パンチの独り言

(2013年10月28日〜11月3日)
(指図、買ってでも、世間体、出歯亀、読書、値踏み、文化)



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11月3日(日)−文化

 文化という言葉を聞く度に、思い出すことがある。ある新興都市に住んでいた頃、文化が無い、と口癖のように話す人々が居た。科学振興を支える為に、研究所が集積された地域は、それ以前には農地が広がるばかりで、文化と呼ばれるものは一切無かったと言われた。土着の人々には、失礼極まりない発言だが。
 そこに現れた余所者たちは、科学に関わることを生業とし、日々研究に勤しむ人やそれを支える人、更には教育という形で人材育成に努める人が居た。科学を鍵として集まった人々は、マッドサイエンティストなどと呼ばれる人はごく一部で、研究に没頭する時間以外は、一般人と変わらぬ生活を送っていた。その中に、文化が高い地位を占める人も居て、美術や音楽の鑑賞を趣味とする人が目立っていた。彼らの一部が、その地域にその為の施設が無いことを嘆き、文化が無いと訴えていた。確かに、彼らの分類を基にすれば、美術や音楽こそが文化なのだが、それ以外にその呼称に適うものは無いのだろうか。当時、浮かんだ疑問の一つは、科学がその対象とならないのか、というものだ。生業を文化と呼ぶのは憚られただろうが、れっきとした博物館が存在するくらいだから、科学にその資格が無い訳ではない。にも拘らず、周囲の人々の言葉は、科学にとって逆風になるものでしかなかった。その理由の一つは、博物館のような存在が無かったことだが、それだけなのだろうか。多種多様な対象を揃えることで、全般的な学習を可能とすることが、博物館の目的の一つだが、科学を文化として扱う為の、唯一の方法とは思えない。特に、最新研究が進められる場所では、全般よりも、最先端にこそ、意味があるように思える。落ち着き、長く楽しまれるものこそが、文化と呼ばれるという意見もあるだろうが、見方を変えても良いのではないか。自分たちの生活を支え、楽しみを広げるものであれば、その価値があるとすれば、科学もその一つとなる。それを広げる形として、博物館以外の関わり方も、あり得るのではないか。その後の展開は、模索が続いたものの、様々な試みがなされ、幾つかの答えに行き着いたように思う。もう、文化が無い、と言っていないのでは、と思う。

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11月2日(土)−値踏み

 評価と言うと、下されることばかりに目が向くが、自分は他人のことを、どう評価しているのか、考えたことがあるだろうか。考えるまでも無く、普段から、あの人はこういう人、この人はああいう人、という具合に、一種の判断をしている。それを自分でどう呼ぶのかは判らないが、世間では評価したとなる。
 となれば、基準が気になる所だろう。親切にしてくれた、助けてくれた、などの理由は、個人的なものに過ぎず、他人に通用するものではない。主観的な形に留まらず、客観性を高める為に、基準と呼ばれるものが必要となる。主観的なものが、感覚に基づくことが多いのに対し、客観的なものは、数値で示すなど、比較をし易くしているのが特徴だ。数字の大小は、誰もが理解できるもので、余計な要素が入り込む余地は少ない。基準さえ決めておけば、算出した数値を比べるだけで、客観的な評価が下せる。これほど便利な方法だが、それが嫌われることが多いのは、数値の算出方法の煩雑さや曖昧さなど、決め方の問題が残ることと、印象などの感覚を数値化することの難しさに、不満を抱く人がいるからだろう。だが、基準が示され、それを目標に努力を積み重ねるのであれば、これらの問題は、解決する必要も無い。にも拘らず、結果として嫌われるのは、何故だろう。不当な評価と受け取るのは、自分にとって都合の悪いものに過ぎず、基準やその比較方法に問題があるとは限らない。その結果が悪いことに、最大の問題があるのだ。ただ、その原因は、何処にあるかと言えば、自分しか思い当たらない。それも都合悪いから、他人のせいにしたくなる訳だ。その評価が次の段階に結びつくとなれば、評価への批判は更に高まる。突然飛び出す別の基準も、本人にとっては当然でも、客観性に欠けるとなる。窮余の策も、悪足掻きとされるだけだ。努力も、成果に結びつかねば、無駄に終わる。

