パンチの独り言

(2013年10月7日〜10月13日)
(強欲、自己評価、迷走、共同責任、発言の場、詭弁、手本)



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10月13日(日)−手本

 御都合主義、何とも身勝手な考えの典型だが、近くに居られると困る人のことでもある。色々と意見を出すものの、一貫性は無く、場当たり的なものが並ぶ。幇間とか、太鼓持ちと呼ばれる人と似ているが、彼らがある人を持ち上げるのを常とするのに対し、こちらは主義主張があるように見せるだけに、扱い難い。
 違法な行為をしたり、違反をした時の言い訳も、その一種であり、指摘された部分から目を逸らし、自らの正当性を主張する。論理を積み重ねたふりはするものの、多くは屁理屈に過ぎず、自己完結に終わり、共感を得られないことが多い。昔からある言葉だから、当然、昔からそんな人が居た訳だが、最近の違いは、被害者然とした態度にあるのではないか。違反は、犯したものからすれば、加害者の一種と見なされるが、それをすり替えて話を進め、まるで自分が何かの被害に遭ったかのように振る舞う。最近の流行からすれば、弱者が最も強い存在となるから、ここでもそんな成り済ましが横行するのだろうが、勝手な考えに過ぎず、近くに来られると迷惑となる。特に、一度相手にすると、それ以降は、ことが起こる度に問題を持ち込まれ、味方のように扱われ、迷惑は更に広がる。規則は守られるべきもので、こんな形で破られることに、同意する人は居ないだろう。だが、当人にとっては、いつも通りに別の論理があり、身勝手な筋が立てられる。何故、こんな人間が放置され、周囲に迷惑を撒き散らしているのか。子供の頃から勝手な発言が放置され、叱られたことが少なかったのが、一番の問題だろう。ただ、そんな目に遭わずとも、常識的な考えを持つ人は少なくない。となると、単に周囲だけの問題ではなく、個人の問題となるのか。毎度お馴染みの論理は、やはり周囲の問題であり、手本となるべき人の責任となる。

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10月12日(土)−詭弁

 機会を増やすことで、安心感を抱かせようとする。そんな動きは、豊かになったと言われた頃から、急速に台頭してきた。これを正しい考えと信じ込む人も居るだろうが、明らかな誤りに気付かないだけではないか。確率だけで考えれば、試行数を増やすことで、確かに当たる可能性は高まるように見える。
 だが、同じ母数の中で、決まった確率で起きる事象の場合、何度やっても、その度に同じ確率としかならない。水物と表現されることから、運による所が大きいと思われるらしいが、所詮、小さな影響しか無く、運も実力のうち、と見なすべきとなる。何時まで、こんな戯言を続けるのか、誰にも判らないことだろうが、後進への期待をこんな形で表明する人々に、決断の場面はどうにも似合わない。好まれることばかりに腐心し、嫌われることに戦々恐々とする人には、肝心の決心は、無理難題以外の何ものでもないだろう。人生の分岐点の一つと言われる、入試制度の改革に、様々な意見が集まり、それ自体は良い意味での議論を高める役を演じているが、肝心の中身は、相変わらずの空っぽで、無意味な言葉の羅列に終わる。驚くべきは、一方の自由を広げる為に、もう一方に拘束を強いる意見が出て来る状況で、過度な負荷は好ましくないとする考えには、優しさよりも不見識に満ち溢れている。思いつきを並べる態度も、これまでの数々の失敗にも関わらず、改められること無く、続けられている。浅知恵が山積みにされた状況に、選ばれる機会を掴めぬ若者からは、歓迎の声が出てくるが、一方で、無知な大人の無思慮な考えに、振り回されたくないとの意見を、冷静に導き出す若者も居る。要は、小手先や口先だけの助けの手が差し伸べられても、何の変化ももたらされず、結局、本質を見抜けぬ改革は、何の成果も出さないことに、大きな問題がある。他人の人生を、こんな形で振り回すことに、罪悪感を抱かぬ人に、提案の資格はないのでは。

