何の為に働くのか。そんな疑問を抱え、悩んだ末に、年長の人々に尋ねた経験を持つ人も居るだろう。何時の頃か、そんなことを尋ねられ、答えに窮する人が目立ち始めた。自分の経験を話せば済む筈が、何故、と思う若者たちには、疑心暗鬼が広がり、不安に苛まれる人まで出る。どうしたものかと、先輩たちは見つめるのみ。
実は、答えが返ってこないのは、簡単な理由なのだ。働く目的を尋ねられても、これといった考えも持たずに来た人にとって、答えを用意することは難しい。目的意識を植え付けられて育った世代にとって、無意識に生きてきたという話は、興味をそそるというより、意外にしか思えないのだろう。目的を持たず、何がしたいかなどとも考えず、毎朝出かけていく気持ちは、彼らに理解できる筈も無い。だが、これからの人生を考え、悩む人々にとって、今更、何も考えずに、と言われたとして、できる訳が無い。では、どうすれば良いのか。尋ねられた方から、出せる答えはまず見つからない。やはり、尋ねた側が、自分自身のこととして、何とかするしか無いのだろう。そこで、次の質問を出しては、自分ですることはできなくなる。結局、これまで、押し付けられ、強いられてきた考え方を、あっさりと捨て、何も考えずに、という心境に向かうしか無いのではないか。もし、それができないのなら、無理にでも目的を置き、無理にでもそれに向かうしかない。悩んでも、考えても、正しい答えが見つかる筈も無い。肩の力を抜き、今できることに、挑んではどうか。
デフレーションは、諸悪の根源のように扱われる。確かに、経済学の立場から見れば、停滞から縮小に繋がる道筋は、その後の経済規模の収縮に結びつき、全体の仕組みが崩壊する危険性を孕む。経済は成長を続けねばならない、という考え方にも異論は多いものの、社会全体としては、デフレを避ける必要があると結論される。
だが、庶民の生活において、物価の下落は必ずしも敵とは思えない。学問から見ても、短期の影響は殆ど無く、長期的視野においてのみ、その危険性は取沙汰される。目の前の品の値段が下がれば、生活が楽になったり、他に使い道を探すこともできる。値下げを歓迎し、安いものを探す行為も、生活の面から言えば、当然のものと言える。だが、学問の世界では、これは避けるべきこととされ、政策として、様々な手立てが講じられる。庶民にとって、歓迎できないことばかりだが、危険回避の為と言われ、値上げに結びつくように向けさせられる。だが、その転換期には、それまでとは違う、更なる苦境が立ちはだかる。物品の値段は上がり始めるものの、懐具合は以前のままで、家計簿の数字の遷移は、将来への不安を膨らませる。この成り行きに、為す術も無く、見守るだけという人は多いだろう。一度方向付けられてしまえば、この流れを変えることは難しい。こんな時代に、安いものを追いかけるのは、逆行しているように見えるが、知恵を巡らせ、工夫をする意味では、悪いこととは言えないようだ。ただ、安物買いの銭失い、の状況は、更に際立っているようだ。品質が保証されてきた時代を経て、それが当然のものとなった為に、値段にばかり目が奪われる人が出てきたとしても、何の不思議も無い。安いもの程良いとなった時、何かが変わってしまったようだ。最後には、タダが一番となれば、経済活動は停止する。何が悪いとの反論もあるだろうが、タダより高いものは無し、との話もある。この独り言を掲げている場所も、無料で有り難いのだが、今もアクセスできない。文句を並べるつもりは無いが、困っている。
文章を批判的に読む力、身に付けている人間から見れば、当たり前の能力だが、社会全体を見渡すと、嘘を見破れなかったり、簡単に騙されたりと、身に付いていない人の多さに、驚かされる。鵜呑みにして、振り回されれば、普通は懲りるものだが、この手の人々は、懲りないことに大きな特徴があるようだ。