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11月1日(金)−読書

 三文の得ということも無く、加齢現象とは思いたくないが、早朝に目が覚めるようになっている。無理矢理眠りに戻るより、起きて何かをした方がまし、とばかり、この画面だけでなく、テレビ画面にも向かうこととなる。報道番組も、早朝から流れているので、前日の遅版位の情報は手に入ってくる。
 それらとは別に、以前は深夜に向かう頃に眺めていた番組が、実は早朝にも流されていることに気付く。淡々と語る出演者は、用意した原稿のままに話すことを強いられているようで、何とも言えぬ硬さが感じられるが、内容は時事問題に限られる。多くは一瞬しか耳を傾けないが、本日のお題は、読書に関することとて、眺め続けていた。有名な詩人の話には、活字離れがある一方で、本の読み方という種類のものだけは、読まれ続けているという事実の紹介から始まり、本を読むことの意味、意義といった話題へと移っていった。様々な見方を、識者たちが紹介する本の中身は、それぞれに特徴を持つが、功罪を含めた論点には、極端な程の違いが現れる。それを次々に紹介することで、読む姿勢のようなものを見せようとしていたのか、自分の考えを持つかどうかが重要という話も、人それぞれに反応が違いそうだ。知識の広がりについても、必ずしも肯定的とは限らないとの紹介に、成る程と思った人もいるだろう。これらの意図も理解できるが、一方で、以前ここでも書いたように、決まった読み方ばかりを追う人々の登場は、そこに更なる見方を加える。肝心の活字離れは、依然として深刻な問題であり、特に、売買の対象となるものについて、厳しい状況にある。視野を広げる為にも、という誘いも、時に期待外れに終わるのは、番組で紹介された見方からすれば、当然のものかも知れない。この放送は、今はアップされていないが、暫くの間、「視点・論点」の中で読むことができるだろう。

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10月31日(木)出歯亀

 事件が発覚する度に思うことがある。何故、原因や理由を、執拗に追いかけるのか。何を知りたいのか、という疑問と共に、何故知りたいのか、と思う。異様な事件であればある程、その異常さに目が集まるが、その背景を知ったとしても、正常な人々の生活にとって、何の役に立つと言うのだろう。無駄としか思えぬ。
 嗅ぎ回る人々からは、真相を知ることで、如何なる罰を下すかを決めるべき、という意見が戻ってくる。そこで、更なる疑問が生まれることになる訳で、罪の評価は、起きたことから判断できるのに、そこに至る道筋や歴史、更には心情を細かに知ることに、どんな意味があるのか、と思う。確かに、殺人という事件が起こる度に、殺意なる不思議な感覚の認定が、重視されることが多い。傷つけようとする意図であれば、全く異なる基準に基づく処罰を与え、反省を促すという法律がある為だが、常に微妙な状況を招く。時系列的に処理すれば、徐々に心情は変化し、その度に違った感覚を抱く。しかし、この判断は、ある時点でのものを対象とするだけに、何処に線を引くかが問題となるからだ。細々とした分析を繰り返し、結論を導き出そうとするものの、変化し続けるものには、一つの答えを出すことは難しい。そんな展開に、更なる興味を掻き立てられるからか、野次馬根性が強く発揮される。結果的に、核心に迫るだけでなく、辺縁に広がる関係の薄い情報まで集められ、多数の関係者があぶり出される。収集癖に似た行動は、徹底的な結果に至り、逆の立場から見れば、迷惑ばかりが残ることとなる。異常なもの程、一時の興味が高まり、迷惑が増えることを考えると、無意味な行動に、疑問を抱くのだ。異常は何処にでもあることだが、そこに至る道筋を知ったとしても、それを避けることが難しいのは、誰もが知る所ではないか。それでも、穴掘りがしたいのだろうか。

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10月30日(水)−世間体

 最低限のこともできない人が増えた、と言われる。常識の範囲と呼ばれるものも、その括りが暈けてしまい、外れても気付かぬ人が増え、呆れることも度々起こる。「ホウレンソウ」と言い表される行為も、その媒体となるべき言語の運用能力に、著しい減退が見られるとなれば、飾りにしかならず、効力が失われる。
 言語は、あらゆる表現において使われるものであり、心を読むことができるようにならない限り、互いの意思の疎通に必要となる。そんな状況から、誰もが身に付けている筈のものであり、巧拙があったとしても、最低限の情報伝達には、困らない程度には維持されているとされる。だが、現実には、期待から程遠い水準にあり、どちらの方向の伝達も、叶わぬ状態にあるものが多い。現場では、無い物ねだりは無理との考えからか、例示に努め、対策を講じているが、例外が多い環境では、様々な困難を抱えている。その中で、制限をかけたり、懲罰にも似た仕組みを採り入れることで、個人の努力を促す所もあるが、能力や常識に欠ける構成員には、思い通りの反応は起きていないようだ。縛りがかけられる中で、それをくぐり抜ける為に、様々な工夫をする人々がいるが、一時の恥や減点を恐れる余り、非常識としか思えぬ行動に出る。これらの制限は、組織内に適用されるものだから、外に向けて同じ行動をとっても、罰を与えられる心配は無い、とする論理は理解し難く、意味不明な行動となるが、当人は、罰を避けることしか頭にあらず、文字通り、恥も外聞も無い行動に出る。こんな事態を目の前にして、何ができるかという疑問に、答える術は無い。もし、答えがあるとしたら、能力向上に期待するしかないが、その難しさが現状を招いたことで、答えにならないとされてしまう。となれば、教育現場への期待くらいしか、残らないのかも知れない。

