざるを得ない。その後の展開から、怪しげな情報を含む論文を頼りに、更なる効果を謳った広告文句が、過剰なものとの指摘がされているが、これも、中々に手強い代物に見える。今後の展開は、監督官庁との絡みもあり、見通しははっきりしないけれど、おそらく、非を認めることで決着がつくのだろう。論文の取り下げも、正式に決まったようだし、これで一件落着となりそうだ。それにしても、どこがどう悪いのか、釈然としない点が多々残る。まあ、今の世の中、そんな話ばかりには違いないが。
知らないから判らないとか、判らないからできないとか、そんなことばかり並べられて、呆れるしか無い人々を、もし鍛えて育てなければならないと言われたら、どうするだろう。自らの能力を限定しても、何の疑問も抱かない人間が、一方で、不安を口にするのを見ると、何と身勝手な話だろうかと思うしかない。
教えて貰うことに慣れた人々は、与えられるものを待つ訳だが、それを楽しみにする風もない。まるで義務のように取り組み、最低限の線で留まることにも、何ら疑問を抱かない。学ぶ楽しみは、そこに無く、ただ、降って来るものを受け取るだけの姿勢では、心の動きは高まらない。知る喜びに触れること無く、ただ漫然と教室に座っていた人々が、社会に進出すると、それぞれの場で問題を起こすこととなる。知らないことに何の疑問も抱かず、ただ放置するだけでは、何の変化も起きない。悲鳴も上げず、相談も無ければ、社会では問題なしと見なされるから、そのまま時間が流れるが、当事者の動きはなく、目の前に積まれた業務も、放置されたままとなる。周囲から差し伸べられる手に、縋り付いていた人々は、自らの窮状を訴えること無く、時間だけが過ぎて行く訳だ。学びの姿勢は、様々な場面で教え込まれたものだが、最近の傾向は、全く違ったものとなっているのではないか。知識は、試験などの選抜の場面で、どう活かすかが最大の課題であり、その為の技術ばかりが注目を浴びる。同じ事を繰り返すことも、記憶の為であり、そこに学ぶ喜びは一切無い。極端に言えば、そんな下らない喜びより、試験を勝ち抜く成果にこそ、意味があるとなる。いやはや、馬鹿げた時代になったものだ。その下らなさに気付かぬ人々が、中枢へと進出するにつれ、病状は悪化するのみとなり、回復の可能性は更に低くなる。厳しい対応を、取り戻すしか無いのでは。
何時まで待つのだろう。そんなことを考えたことは無いだろうか。何時まで待たされるのか、では無く、待つことに疑問を抱くのは、近くに居る人間が、自分から動くこと無く、何かを待ち続ける姿を眺めての感想である。指示待ちと称される行動様式は、若い世代に特徴的なものとして、様々に取り上げられる。
指示を待つことも、褒められた態度ではないが、始めに取り上げた人の多くは、何を待っているのかさえ、判らない状態にある。指示も含め、何から何まで、示されないと動けない。積極的は程遠く、消極的とも違う状態に、周囲の悩みは深まるばかりだ。だが、本人たちの多くは、不安を抱いて動けない状態にある、と自らの心中を説明する。誰しも、そんな時代を経て、成長してきたのだが、昔との大きな違いは、他との関わりにあるようだ。相談する、悩みを打ち明ける、といった形の関わりで、周囲との関係を維持していたのに対し、最近の傾向は、そんな関係が結べず、外から見ると、まるで自らが断ち切ったかのような状況を作り出す。だが、ここでも、自らの動きは一切無く、ただ、何かを待ち続けただけであり、その間、何もしなかったことが、断絶へと繋がる。焦らずに待つことの大切さは、一方で重視されているけれど、ここでの「待つ」ことは、ただ漫然と座っているのとも違うことに、気付かぬ人が多いようだ。元々、遠い存在である夢ばかりを追い、目前の存在としての選択を、決断できぬままに放置する。そんな気質が多くの人々を被い、何を求め、何を目指すか、明らかにしない行動が、当然のように続けられる。「ホウレンソウ」などと言わねばならなくなったのも、外との関わりを築けない人の数が増したからで、待ちの姿勢も、そんな人の典型なのだろう。