被害者が過剰に保護されるとは言え、失った金銭が戻る筈も無く、人生設計も幻と化す。そんな大事件に懲りないとは何故、と思うのは、別の感覚を持つからだろう。正直と呼んだり、優しいと慰めたり、そんな対応を見ていると、無駄なこととしか思えない。生き抜く力を持たずとも、平和な時代には、流れに任せて生きられた。そんな事実も、激動の時代へと移るに従い、遠くに霞んで見えぬものとなる。批判的に、と聞いた途端に、意地悪とか、イジメとか、悪い印象を並べる人が居るが、すぐに感情に結びつけるのも、力を持たぬ人の特徴のようだ。鵜呑みにせず、まずは疑って、と聞くと、否定的な考え方と受け取る人が多いが、最後まで否定するかどうかは、中身によるのであって、始めの印象を引き摺る必要は無い。固定的な考えとか、固執する人に限って、批判的な見方ができず、敵味方の区別のみで、全てを決める傾向がある。一度、悪者と決めてしまえば、それが消されること無く、いつまでも続くのも彼らの癖のようだ。こんな愚民を相手にするのであれば、赤子の手を捻るより容易い、とは良く言ったもので、敵味方を明らかにしておけば、中身は何とでもなる。発電所の燃料処理に関しても、不安を前面に出すだけの報道が続いたが、作業の場面が映され、今の所、何も無いように伝える。本来なら、計画通りの進行を検証すべき筈が、すっかり忘れられたようだ。彼らの無能ぶりは、あの大規模なテロ事件を起こした教団の、代表として頻繁に画面に現れた人間の、度重なる嘘を見抜けなかった、ああ言えば、と呼ばれた行動から判るように、検証を忘れた所にあり、批判的な行動が、敵味方の区別に左右されるようでは、資格無しと見なすべきではないか。
気になる言葉。毎年この時期に発表される、流行語のことではない。また、これも毎年発表される、誤用の話でもない。文字通り、耳に付く言葉で、不必要な表現が多く、はっきり言えば、無駄としか思えないものだ。以前から取り上げている、「させていただく」や「してあげる」と似た状況と言えるだろうか。
試合が終わった後、選手たちから話を伺う光景が映される。質問に対して、答えをすぐに返す人も居るが、圧倒的に多いと思えるのは、「そうですね」という返事をする人々だろう。運動選手は、言葉遣いへの配慮は無いとの見方からすれば、これはまるで、英語圏での"you know"という表現に似たものと見なせるかも知れないが、実際には、この表現が他の領域にも広がり、気になる機会が増え続けているように感じられる。言葉遣いが教養の高さを表す、との見方もあり、差別の手段として、"you know"は使われることが多い。だから、高い地位にある人が、その言い回しを使ったら、評判はがた落ちとなるだろう。一方、「そうですね」には、それ程の影響力は無いらしく、前段に上げた言葉と並んで、教養とは別物に扱われているようだ。それにしても、質問に答える場面で、そうですねと言えば、肯定したに過ぎず、内容説明を補足する必要など無い。にも拘らず、その後に話を継ぐのであれば、始めの返事は何の為、と気になる訳だ。これはひょっとすると、と思えるのは、これもまた、前段で上げたものと同様に、柔らかさを重視するもの、との見方だろう。攻撃的とならず、親しみが持てるように、との配慮との解釈は、確かにあり得るが、気になるのは、議論を戦わす場で、柔らかさが求められるか、という点だろう。いい人であり続けたい、と思うのは、本人の自由だが、時と場所を選ぶべきだし、自らの立場も考えた方が良さそうだ。
対抗勢力、二極化という方式では、常に話題となる集まりだが、その実体は、という話題になると、毎回、曖昧な括りと不鮮明な姿に、惑わされることとなる。自らの主張を押し通したい人々にとって、賛成を得る為の早道は、反対者を作り出すこと、というのは、何とも不思議な図式だが、それが実情のようだ。