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10月11日(金)−発言の場

 検索をかけると、様々なサイトの紹介が提示される。公的機関の情報も数多あるが、今の時代には、個人的な場もその中に混じることが多い。人々の発言の機会は、ネットの整備に従い増え続け、独り言でさえ、他人の興味を惹くものとなった。ごくごく個人的な内容も、共有の網の上では、話題となりうる訳だ。
 だが、提示された情報に従い、その場に出向いてみると、その多くが、空き部屋のようになっていることに気付く。検索に合致する情報は、確かにそこに存在するが、当時の情熱は消え失せ、持ち主による書き込み更新は、全く行われていない状態が長く続く。日記のように書いていた時も、過去にはあったのだろうが、飽きてしまったのか、時間が無くなったのか、理由は不明だけれども、数年の間、何の書き込みも無い所が多い。便利な道具と思われたものも、新たなものが登場すると、すぐに忘れ去られるのだろう。いつの間にか廃墟と化したブログは、管理の都合からか、そのままの状態で維持される。無料の場程、その傾向を強く示し、手をかけない考えが基本にあるようだ。ゴミとか無駄とか言われるものも多く、いい加減に消せば良いのに、と思うのは、素人考えのようで、新規の投資が無ければ、放置が最良の選択となる。注目を浴びたいと願った人々は、一時的にその機会を得たのだろうが、飽きられた結果、自らも含めて、忘却の彼方へ過ぎ去ったのだろうか。そんな所が多い中、此処も含め、何としぶとい存在があるのかと思う。週毎に纏めたファイルも、既に六百を超えた。一つ一つは単なる思いつきに過ぎないが、継続こそが、という考えからすれば、何かがあるのかも知れぬ。今では、常連は一人二人、たまに検索で飛び込む人がいるが、一時的に過ぎない状態が続く。

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10月10日(木)−共同責任

 合議制の欠陥が、様々な場面で取り上げられ、新たな仕組みの導入を、検討する必要性が取沙汰されている。話し合いの段階で、妥協案を模索し、最適解を導き出す、という手法は、それ自体に問題を抱えているとは思えないが、現状は、何か重大な問題が起きているかのように見える。だが、何がなのか、はっきりしない。
 一つ気になることがあるとすれば、それは合議という仕組みの中で、各構成員はどんな関わりを持つか、という点にあるだろう。国の行く末を左右する場でも、組織の将来を決める場でも、更には、小さな集まりでさえ、同じ問題が潜んでいるように見える。会議の場で、そこに座る人々は、同等の責任を負っている。各人が責任感を抱き、提起された問題に真剣に取り組めば、今各所で起きている問題は、生じていなかったのではないか。ただ座っているだけで、議事の進行に加わるでも無く、賛否表明の瞬間には、原案を認めるだけとなる。時間の流れは確かにあるが、議論の盛り上がりは無く、別の表現では、粛々と進められると言われるのは、まさにこんな状況を表すものだろう。だが、互いの信頼関係は失われつつあり、提案の質だけでなく、書類の中身さえ、杜撰になる中では、誰かが動かねば、迷走が続くことになりかねない。行き当たりばったりの提案が、続出した時代を経て、少し落ち着きを取り戻してきたとは言え、責任感の喪失から、様々な問題が生まれつつある。合議には期待が持てないと、所謂トップダウン方式を実行しようとの動きもあるが、肝心の提案自体に手を入れようとする気配はない。皆で考えることの意義は、異論の衝突にあり、そこから生まれる妙案に期待するのではないか。もし、一人で決めるのであれば、提案が異種混合の中から出てこないと、偏りが強まるだけになるだろう。

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10月9日(水)−迷走

 常識を口にする人間に、ろくな奴は居ないと言われる。非常識が当然であり、常識という言葉で、一方的な責めを受けることに、反発する人の意見だろうが、一方で、常識人のふりをした劣悪な人が増えていることも事実だろう。その場その場では、ごく常識的な発言をしても、繋ぎ合わせると常軌を逸する人々のことだ。
 知る努力をしなければ、死に繋がるという過激な発言を繰り返した人は、別の暴言をきっかけに総攻撃を受けることとなった。教育機関に身を置き、更には、将来教える職に就く人々を養成する立場だったことは、人々の劇的な反応を招き、怒りが収まらぬ人々は、首を切れと訴える始末となった。どちらも常軌を逸していることに変わりがなく、主張が違う点を除けば、同じ穴の狢と思えるが、原因を作った人間に、第一の責任があることは確かだろう。その一方で、シンパが蠢き、暴言や妄言を撒き散らす機会を与えるなど、狂気は社会全体に広がる感がある。互いに、自らの利害のみに走り、都合のいい発言のみを取り上げる姿勢には、常識も何も無く、正常な判断を下せる状況に無いように見える。件の人は、更に暴走を続けて、紛争の元となった話題に関して、学生に教え始めたとある。暴挙という意見がある一方、相変わらずの暴言に呆れる人が居て、ここでも、当人の「知らなかった」という書き込みに、過剰反応を繰り返す。だが、彼らは始めに書いたことを忘れたのだろうか。当人は、知らなければ死ぬとまで言ったと言われる。そんな下種に、付き合う人も同類だろう。自業自得とすれば良い話に、いつまでも付き合う暇な人々。そういえば、最近土下座が話題となっていると聞く。これもまた、常識とはかけ離れた事象だろうか。でも、常識とばかり書くと、ろくでもないと言われそうだ。