言葉での表現力を備えている、唯一の動物と評する人も居るが、真偽の程は定かではない。異なる表現方法を使い、伝達を行っているように見えても、その媒体が明らかでなければ、確定させられないからだ。それでも、唯一に拘る人々は、複雑な表現や隠喩に特殊性を持たせ、他の動物との違いを付けたがる。
複雑なものの理解は、複雑に入り組んだ構造を解きほぐすことでしかできない。昔から、こんな考え方が当然とされてきたが、人工知能の研究から、ごく単純なことの積み重ねが、一見複雑に見える事象へと繋がることが、徐々に明らかになるにつれ、複雑なものへの目の向けようにも、変化が出てきた。だが、依然として、自分自身のこととなると、神との繋がりも含め、特別扱いをしたくなるらしい。思い込む人を説得するのは、労力の割に、成果が得られ難いから、自ら気付くまで、となるのが精々だろう。言葉による伝達の不思議は、単にそれを編み出す送り手だけの問題ではなく、受け手の理解に大きく影響されることにある。逆に言えば、理解を促す為に、受け手に判り易く伝えれば良い、となるが、それがある線を越えると、受け手の好みへと流れることになる。好ましく思える言葉を並べ、それが理解へと繋がれば良いが、過ぎてしまうと、誤解へと繋がることになる。聞こえの良い話へと転換するのも、ある線までは容認できるが、誤解を招くことになれば、余計なお世話にしかならない。最近も、どういうつもりか、と思える言い換えがあり、首を傾げた。その後は、聞こえなくなったから、誤りに気付いたのだろうが、もう遅い感がある。法人税に一時的な措置として、加えられた税率を、廃止しようという提案に、「減税」と伝えた話は、誤解を招く表現と批判されたらしく、暫くすると聞こえなくなった。判り易くが、誤りとなっては、何の意味も無いからだ。
衣替えの声が聞こえる中で、晩夏とは言え、夏の虫の声を聞くとは思わなかった。近くの森から聞こえてきたのは、ツクツクボウシの声、一瞬幻聴かと思ったが、確かに響いていた。これでまた、異常の例が引き出されたかと思うと、何とも言えない気持ちになるが、異例ばかりに目が向く時代、仕方ないことだろう。
偶々出合った異常ではなく、確実な変化として見せようと、情報処理が為される。先日も、秋の平均気温が、徐々に上昇しているとして、グラフで見せながらの解説があった。平均の変動を、年毎に記したものを、更に、数年毎に括って、その平均を線で記すことで、それぞれの期間の違いを、際立たせようとする工夫が為されていた。年毎の増減は、平均化により、凸凹が無くなり、一見、滑らかなものとなる。それぞれの線の高さの違いから、徐々に上昇していることを、確かにするものとなるのだが、期間の設定には、何の根拠も無い。逆に言えば、各自の思惑通りに期間を設定し、それで結論を導こうとすることもできる訳で、それぞれに原図を与えて、どんな線引きが可能かを試してこそ、意味を見出せるものだろう。だが、短い時間で解説を済ませる為には、処理済みのものを示す必要があるし、結論ありきの問題であれば、多様な解釈を示すことは、混乱を招くだけとなる。様々な機会を捉えて、異常さを主張しようとする動きは、近年強まるばかりとなっているが、その情報を与えられる側から見れば、そんな大層な話でなくとも、日々の生活から感じるものの方が、遥かに大きく影響される。そんな気配を感じた所へ、こんな事実があると言われると、すぐに信じてしまうのも、心理の関わりの大きさを表すものなのだろう。いずれにしても、世の中には、様々に変わったことが起きる。