学ぶことの意味は何か。新たな知識を手に入れ、それを役立つ形にする、という答え方がある。となると、役に立たない知識は、無意味なものということになるのか。最近の傾向は、こんな具合のようだが、学ばせる時の勢いで、有用かどうかに触れるようで、無益なものは、関わらなくてよいと言われる。
だが、本当にそうなのか。結果的に役立つかどうかに関わることはあっても、学んでいる最中には、全く違った感覚が先に立っているのではないか。興味、という言葉は、ここまでの間、一度も出てこなかったが、一度でも熱中したことのある人には、馴染み深い感覚だろう。何故、という理由に思いを馳せることも無く、いつの間にかどっぷりと浸かってしまう。始める前にあった筈の目的も、棚の上に上げてしまい、次々に湧いて来る知りたいという欲に、任せた結果がそこにある。欲とは、確かに目的を持ったものではあるが、冷静な判断とは少し違う、何かに囚われた感覚が、そこにあるような気がしてくる。この感覚を抱いた人にとって、興味本位の行動は、決して恥ずべきものではなく、最終的には、何らかの目標に到達できるという、満足感さえ得られるもののようだ。それに対して、最近の傾向から見られる人々の行動には、前提ばかりが大きくなり、人の関わりが著しく小さくなってしまった、そんな姿が見られる。その結果、目標には到達できず、前提ばかりが山のように積まれ、最終的には、達成感や満足感とは程遠い状態に留まる。こんな書き方をすると、まるで後進を騙しているだけ、に思えてくるが、先人たちにそんな思いはなく、単に、その勧め方が一番との思い込みがあるだけだろう。この考え方の一番の間違いは、自分の経験とは全く違ったものを、より良い方法として採用した点にあり、最近の傾向の典型に思える。やったことのないことを、やらせることの下らなさ、さて、どうしたものか。
不安定な話が続いて、それもある意味の不安要素となる。だが、前にも書いたように、管理して貰っている以上、こちらができることは殆ど無い。しかし、数日前からの不安定ぶりは、どうだろうか。半日通じなくなった後、ほぼ一日通じただろうか。その後の断絶は、一日以上続き、お手上げ状態となった。
ここで、こんなことを何度も書くつもりは無いが、現状では、偶々通じた時に書き始めるだけに、すぐに適当な話題を思いつける訳も無く、何となく、通じなくて困ったことを書き連ねる方が、書き易く感じられてしまう訳だ。で、つい書き始めてしまい、どう続けたら良いのか、すぐには思いつかない状態に陥る。それでも、何か続けて行かねばと、少し考えてみるのだが、繋がりがありそうな話題は、思いつけそうにも無い。ついでと言ってしまえば、その通りだが、この所の天災の話も、同じように手の施しようも無いと思えてくる。災害が起こり、再びその状況がやってきそうに感じられた時、多くの人は、それは御免とばかり、準備を整えようとする。だが、今度は期待外れの如く、何も起きずに済んでしまう。これはこれで幸いなことなのだが、何となく納得できない部分が残るようだ。これの何処が、この頁の状況と一緒なのか、と言われそうだが、実際には、他の手立てを考えること無く、何となく同じ事を繰り返すのと、似ているのではないか、と思うのだ。まあ、いずれも、勝手な考え方に過ぎないが、似ているような気がする程度のことで、大した意味は無い。ただ、何となくの被害妄想も、似た事なのかも知れない。こんなことを書いているが、実は、キーボードの調子も悪く、余計な文字が勝手に入力され、面倒極まりない。さて、この辺で止めておくとするか。
偶に海外旅行をする時だけ、気になるものがある。為替の状況だ。この頁の設置目的は、為替の影響を大きく受ける業界の人々に対するものだが、最近は動きが鈍く、株価への影響も目立たない。そんな中で、鈍重な動きに対して、面白い分析結果を示す人が居た。景気が良くなったのなら、二割増の水準の筈、とするものだ。
