怖がっていては、やるべきことに手をつけられない。予定していた時期が来たから、重い腰を上げねばならぬのに、決断がつかないように見える。但し、これは当事者のことではなく、遠くで眺める人々のことだ。我が事のように振る舞うが、その実、他人事に過ぎず、つけ続ける注文も、無理難題とも思えるものだ。
危険性を指摘することで、安易な試みからの失敗を防ごうとしているとか、様々な見方を示すことで、安全性を高めているとか、この類いの人々からは、そんな反論が続く。確かに、見込みが甘く、想定が不十分だったことが、今回の事故を招いた訳だが、遠巻きにしたまま、あらゆる可能性を指摘しようとしても、現実を目の当たりにしない限り、答えは見えてこない。こうすればこうなる、といった単純な思考は、こんな災厄の後は、全く役立たずのものと見られ勝ちだが、手順を考える中では、道筋をつける為に不可欠なものとなる。そこから更なる広がりを、検討することが重要で、それを広範囲に渡って実施した後に、今回発表された手順が作られたのだろう。不備を指摘する声が多いようだが、発表資料に含まれぬものが、どれ位あるのかが知れぬ中では、一方的にしか見えない。始める前から、様々な障害を指摘し、危険性を殊更に取り上げる姿勢には、間違いがあってはならぬ、という心理が働くが、ここでの逡巡がどんな役に立つのか、聞いてみたくなる。慎重な構えが大切だとしても、手を出さぬ訳にも行かず、長引かせたとしても、確実な方法が見出されるとは限らない。今できることを、確実な形で、という思いがあったとしても、安全安心にしか目が向かない人々には、届くことは無い。その仲立ちをすべき人が、一方にすり寄る中では、恐がりが広がるばかりで、期待は膨らむ筈も無い。
この所の相場の動きを眺めていると、そろそろ掛け声の響きが弱まり、回復の歩みも緩まってきた。確かに、勢いを持って動き始めたものの、成長と呼ぶには程遠い状況に、落胆の色を隠せない。国内事情だけでなく、外との関わりが強い中では、思惑通りの動きは続かず、こんな事態に陥るのだろうか。
輸出主体の業態では、為替の変動に一喜一憂するが、一時に比べ、かなりの割合で有利な比率に動いたからか、業績の好調が伝えられている。ただ、最近の傾向は、輸出一辺倒ではなく、輸入がかなりの重さを示し始めている。その中では、互いの貨幣価値の比較が、単純な結論へと結びつかず、複雑な仕組みや入り組んだ需給関係に、悩まされることが多くなった。とは言え、庶民にとって重要なことは、自らの生活への影響であり、物品の値段の変動だけでなく、収入の変化が、最も大きな要素と見なされる。雇い主の懐は、少しは豊かになりつつあるのに、末端には、中々響いてこない、と訴える人々にとって、今の状況が、一番苦しい所かも知れない。業績好調が伝えられる中で、相場の停滞は先行きへの不安を抱かせる。となれば、経営者たちの決まり文句が、またぞろ出て来る訳で、末端への流れは、いつも通りにせき止められることになる。一部では、口約束が様々に出されているが、春の訪れがあるのか、待ち遠しさばかりが募って来るのかも知れない。だが、待っているだけでは何も起こらない。これまでの経験から、そんなことを思う人も居るだろう。かといって、何をすれば良いのか、答えが見えている人は居ない。ただの訴えでは、また同じ事、と思うのみだ。
愚行が様々に伝えられるが、何の為なのかさっぱり判らぬことが多い。目的や意図を明確にせよと、世の中の動きは強いのだが、この辺りの事情に関しては、無関心かと紛う程に、面白おかしく垂れ流す姿勢が貫かれている。他人の愚かさを眺め、優位を感じることが、大衆の望みのように見えるが、果たしてどうか。
