パンチの独り言

(2013年10月14日〜10月20日)
(反抗、人選、似非、喧噪、弄言、荒れ地、手入れ)



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10月20日(日)−手入れ

 人の手を入れる、この言葉にどんな意味を持たせるかは、誰の手か、ということにかかるのかも知れない。高度成長の時代、利潤追求の先鋒を務め、開発の手を緩めなかった人々の場合、その後の破壊へと繋がる「悪の手」とされ、当時は、人の手を入れること自体が、自然破壊へと繋がる無謀とされていた。
 だが、人の手は、そんな成長の時代の遥か昔から、自然に対し、自らの利益も含め、自然との付き合いを続けてきた。手入れという言葉に、そんな思いを馳せる人も居て、最近は、里山という言葉に、その現れを見る人が居る。深い山奥の話ではなく、身近な山との付き合いは、生活を守る為に必要なものとされ、今時の便利とはかなり異なるものを作り出し、日々の生活を彩っていた。再評価とは、少し誤解の入り混じった行為に思えるが、昔懐かしい友人が制作した番組には、そんな傲慢な考えとは違う、素直な感慨が満ち溢れた、懐かしさが滲むものになっていた。その後も、地方は過疎化に悩み、成長期を懐かしむ人々は、相変わらずの誘致ばかりに腐心してきたが、最近は、正反対の考えが、残った人々の中から生まれ、それに惹かれた人々が、徐々に集まり始めていると聞く。土地に根付いた人々には、当然と見えるものが、余所者には全く違った形に映る。そんな評価が、再認識へと繋がり、豊かな生活を誇りにさえ感じ始めると、過疎に泣く地域という姿は、全く違った装いを見せる。徐々に、昔を懐かしむだけでなく、その生活を取り戻しつつ、更なる手入れを施すことで、日々の生活を楽しむ。そんな姿に憧れる人々が、徐々に集まり始めているわけだが、どんな変貌を遂げるのだろうか。人の手を入れる作業は、長い歴史の中で脈々と受け継がれ、里山の自然を守るとともに、土地の人々の生活を彩り、守ってきた。ごく当たり前のことが、そうでは無くなり、一時的に失われかけたものの、また息を吹き返してきた。この国の人々は、自然の恵みを受けねば、生き延びて行けないのかも知れない。

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10月19日(土)−荒れ地

 競争を前面に押し出すことで、支援を正当化する動きが、高まった時期があった。成長を続けた時代には、次への備えという考えが大勢を占め、無駄という思いよりも先行投資といった感覚が、優先されていた。ところが、勢いが衰え始め、それが明らかになるにつれ、ばらまきを否定する為に、競争が第一とされた。
 それから既に二十年以上の期間が経過し、そろそろ、方針転換の成果を検討しても良さそうだが、そんな気配は微塵も感じられない。原因の一つは、競争が一つの指標に基づかず、続々と繰り出される新たな基準に、検討の基盤が築けないことがある。朝令暮改は当然で、より良い仕組みを構築する為の、重要な一歩を記すものとの解釈も、これほど長い期間の放置の果てでは、影の薄いものとしかならない。この事態を更に悪化させているのは、競争に勝つ為の手段の選択に、根本的な誤りが続出したことにある。勝負の鍵となるのは、それぞれの競争の基礎となる、成果の質と量の問題だろう。だが、質を吟味することは、同じ基準に則る対象であれば、さほど難しくないものの、異なる分野を同じ線上で扱うことは困難を伴う。その為、多くは量を判断基準に置き、数の多少を指標とすることとなる。本来、質を追い求めていた中で、いつの間にか、量だけが評価されることとなり、方針転換に戸惑う人が出る一方で、劣悪なものを多産する人々に、注目が集まり始める。競争は、こんな歪みを産んだだけでなく、劣悪の意味する所が、捏造や偽造を招くこととなり、倫理や道徳が、今更のように取り上げられ始めた。その中で、最近問題とされたのが、企業からの支援である。支援を得る為の嘘が横行し、倫理観の欠如が指摘されるのは、その根底に、競争による専門家意識の荒廃があることではないか。今頃、拙速な規制をかけても、荒れた土壌は元には戻らぬ。