この人物は業界の人間の中で、珍しく、今流行の言葉を嫌い、その実体の無さを、始めから主張し続けている。その結果、年の始め頃の発言から、番組への出演依頼が途絶えたのでは、と想像したくなるような事態を招いた。半年ほど見かけなかったからといって、本職には何の影響も無かったのだろうが、流れに逆らう意見の重さを、感じさせられる。今また、その筋書きでの分析結果を示した訳だが、今度は数値としてのものだけに、以前のような扱いは受けずに済みそうだ。経済は、数値が全てと受け取られ易いが、その実、解説に耳を傾けると、心理要素ばかりが並べられ、感覚を重視する姿勢が窺われる。数字に馴染んだ土壌では、感覚さえも数値化され、それが他の数字と比較されるから、一見数的処理の結果吟味を眺めるものと思わされるが、実際には、同じ軸で比較すべきものではないことが明らかで、業界全体の無謀な行為の表れと見なすべきだろう。それにしても、言葉だけが踊り続け、都合のいい解釈が横行する中で、実体経済が伴われることは無く、人々の貧窮感は、拭い去られることが無い。そんな中で、警鐘を鳴らす人物に、どんな光が当てられるのか。暫く前に登場した大臣となった経済学者の無謀ぶりは、やっと批判の対象になりつつあるが、依然として、敵対勢力に圧力をかける動きは強く、自らの無知や不明を恥じる気配は微塵も見えない。あの時ほどでは無いにしろ、このまま閉塞感が拭えないと、同じような動きがまた頭を擡げることになるかも知れない。
誰も気にしていない、のかも知れない。不安を煽り続ける人々に、騒ぎに加わる人の声が重なり、如何にも重大な事態に陥っていると思える。だが、肝心の相手は、都合のいいようにしか受け取らず、動きは鈍いままとなる。結局、笛の音ばかりが鳴り響き、誰も踊り出さぬのでは、何が何やらといった所か。
災害が起こる度に、警戒の情報の重要性が強調される。確かに、難を逃れる為には、情報を手に入れ、的確な判断をし、早めの行動が重要となる。だが、確実な情報は無く、確率的な指標の中で、判断を下さねばならず、結果的には、多くの空振りの中に、大当たりを出す、野球の不確実な打者に似たものとなる。選択は人に任されるが、多くは無駄を省き、確実性を上げたいと願う。となれば、決断の線は、自ずと上げられることとなる。確実性が高まれば、外れが増えることに、気付かぬ人も居るようだが、大事に至る話では、ほんの僅かな確率も、影響の大きさからすれば、無視してはならぬ、と言われるものとなる。そんな背景から、煽り続けられる雰囲気が、当然のものとなってきたのだろう。僅かでも、失敗の可能性があるのなら、それを避ける為の方策を、講じ続けることが肝心、となる。だが、今の状況は、そんな扇動に対し、動きを起こす人は少なく、それも、情報の吟味無しに、ただ決め事のように繰り返すだけとなる。被害に遭えば、次からは注意するが、暫く経つと、すっかり元に戻る。これを大事と考える人々は、更に声を荒げるけれど、耳が傾けられること無く、時だけが流れる。自業自得と片付けることは、安易に過ぎるのだが、そうとしか思えぬ状況からは、この問題の解決への糸口は、見出せそうにも無い。
繋がらない。不安が過ぎるものの、講じられる手立てはない。無料で提供されるネット上の空間は、多くの人が利用していると思えるが、皆、じっとその時を待つのみだろう。最悪の事態を想像したとしても、どうなるわけでもない。結局、待つしかないのだ。だが、今の時代、ああでもないこうでもないと、考える人がいるのではないか。
不安は、何と言っても最優先のものである。不安に勝るものはなく、何があろうが、不安の一言で優先権を得られると言っても良いのではないか。そんな情勢では、情報伝達も、不安を主体とすることになる。何もない状態、つまり不安が無く、心配する必要の無い時には、何の情報も流れない。正常な状態は、誰も気に留めず、誰も心配しないから、伝えることはないとなる。だが、少しでも、異常を感じさせるものが出てくると、途端に大袈裟な程の取り上げ方が為される。異常は、心配へと繋がり、不安へと陥れるきっかけを作る。だから、伝達の価値が高まり、挙って取り上げることになるわけだ。しかし、正常が何かを知らずに、異常を取り上げるのは、何処かおかしくないだろうか。伝える側は、異常であることを声高に訴え、それを強調するだけでなく、補強するための手段を尽くす。重要な役割を果たしていると思う人もいるようだが、実際には、何が正常であり、どこまでが正常かを知らぬ人々が、騒ぎ立てているだけのことが余りにも多い。そんな中で、正しい情報が伝えられているのか、と問われれば、頼り無い状態にあると言わざるを得ない。世の中の趨勢が、そちらに向いているのだからと正当化するのだろうが、意のままに操るために、そんな操作をする人々が、それを正当化すること自体、間違いとなるに違いない。少なくとも、異常だけでなく、正常も伝えてこそ、役割を確かに果たすことになるのではないか。
