パンチの独り言

(2013年11月11日〜11月17日)
(猛省、不信、願望、達成、優遇、痛い所、数珠繋ぎ)



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11月17日(日)−数珠繋ぎ

 社会の歪みに目が向くと、自然の話題を取り上げることが少なくなる。平和な時代が続いているのだから、社会も平穏と思い勝ちだが、実は、平和だからこそ、下らないことだけ言っていても、問題なく、次々に訳の分からぬ話を続ける人まで出てくる。相手にしなけりゃそれまでだが、暇な人は、聞く方にまで居るのだ。
 それでも、聞く価値無しと思えるものまで、流し続ける、判断力さえ失った人々が、のさばるのが平和ということか。無視し続けるのも、実は放置するだけとなり、我が物顔の人々は、我が意を得たりの姿勢を続ける。批判を向けることの必要性は、大いにあるのだろうが、これほど、下らぬ情報ばかりが溢れる時代には、手間ばかりがかかり、効果は見込めない。いずれにしても、そんな人間社会の中で、逞しく生きる生き物は多い。この間、偶々目にした雀たちは、面白い姿を見せていた。車で通りかかった時、ガードレールにとまった鳥たちは、きれいに並んでおり、今まで見た中で、一番見事な整列を見せていた。この季節、雀が群れで動くことが更に増し、その数も多くなっているように見える。その中で、この時の雀たちは、金属の板の上に、殆ど隙間無く並んでいた。数える時間はなかったから、どの位の雀が居たのか判らない。だが、びっしりと並んでいたことからしても、かなりの数だったのだろう。電線に、という歌があったように、電線にとまる雀は珍しくもないだろう。だが、車がそばを通る、同じ高さのガードレールは、安全とはとても思えない。誰かが始め、皆が従ったのか、と思うけれど、人間と同じと見なす必要があるのか、どうなのだろう。

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11月16日(土)痛い所

 乱暴な物言いは、受け入れられ難い。そんな時代と言ってしまえばそれまでだが、それにしても、と思う人も多いのではないか。イジメの話と同じように、乱暴かどうかも、受け手の問題とされるからだ。話している本人が、どんな思いで直截な表現を使うのか、理解されることは少なく、印象ばかりが優先される。
 丁寧な言葉遣いが好まれることは、理解できない訳ではない。しかし、その中に、「いただく」が多用されたり、「してあげる」などと言われると、丁寧さを通り越し、単なる無知に思えてくるから、困ったものだ。自分を主として、他の人に向かって、「させていただく」と宣う人は、遠慮か何かを前に出したつもりかも知れないが、自分でやることに、許しが必要な場面でない限り、使うのはおかしいと思う。「してあげる」も、目上の人に対するものを除けば、異様に聞こえることが少なくない。特に、人でなく、ものに対して使う人を見ると、首を傾げざるを得ず、結果的に、中身の理解が妨げられる。この類いのもので、最近頓に気になるのは、「してもらう」だろうか。子供たちに何かをさせるのを、「してもらう」と言われると、一々耳に付いて、離れない。丁寧さ、を優先する余り、いつの間にか誤った用法が日常的に聞かれるようになるのは、異様に思えることだが、使う本人には、そんな意識は全くない。元の話に戻れば、乱暴な物言いには、そういう丁寧さを欠いた所があるものの、話の本質には変わりがないばかりか、却って、核心を鋭く突くものが多い。痛い所を突かれた時に、心が痛みを覚えるのは、乱暴に苦しめられたからではなく、的確な指摘に気がつかされたからなのだ。確かに、言葉遣いを丁寧にすることで、説得力を高める効果はあるのだろうが、表面的なことばかりに目が向き、本質に目が向かないのは、大いに問題なのではないか。