目的や意図について言えば、愚かな行動をしてしまった人々についても、不思議な対象と見なせる。彼らなりのものを持っていたとしても、独り善がりのものばかりで、共感の得られぬ考えに満ちている。そんなものは、一笑に付すしか無く、何度も紹介し、分析を繰り返すことに、無駄を感じる人も多い。にも拘らず、大衆は、との思い込みと、独善にも似た、狭量な考えに基づき、報道に携わる人々は、愚行を追い回し、血眼になって追い求める。目的も意図も、どうでも良く、口の端に上るような話題を提供すれば、との思いは、瓦版の趣きがあり、維新後の一部の新聞に似た姿だが、その後、報道とはとの思いが深まり、良く言えば、良識に従い、悪く言えば、偉そうに、社会の問題を取り上げてきた。だが、最近の姿は、まるで先祖返りのように、痴話話や井戸端の話題に終始している。何処に向かうか、知れたものではないが、彼の愚行の人々の、無知や非常識を、笑っているだけでは、何の意味も成さない。彼らを罰するとしても、目を注ぐ価値はなく、無視すればいいだろう。人気を追いかける人々が、巷を走り回ることを、当然のものと見るようでは、お先は真っ暗ではないか。そんな姿勢を許す人々が、一番の問題に違いない。
どの位の昔だったのか、正確には思い出せないが、ブランドと呼ばれる高級品を追いかけ、世界を飛び回る人々に、目が注がれたことがあった。有名バッグに手を伸ばし、次々と購入する女性に、好奇の目が向けられる。そんな光景が、経済成長著しい国情と重ねられ、成金ぶりが揶揄を込めた批判にさらされていた。
維新と名付けられた時代に、舶来品と呼ばれた品物に、憧れも加えた形で過大とも思える評価を下す一方、自国の品々には、古臭く冴えないとの酷評をぶつけた、過小評価は、後に悔やまれる流出を招いた。正当な評価に必要となる審美眼も、心理的影響に大きく左右されるだけに、こんな社会状況では、激しい攻撃にさらされ、歪んだ評価を受け入れざるを得ない状況に追い込まれた。その一方で、舶来品の礼賛は静まる気配も見せず、続々と流入し、玉石混淆の広がりを見せたようだ。戦争を機に、礼賛の勢いは一時衰えたと見えたものの、敗戦は、その勢いを復活させた。その後は、始めに書いた時代に向けて、経済成長と共に勢いを増し、国内に留まらず、世界中を買い漁る姿が見られる程に至った。ブランド志向と呼ばれる消費行動は、成長が翳りを見せても勢いは衰えず、更なる広がりさえ見せることとなった。宝飾品を始めとする装飾に関わる品物への憧れが、いつの間にか食べ物に広がり始め、旅行中の美食を懐かしむ人々は、それを手に入れられる場所に足繁く通う。商売への注力から、農畜産物にもブランドを、という戦略が功を奏すると、挙って独特の呼び名を付け、ブランド化に励む生産者が登場する。その流れに乗る人々は、様々な呼称を用い、美食への誘いに励んだが、そこでの嘘が次々に発覚し、謝罪の光景が映される。だが、美味しいとは、と考えたことの無い人が、彼らを批判するのは、おかしくないか。食べて美味しいかどうかが肝心なのに、その前にもたらされる情報で、気分が変わるような人々に、と思う人は多いだろう。安い偽物に飛びつき、税関で没収された人々に、何の責任も無いとは、誰も思わないのと同じ事に思える。
子供の頃、偉人伝、所謂伝記に夢中になった人も居るだろう。一部で話題にされる「道徳」の時間にも、各地独自の副読本が配付され、地元で功績のあった人の話を読んだ。今は殆ど問題にならない水不足の話も、その中では用水の建設の中心人物の活躍として、何度も登場した。川の水の奪い合いが消えた時代なのだ。
伝記に夢中になった子供たちにとって、中心人物は憧れの人だった。将来は、あんな人になりたい、との思いを描き、実現した人も居るだろうが、いつの間にか、思いが薄れ、何処かに落ち着いた人の方が、遥かに大いに違いない。これらの人物は、近くとも半世紀前に活躍した人であり、評価や評判も落ち着いた上で、活字となった。そんな時代から、自伝も多くあったのだろうが、子供向けの伝記は、それとは全く違った視点で、書かれていたのではないか。その後の変遷で、この辺りの事情が少しずつ変わってきたことに、最近気付かされたことがある。海の向こうの王室に居た女性の話やこの入力機器を製造した企業の創業者の話が、次々と映画化されたことが伝えられたからだ。話題の人物たちに違いないものの、さほどの時代を経ずに、皆の目に触れる形で取り上げられることに、違和感を覚えた人は少なく、興味を抱いた人の方が多いのだろうが、そこにある覗き見趣味に似た雰囲気に、どうかという思いは依然としてある。確かに、彼らの生き方に学ぶべきことは多く、感動もするのだろうが、関係者が未だに彼らの生活を続ける中で、一部だけを取り上げる作品を、作ることにどれ程の意味があるのだろう。憧れてきた人にとっては、大切な思い出を抱き続ける為に、必要なものなのかも知れないが。