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10月29日(火)−買ってでも

 悩むことで成長するとか、逆境に反発したことが今の地位を築いたとか、要職に就く人々の意見に、若者たちの戸惑いの声が届く。平凡に生きたいと思う心に、悩みを抱えたり、逆境に陥るのは、恐怖が感じられ、何としても避けたいと願い、それがまるで、成長を妨げる要因の一つと思わされているからだ。
 ここで大切なことは、始めの話をした人々が、悩むことを望み、逆境に自ら入り込んだか、という点であり、その視点を欠いたままに、重要な話のように伝え、広げる人々の見識に、足らないものがあるように思う。特に、何も始めていない人間にとって、様々な知識を貪欲に取り込むことが必要なのに、そこで悩むことの方が大切、と信じ込ませることは、基盤を作るのを妨げるばかりか、進むべき方向を見誤ることに繋がる。山谷のある人生を歩む人がいる一方、平坦な人生を歩む人もいる。その違いが、それぞれの人の成長に、影響を及ぼすかは、一概には言えない。にも拘らず、成功者を引き合いに出し、彼らの歩みにおける障害を、殊更に取り上げることには、物語としての面白さ以外には、悪い影響も多くあるように感じられる。先人の経験から学び、自らの糧とすることは、人間社会が成功を収めた理由の一つに違いないが、だからといって、全てのことが役立つとは限らない。特に、追い込まれるとか、突き落とされるとか、そんなことが起きた後に、成長のきっかけを掴んだ、という話には、そんな場面に出会した際には、役立つこともあるだろうが、成長の為に、自らをそちらに導く、という考えに向かうことは、明らかに間違いだろう。精神的苦境に追い込み、それが一線を越えてしまい、壊れてしまった人々の中には、こんなことに憧れた人も多いのではないか。馬鹿げた考え、と片付けるのは簡単だが、それに導こうとする悪い奴がいることには、気付き難いようだ。

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10月28日(月)−指図

 検索機能が向上し、探したいものがあれば、即時に答えを示してくれる。そんな時代に、何故、これほどに能力の低下が問題視されるのか。便利な道具は、期待通りの結果を導かず、画面の前に座る人間は、無駄な入力と的外れな結果に、落胆するだけとなる。だが、その原因は、その人間にこそ、あるのではないか。
 様々な形で、動物との違いを表現することで、人間を特別視する言葉は、昔から頻繁に使われてきた。しかし、研究の進展に伴い、特殊性に翳りが見えるばかりか、肝心の能力の減退が、社会的な問題となり始め、新たな方策が講じられている。だが、根本解決には程遠く、問題は深刻化し続けている。人間の能力を伸ばす方法は、巷に溢れているけれど、実績のほどは定かではなく、単なる商売としての魅力に過ぎぬものばかりだ。その中で、十分な能力を備えていない若者たちは、的確な指示に基づく、傾向と対策のみに精を出し、経験したこと以外には、興味さえ抱かぬ役立たずとなりつつある。自分の力で、と促す声に対しても、その為の方法を聞き返すようでは、期待は薄い。その典型とも思えるのは、本からの知識獲得に対する考え方で、若者たちへの推薦書を提示する試みが、様々に行われているが、指示通りに読む人々は、そこから何が知られるかについてさえ、推薦文に従って、その通りに受け取る傾向が強く、自分なりの理解は欠片も無い。最近の読み物にも、そんな人を対象としたものが増え、一つの答えだけを判り易く示す、といったものが目立ち始めた。書物は、そこに含まれる文章に、書き手の思いが込められると言われるが、それをどう受け取るかは、読み手の自由と言われてきた。だが、今の傾向は、そこにまで道筋が示され、その通りに歩むのが当然、との思いがありそうだ。それが能力の高低に結びつくようでは、期待できるものは皆無となる。昔、漱石が憂慮したことは、今の人々には、どんな伝わり方をするのか。また指示通りだろう、か。

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