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11月15日(金)−優遇

 特別扱いを、人は望むのだろうか。人それぞれという答えが、殆どだろうが、それにしても、伝えられるのは、特別の大盤振る舞いに見える。望む人の数を推し量ること無く、新しい考えに基づく、特別な扱いが続々と登場する。必要と問われれば、同意せざるを得ない状況だが、泡に似た姿には、期待も弾けてしまう。
 必要である筈の特別扱いが、余り歓迎されていない現状は、実態と心理の乖離を表しているのかも知れない。困っているが、助けを求める程ではない。そんな状況は、長くこの国にあったものだが、最近は、少しずつ事情が変化している。とは言え、本当に困ったと思わない限り、声を上げない人々より、貰えるものなら何でも、という人の数の方が、増えているような印象がある。現実の大小関係は、依然として変わっておらず、一部の騒ぎが、特殊な例を殊更に強調している為に、強い印象を残したようだ。だからといって、次々と繰り出される手当が、本当に必要なものかは、怪しいものだ。検証をする暇も無く、山のように積まれた提案に、魅力は感じられず、無責任なばらまきと揶揄されたとしても、仕方の無い状態にある。停滞状態にある経済も、その機会を与える必要性を、高める手伝いにしかならず、喫緊の課題などという言葉が踊る中では、確かな手立てが講じられることも少ない。慌ててお膳立てされた特別扱いに、魅力が感じられないのは当然で、その後を見通せない中では、それが不安に変わったとしても、仕方ない所だろう。そんな中で、飛びつく人々は、今が良ければ、というだけの刹那主義者であり、彼らにとって、今の時代は、実は生き易いのではないか。

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11月14日(木)−達成

 品格という言葉が、巷に溢れているが、意味を眺めると、おやと思わされる。人物や物品が有する「気高さ上品さ」と辞書にあるのを見ると、誰もが気高く、上品である筈も無く、物品も、値段に見合う価値をもつだけ、と思えてくる。そんな表現を殊更に用いるのは、何処か差別を感じさせるものではないか。
 一つの目標として、高い所に目を向けることが、悪いとは言わないけれど、人それぞれに持っている才能には、限りがある。それを全て上に向けようとしても、限界がすぐそこに見えてしまうことも多く、そんな人にとって、気高さや上品さは、高嶺の花としか思えず、諦めの境地へと追い込まれる。それだけでなく、落胆は更なる追い討ちをかけ、嫌気が差すことになる。あるべき姿を紹介しただけ、という書物が世に溢れる中で、実は、そんな人々を作り出していることに、気付かぬことには、疑問を抱かざるを得ない。確かに、そんなことに影響される、弱い心の持ち主にも、問題はあるのだろうが、話題を追いかけ、核心を突こうとする気持ちが、極端な掛け声へと変わることで、こんな事態を招くことは、今の時代には、日常化しているのではないか。他人の目を気にして、独自の行動を控える心理は、大衆の心の奥深い所まで突き刺さり、社会全体を、平均化させることになる。品格を訴える人から見れば、平均的な姿は、その水準に達しておらず、更なる努力を強いている。だが、肝心の相手は、そんなことには興味が無く、皆と同じで良いと思うだけだから、こんなすれ違いは当然だろう。もう一つの流行言葉に、分相応というものがあるが、こちらの方が、今の時代にも通用しそうな気がする。それぞれの実力に見合った姿を目指すだけなら、誰も余計な悩みを抱えずに済む。適当な所で止めるという諦めには、反対の声も上がっているが、だからといって、無理難題に取り組むだけでは、成長も到達点も遠離るばかりだろう。

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11月13日(水)−願望

 次の世代への期待は高まり続けている。成長を続ける為には、自らの努力だけでは不十分であり、それを継ぐ人々が出てこなければ、そこで切れてしまうことになる。そこで、自分たちの過去の状況を思い起こし、何時どのような手を差し出されたら、助かったかを議論する。当然の思考様式と思えるが、どうか。
 この考え方の基本となるのは、同じ才能や意識を持つ人間が、そこに居た場合に、どんな手立てが効果をもたらすか、といったものだろう。今、成長を支える人々が、若い時代にどんな考えを持っていたかは、重要な要素と見なされているが、その一方で、最近の若い者は、と聞こえて来るように、明らかな変化がある場合に、期待された効果が手に入れられるのか、という心配がある。確かに、時代の変遷と共に、人々の考え方は変化し、貧しかった時代と、豊かになった時代で、同じことを対象として考えても、時に、正反対の意見が出て来ることを考えてみると、昔はこうだったから、それをこのように変化させたい、というやり方では、目の前に立つ人々には、通用しないことも多そうだ。こんな心配をよそに、世の中は、自分がやりたかったこととか、できなかったことを、若者たちにやらせようとする、機会を与える姿勢が、数多見られる。誰も欲していない中で、できなかったことを押し付けられたとして、果たして、どれ程の効果があるのか、怪しいものかも知れない。では、どうすれば良いのか。まあ、確実な答えがある訳でもなく、様々な試みを続けるしか無い。その中で、自分の話を引き合いに出すのも、やむを得ない話、なのかも知れない。だが、そればかりが並ぶようだと、無駄が増えることに、そろそろ気付いてはどうか。学校教育に、様々な試みが持ち込まれる現状には、そんな目を向ける必要がありそうだ。