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10月18日(金)−弄言

 給与を上げてもいい、と言っているらしいが、果たして信用できるものか。この際、信じるも信じないも、期待するしかないではないか、という声も漏れてくる。それが正直な感想だろうが、どうなるのだろう。景気が良くなれば、という前提は、相変わらず生きているようで、何とも中途半端な指標と思う。言い訳になりそうにも。
 誰もが窮屈な生活を強いられ、手に入るものより、出ていくものの方が、多くなっているように感じるようだ。だが、実際にどの程度のものが出て、どれ位が戻ってくるのか、更には、社会全体として受けている恩恵はどの程度のものなのか、はっきりした数字が示されたことはない。感覚的なものが多く、数字で表したとしても、感触の良さを数値化したに過ぎないから、誤魔化しにも似た数字の操作を見ているだけだ。そんなものを前面に出して、国民の思いは、などと訴える報道に、どんな意味があるのかと思う。更に言えば、操作の過程で、数字の出し方をも動かすわけだから、そんなものに客観性などある筈もない。それを、鬼の首を取ったが如く、絶対的な指標として使うのだから、信用を失うのも自業自得というものだろう。世相とは、所詮その程度のものと思えば、ちょっとしたことに一喜一憂する必要もないわけで、様子を眺める確かな目も、自然と身に付いてくるのではないか。貧しく愚かな人間を、救うべく立ち上がった人々、という図式を保ちたいと願う人々は、依然として、同じ手法を使い続けているものの、相手の意識は徐々に変わりつつある。まだ、多くの愚民は右往左往しているものの、一部の人々は異なる情報源を眺め、真意を探ろうとする。心配や不安という心理要素は、依然として大きな影響を及ぼしているが、冷静な反応も見ることができる。ただ、欲を抑える程には、冷静さが高まっておらず、目の前の利益に引き摺られる傾向は、まだまだ大きいようだ。

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10月17日(木)−喧噪

 先週取り上げた話がまだ燻っている。互いの主張は歩み寄らず、正当性を掲げる勢いは、収まる気配を見せない。それでも、期限が直前に迫ると、少し緩める動きが見え始め、回避に光が見えたと伝えられる。だが、終わってみなければ、決して安心はできない。何しろ、期限を守らずとも、という声が出るくらいなのだから。
 借金生活が続くのは、現代社会の国の状態では、ごく当たり前と受け取られる。だが、それを膨らませ続け、何処かで破裂させたらどうなるか。誰も想像したくない事態を招くと言われる。ただ、どんな事態が起きるのか、起きてみなければ判らないようだ。まさか、それが油断を招いている訳ではないだろうが、何処かに楽観があると言われるのは、そんな状況によるのだろう。それにしても、こんなことまでして、互いの主張を通さねばならない事情は、何処にあるのかさっぱり判らない。長い目で見るにしても、それぞれが違う方を眺めているのだから、合意に至る可能性は殆ど無い。それが明らかなのに、何故互いに拘り続けるのか、真意を窺い知ることはできそうにも無い。こんな姿を眺めていると、何やら破滅に向かって、暴走を続けているように見えてくる。中途半端が良いとは言わないが、極論を戦わせることに躍起となり、歩み寄りの精神を放り出したのでは、どんな組織も動かせない。勝手な言動が続き、後ろ盾を失った時、彼らの存在は消滅する。そこまで行かないと、気付かぬ人々には、運営にあたる資格は無いだろう。そんな連中に期待した人々も、同様に良識が備わっていないのではないか。利害ばかりを追い求め、全体の均衡を考えない中では、一時の満足は得られても、それきりの幸せで終わってしまう。一時でも夢が見られれば、と思うのも、最近の流行の一つかも知れない。

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10月16日(水)−似非

 本物を味わわせる、という意図で、様々な手立てが講じられている。本物とは何かを示し、それを手に入れる為の情報を提供する。情報社会では当然のことだろうが、直接触れる機会を得られぬ人々には、やはり距離を感じるのではないか。では、とばかりに、世界進出を促すことには、依然として賛否両論がある。
 動物性脂肪の過剰摂取が、健康に及ぼす悪影響について、次々と明らかになるにつれ、食生活の改善が急務とされてきた。だが、食欲は、人間の持つ欲望の中でも、大きな割合を占めるだけに、味気ない健康食は、簡単には受け入れられない。そんな時代に、体型の明らかな違いと寿命の長さから、大いに注目された国があり、その源が食にあるとの解釈は、材料も料理法も全く異なる食べ物に、興味を抱かせる結果となった。未知の味に対し、反応は様々であり、食べず嫌いの人も居ただろうが、いつの間にか、健康食だけでなく、美味しい食事として市民権を得たようだ。だが、ある線を越えた頃から、似て非なるものが出現し始め、名ばかりのものが出回るようになると、注目を浴び、賞賛の声を喜んだ人々も、偽物への不安を抱くようになる。どんな料理も、食べる人々の嗜好に合わせて、様々に味付けを施す。それが結果として、名ばかりのものへと変貌し、全く異なる食べ物へと変わる場合もある。だが、商標と同様に、名前からの連想効果は、大きな影響を及ぼす。だからこそ、本物を、という声が大きくなったのだろう。だが、材料も異なり、環境も異なる中で、何を本物と見なすかを決めるのは、容易なことではない。わざわざ出かけて行き、本物を提供するという話も、歓迎する一方で、違いが露呈することに、危惧の念を抱くこととなる。本物は、あるべき場で提供されてこそ、という考えによれば、場を失うことは、全てを失うことになる。