話題を追いかける人々にとって、一時の熱中はすぐに失せ、次の話題へと移るのは、当然のことだろう。興味深いのは、同じ話題に戻ってきた時の、彼らの反応で、飽きること無く、目を向け続けてきたかのように振る舞う。どう見ても、流行廃りに合わせて、目の向け方を変えてきたのに、開いた穴を埋めようと。
この現象は、送る側が主導権を握っているように見られているが、実際には、受ける側にも同じ傾向があり、送り手は受け手の興味に合わせて、意思決定をしているに過ぎないとも言われる。誰が主体かは確かでなくとも、表に現れているのは、移り気な話題提供であり、それが社会全体に広がっていることは、確かだろう。ネット上の情報伝達に関する、非常識な言動への批判も、若気の至りとの寛容な意見が、度重なる愚行に対して、厳しいものへと変貌したが、その後は、一時の盛り上がりも何時の間にやら消え失せ、若者の常識を疑う声も、聞こえなくなってきた。ただ、仕組みへの批判は、依然として強く残り、無責任な発言が飛び出す度に、問題視する動きも頭を擡げてくる。肝心な媒体は、既に株式公開の済んだものは、勢いを無くしつつあるのに対し、特に、この国で厳しい批判にさらされているものは、公開に向け、評価を上げつつあるとされる。媒体は、便利さこそが評価され、各人が書き込む内容に対して、何の責任も負わないという実態が、こんな所に影響を及ぼしているようだが、長い目で見れば、暴言、妄言、放言が繰り返され、徐々に便利さより、不快さが優勢になることで、忘れ去られる存在となるのではないか。密談を好む国民性からは、仲間内だけの情報交換の媒体に、興味が移りつつあるようで、特に、若年層はその傾向が強いようだ。ただ、「仲間」という鍵は、時に、心の負担となることが知られているだけに、今後の展開は、決して明るくないと思える。
文化を感じたいから、味わいたいから、展覧会に足を運ぶのだろうか。それにしても、休日とは言え、これほど多くの人々が集まる催しに、驚くばかりとなる。海の向こうからやってきた、一人の画家の作品に、多くの人が集まり、一つ一つの作品の前は、黒山の人集りとなる。全てを見逃さぬように、との思いからか。
向こうの美術館の所蔵だから、そこに行きさえすれば、それらを眺めることはできる。だが、そんな機会を掴めるのは、ほんの一握りに過ぎない。国が豊かになり、自由に使える金を手に入れた人々は、挙って未だ見ぬ国へと出かけていった。眼鏡と写真機に象られた人々に、好奇の目が向けられたのも束の間、経済大国の仲間入りした国の人々は、それに見合う評価を求めていった。それが、美術鑑賞に代表される、文化への関わりであり、独自の文化を築いてきた国の人々が、異国のものへの興味を抱いたのは、歴史上で何度目のこととなるか。いずれにしても、国の豊かさに翳りが見え始め、将来への不安が度々口の端に上るようになったとは言え、依然として、文化への憧れは衰えていない。数がそれを表すかは、定かではないものの、食べることに見合う程の額を、ただ絵を見るだけに費やすことに、何の違和感も持たないのは、やはり文化への意識が定着したからだろう。それにしても、山の向こうに小さく見える絵の一つ一つに、遠くから視線を送ることに、意味があるのだろうか。確かに、かぶりつくように眺める人々は、細かい点にまで目が向かい、全てを手に入れることができるのかも知れないが、それだけが鑑賞の手段では無いだろう。遠くから眺め、ぼんやりとでも全体を掴むことも、鑑賞の一手段となる。それにしても、予想外に多い水彩の小品に、遠くからでは、全体さえも掴めなかった。それもまた、混み合った展覧会の一齣なのだろう。