売り込みの言葉が踊る。何を売りつけられるのか、不安を抱く人も居るだろうが、直接購入を迫られることは無い。税金という形で、国に吸い上げられた資金の一部が、売り込みに励む人々に配られるのだ。数多ある提案の中で、自らが目立つようにする為には、様々な売り込みが不可欠となる。時に、恥も外聞も無く。
国からの支援を受ける事業は、様々に存在する。災害を受けた地域は、そこからの回復を謳い、支援の必要性を訴える。大規模な災害の後には、それぞれに異なる状況を提示し、優先的な措置を望む声が殺到する。その中で、高い順位を勝ち取る為には、時に売り込みも必要となるのだろう。だが、そんな状況では、勇み足も目立つこととなる。過剰な要求には、様々な過大評価が伴い、場合によっては、粉飾となることもある。同じ事は、別の支援事業にも見られ、毎年、この時期に関係者が奔走するものに、研究費用の獲得への申請がある。申請は時期が限られているが、売り込みは年中続けられ、如何に重要なものかを、様々な媒体を通して訴える人が居る。受賞は、客観的な評価の一つに扱われ、その後の支援が厚くなることを見ても、重要な指標となっている。だが、それぞれの研究の成果は、論文や学会発表という形で示されるにしても、内容の評価については、必ずしも一定していない。その為か、売り込みに躍起になる人々は、報道機関への広報に走り回り、文字にしてもらうことを目指す。学界内での評価は、それで高まる訳ではないが、納税者への周知が図れる、ということだろうか。だが、自らの売り込みには、客観性が乏しく、専門知識を欠いた解釈には、勇み足と思えるものが目立つ。これも競争による弊害の一種であり、粉飾も辞さない人々が、活躍する場が出来上がる。客観性の失われた競争は、その発表の場にまで、客観性を失わせる事態を招いている。
流行の先端を行く、業種によっては最優先の課題となるようだが、何が流行を決めるのか、定かではないようだ。服飾業界では、先取りが肝心とばかり、半年先の傾向を予想し、それを製品披露に反映させることが、常となっている。だが、予想の根拠に関しては、誰もが理解できるものとはなっていないようだ。
大衆は、一流企業の予想を参考にしたり、店頭の販売員の助言に耳を傾けたりと、様々な情報を手に入れ、先端を走ろうとするが、単に業界の趨勢に流されているに過ぎない。作る側の都合が、買う側の感覚に影響を及ぼすのは、この業界では当然のものとなるが、全ての製品に関して、同じ事が当てはまる訳ではない。その為、先端を掲げる企業は、流行も含めたものを的確に把握する為に、様々な手立てを講じる。大衆を対象とした調査も、その手法の一つとされるが、見たことも聞いたこともないものに、どんな魅力を感じるか、などという問いに、どんな反応を期待しているのだろう。問いの表現力に、大きく左右される調査では、的確さに欠けた結果が出たとしても、不思議ではない。作る側にとっては、不正確な予想は、大きな損失を生じることに繋がり、企業の存続さえ左右しかねない。服飾では、生地の仕入れに問題を残し、部品などでも、金型などへの投資に無駄が出かねない。そんな状況で、勝負に出る為には、ある程度確かな予想が必要となるのだろう。だが、人の心は移ろい易い。予想通りの展開もあるだろうが、正反対の結果に終わることも多い。一度始めてしまったことは、簡単には止められないだけに、慎重にならざるを得ない。だとしても、やはり、流行ほど予想通りに行かないものも無い。となれば、先頭を走るより、二番手三番手で追いかけた方が、無難となるのだろう。着実な歩みは、慌てぬこと、なのかも知れない。