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10月15日(火)−人選

 人を選ぶことの難しさは、古今東西変わりなく、人の心を悩まし続けている。それは、入学試験という、成長過程で施される選抜に始まり、社会へ出る機会を得る場面でも、様々に工夫される。それぞれに人生を決める大切な決断と言われるが、それなら、配偶者の選択も、重要な決断を迫るものではないか。
 配偶者は、結果的に、人生を共にする人となる訳だが、それまでの過程では、好ましく思うことから始まり、それが一つの山を越えることで、法律も含め、様々な手続きを経て、最終的な決断へと繋がる。こんな書き方をすると、恋も愛も感じられないものになるが、蓼食う虫も好き好きと言われる程、人の好みは定まらず、他人の理解が得られないことも多い。ただ、最近は、駄目なら解消という安易な答えが用意され、気楽さが優先されることで、逆に、慎重な選択が遠離ることとなり、別の危機を招く事例まで出てくると、気楽ばかりを優先することに対する抵抗も高まりつつある。一方、人生を決めるという意味で、試験はどうあるべきか、人材育成が急務と見なされる時代に、新たな手法の導入が検討されていると伝えられる。これまでの統一試験に変わるものとして、資格試験にも似た仕組みが検討されているようだが、海の向こうの仕組みとは、また違ったものとなっているようだ。それへの尊重から、他の選別方法に関して、排除を求める意見もあるらしい。だが、そこで残る方法は、これまでの経験から、適正な判断を導けぬ、との評価が下されており、社会へ出る機会の選択でも、効果が疑われている。確かに、第一段で理解度を確認し、その上での、個人の考えや意見の調査となれば、現状とは明らかに違うものとなるだろうが、第一段は現状でも確認できるのではないか。それが誰かの判断であり、客観的でないとの指摘も、新導入されるものがどれ程の客観なのか、疑いは払拭できない。その意味で、一つに頼るより、複数にという考えには、意味があるだろう。当人たちに負荷を与えないという下らない論理は、この際、却下すれば良いだけのことだ。

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10月14日(月)−反抗

 いい加減な情報を垂れ流す、と書けば、それぞれに思い当たることがあるだろう。その一方で、あんな情報源は既に信頼を失い、誰も見向きもしないとの指摘もある。だが、もしその通りだとしたら、公的な役割は果たせず、存在自体が無意味となるのではないか。当事者たちは、どこ吹く風か、相変わらずの放言を続ける。
 人道的な立場、というものが確かにあるのか、定かではない。だが、その代表であるが如くの言動を続け、自らの主張を正当化する人々が居ることだけは、確かだろう。人の道は、彼らの存在とは関係なく、それぞれの人々の心や頭の中に存在するが、彼らのように歪んだものではなく、真っ直ぐで判り易いものだろう。それに比べて、ゴテゴテと装飾された彼らの人道では、自分たちの見方で強弱の区別をつけた人々を、大きく二つに分けて、弱者に寄り添うことが肝心となる。最も判り易いのが権力であり、それを保持する人々は常に強者となり、あらゆる暴挙の源と見なされる。区別が先に来て、その後に理由が付けられるから、表面的な論理は維持されるものの、誰もに通用するものとはならない。驚くべきは、強弱の区別であり、それが先に来るだけに、ある瞬間に弱者が強者に変貌したり、その逆のことが起きる。だが、当事者たちには、この不思議はそうは映らないらしく、前言撤回も、そんな事情からすれば、何の不思議も含まない。悪の存在、嘘の横行、そんな時代には、こんな役目も重視されたが、肝心の暴露も、それ自体が嘘に塗れていては、何の意味も成さない。死者を批判しない姿勢には、冷静さが失われており、大きな偏りが感じられる。これも暫くすると、大体の情勢が把握できるようになり、様々な偏見が露呈するだろう。被曝の問題も、過小評価という言葉だけが踊り、その意味する所は触れられずじまいとなる。作為を指摘したいだけの姿勢は、核心を見極められず、見る価値無しとなるのだろうか。それぞれの道を見失った人々が迷う中で、光を当てる筈の存在は、更なる迷走を続けている。

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