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11月12日(火)−不信

 風評に悩まされる姿が、何度も映されていた。真実に基づかない、根も葉もない噂に振り回され、誤解に基づく、謂れ無い疑いを突きつけられ、困惑に満ちた表情には、罪無き人々の混乱が現れていた。それに比べて、偽装と括られた話題の、渦中の人々の表情はどうだろう。他人事のような、そんな雰囲気があるのかも。
 自らの嘘が招いた混乱に対し、謝罪を繰り返す人々に、厳しい批判の目が向けられる。騙されたと思う人程、怒りを込めた視線を向けているようだが、何とも表現し難い違和感がある。一流の料理人とか、最高級の材料とか、そんなものが、料理の質を決めるのか、定かではない。それどころか、騙されたと思った人々の舌は、果たしてその質を見極めるのに、十分な能力を有していたのか。こんなことを書くと、問題から目を逸らせ、混乱を招く発言と言われそうだが、どうしても引っかかるのだ。味わうという行為は、舌だけで行うもの、と考える人は多いが、今回の問題は、これが心理的なものに過ぎないことを、如実に表しているのではないか。違いを見極めることの難しさは、実際に試してみれば判るだろうが、普段の生活の手料理においても、そんな経験ができる筈なのに、気付いていない人が多いのだろう。日々の料理でも、一定の味を維持することは難しく、一方で、同じ味付けでも、日々の気分で随分と違った感覚となることも、多くの人は知っている。そういう人にとって、一流との謳い文句は、大きな影響を及ぼす訳だ。確かに、嘘はいけないけれど、それを使わせたのは誰か、考えてみた方が良い。この線に乗る話に、料理店のランク付けの本があるが、今回の騒ぎに、巻き込まれてはいないようだ。自らが築いた基準に、自信を示す機会と見たか。

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11月11日(月)−猛省

 愚かなる大衆から人気を得て、絶頂の最中に退いた人は、二つの極端な評価を得ている。地位にしがみつくことなく、潔く身を引いたという評価がある一方で、狭い視野と近視眼的な計画を断行し、混乱の極みに至る直前に、いち早く逃げ出したという評価だ。どちらに与するかは、人それぞれだろうが、今の姿は。
 暫く音無の構えだったものが、最近頓に名前を見るようになった。凋落を続けた経済が、別の掛け声から勢いを取り戻し、風当たりが緩んできたと見たからか、相も変わらぬ勝手な発言に、諸手を挙げて歓迎する人々は、自らの愚かしさを省みることはない。時流を読み、耳目を集める発言を、好んで繰り返す姿勢は、当時と全く変わらず、役立たずの感は否めないけれど、無責任な発言は、百害あって一利なしとしか思えず、自らが責任を負う立場にあった頃を、思い出す能力さえなくした、一種、認知症とも思える言動を続けている。資源問題は、当時から取り沙汰され、その中で、勝手気儘な発言を繰り返した宰相は、嘗ての姿と見紛うばかりの喧嘩腰の姿勢を示す。だが、当時から、同じ問題を抱えていたことは、今更書くまでもないことであり、その責任を果たしもしなかった人間が、何の反省もなく、現状を憂えているかのように振る舞うのには、呆れるばかりではないか。大真面目な風を装うのも、以前と変わらぬ手法であり、それに付き合う人々の無能さに、批判する価値も見出せない。これ程明白な問題を、棚に上げるどころか、見向きもしなかった連中が、今更のように重要視する姿に、目を向ける価値はない。何に関わるにせよ、いらなくなったものが出てくることは、生産という作業においては、当然のことに違いない。その中で、その始末を考えることは、直接関わる人間だけでなく、何らかの利益を得た人々なら、責任の一端を担わねばならない。にも拘わらず、全体でなく、局所的なものへと、視線を向けさせ、議論を成立しないものへとさせたのは、彼らを中心とした組織だったのではないか。とは言え、あの人に何ができるわけもなく、まあ無視しておくのが、良識なのかも知れぬ。

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