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10月8日(火)−自己評価

 売れそうにも無いものを、必死に売り込む人が居る一方、売るものが見つからないと、嘆く人が居る。市場と言っても、そこでの売り物は自分自身であり、買って貰おうと躍起になる人々は、自らの特長を並べ、それらが如何に優れたものかを説く。だが、買い手の食指は動かず、月並みな売り込みに、辟易した顔を見せる。
 如何に優れた人間かを示す為に、売り手は様々に工夫を凝らすが、どうも空回りばかりが目立つ。横一線の考えは、そこから抜け出すことより、遅れをとらないことの方が重視され、目を引く動きは殆ど見えない。勉強はさせられるものとの思い込みから、そこに興味を抱く筈も無いと結論付け、多くは、課外活動へ目を向ける。自身は妥当な判断と思うようだが、現実には、他との差はつけられず、月並みな生活を輝かしい過去のように見せる姿は、詐欺や嘘吐きと変わらぬように見える。嘘が当たり前と言い切るのは、単なる開き直りだが、こんなことでは先んずることは望めない。他との違いを際立たせる技術は、様々に紹介されているが、多くは毒にも薬にもならぬ代物で、ただ欠陥が露見せぬように、との考えがあるに過ぎない。まるで芝居のように振る舞う人々に、期待できぬと見る人が居たとしても、無理も無いことだ。一方で、自らの長所を見出せず、売り言葉さえも浮かばぬ人が居ることも、今の社会が抱える問題となる。売り込みが当然とされる中で、こんな人々は埋没するしか無く、文字で表現することが第一関門となれば、門前払いもやむを得ないこととなる。昔の履歴書には、自己判断の長所と短所を書く欄があったように思うが、今は無いらしい。実は、両者を並記することで、気付くことがある。長所と短所は、表現次第で、どちらにもなりうる訳で、それに気付けば、自分の欠点を挙げるだけで、売り言葉に繋げられる訳だ。言葉の綾に過ぎないことだが、こんな気付きさえできぬ人材たちに、何を期待したら良いのか、過大評価の人々同様、難しい状況にある。

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10月7日(月)−強欲

 科学への期待は裏切られた。そんな声が度々聞かれるようになった。しかし、そこで問題となることが幾つかある。まず第一に、何を期待したのか。万能とまで言われた時代もあり、だとすれば、限界を見ようとしなかった方に責任がある。もう一つは、科学に携わる人間の存在で、その欲望が利害に繋がり、間違いを起こす。
 個人の思惑が科学の成果に反映されることは、これまでにも屡々あった。時に、勇み足へと結びつき、捏造と呼ばれる代物を作り上げることとなる。実験結果の改竄は、その一つとなるものだが、露見した多くは、あまりに杜撰な手法に、呆れることとなる。映像を裏返したり、画像データに手を加えたり、必死のあまり、手を出した結果は、稚拙な手口となる。問題は、その後の展開にあるのだろう。証拠が挙がっていようが、責任を認めない態度に、厳しい批判が突きつけられる。だが、幼稚な考えに基づく行為は、幼児のそれに似た所があり、責任感の欠如にも、精神の幼さが関係しているのではないか。更に狡猾な捏造に手を染めた人もおり、始めから期待通りの結果が出るように仕掛けられた実験は、筋書き通りの結果をもたらし、頭で産み出された虚構が、恰も事実かのようにすり替えられる。狂気にも似た行為に対し、厳しい批判が飛んだ挙げ句、当人は精神を病んでいると判定されたことさえある。これらは全て、科学の本来の姿を、歪曲する行為であり、人間が作り出した学問を、一部の常軌を逸した行為により、破壊するものとなる。これが科学への期待を失わせるものへと繋がったとしたら、それは誤解であり、傷口を塞ぐ必要がある。それにしても、知りたい欲を上回る欲が、これほどに膨らむ時代は、これまでに無かったのではないか。

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