賛否を問う場合に、どちらでもないという選択肢を排除することを、第一と考える人々が居る。断行には、ある意味の決意が必要であり、それには賛同者を得ることが、重要となるらしい。その為に、中途半端な考えを、如何に少なくするかが肝心とばかり、対抗する人々を立たせ、彼らがいかにして邪魔をしているか、といった話を紹介する。これにより、自らの主張を際立たせ、反対者が如何に無能で、障害となっているかを、確かなものにする。多くの人の頭に浮かぶ人は、まさにその典型であり、対抗勢力の障害を遥かに凌駕する、負の遺産を山積みにしたことは、今更言うまでもない。だが、あの手法が好まれて以来、世界各地で、二極化は決定への近道と、多用されるようになった。ただ、弊害も次々に滲み出し、対抗する人々が、実像となった場合には、賛否を決めることさえ、難しい状態となる。結局、話し合いに基づく進め方にとって、歩み寄りが起きない仕組みは、それこそが邪魔となる。最高学府で話題となっているのは、教授会と呼ばれる会議の害悪のようだが、役員会との並列は混乱を招くと言われ、対抗勢力と呼ぶことで、経営の障害と見なされているようだ。しかし、件の場から漏れ出て来る話の多くは、対抗ではなく、熟考の場であり、ある意味でご意見番的な役目と見える。あの政治手法と同様に、こんな形で敵を作れば、味方が増えるとの考えが、悪者作りに向かうけれど、本質を見抜けぬ状況に変わりはない。運営や経営の中心となるのは、官僚と同じ立場にある人々であり、その無能ぶりがこの体たらくを産んだと見てこそ、意味が出てくる。まやかしに騙されてはいけないのでは。
新提案に注目が集まる。閉塞感に満ちた時代には、どんなものでも、打開に結びつくと思えるものであれば、歓迎される訳だ。しかし、それらの多くは、単なる思いつき、と思えるものも多く、出される度に関わることで、閉塞だけでなく、疲弊が募ることとなる。こんな時代だから、仕方がないとされるのだが。
雨後の筍のように、次々に繰り出される斬新な提案に、一時的に期待が高まるが、思いつきに過ぎないものでは、効果は長続きせず、二の矢三の矢が必要となる。一の矢でさえ、有り余る程の数に溢れている訳だから、それが二倍三倍になるとなると、関与する人々の手に余るものとなる。それ自体も大きな問題だが、数が増すことで、間引きが必要となれば、中途で打ち切られる提案の数も、自ずと多くなるものだ。試してみなければ、という考え方が、停滞にある時代では、変化を避けようとする考え方を、押し退けていくだけに、この状況は、悪化するばかりとなっているのではないか。その上、試みを重視する考え方では、始めてみてからの修正が、当然のものとされるから、迷走とも思える状況が生まれる。全てが悪い結果に繋がる訳ではないが、これほど多くの試みが、ほんの一握りの成功に結びつくとされると、どうかと思わざるを得ない。責任は、誰にあるのか明らかだが、先導することの意味が、重視されることから、たとえ失敗したとしても、責任を問われることは少ない。成功した時の評価に比べ、失敗への悪評は矮小化されるから、失敗を恐れずに進められることは、それ程難しくはないのだろう。だが、山のような失敗に、我慢の限界を超えた所も多い。試すことを躊躇うようでは、新提案は始めから上手くいく筈も無い。
普段着がいつの間にか高嶺の花となる。そんな時代の流れに、合理的でないなどの批判も含め、謂れの無い理由が様々に付けられ、普段に着る人を見かけることは無くなった。となれば、高嶺の花は更なる高みを目指し、手の届かぬ所へと行ってしまう。文化財となれば、何処か遠くの存在とて、当然のことなのか。
確かに、量販店で普段着を最小額の紙幣で購入する人々が、最大額の紙幣を束にせねば、買うことのできない高級品に、憧れ以外の感情を抱くことなどあり得ない。今でも、例えば授賞式などの正式な場で、着物姿の女性を見かけることはあるが、それらは普段着ではなく、正装であり、件の着物は場違いのものとされる。それが札束でしか手に入らないどころか、その中の最高級となると、家を手放さねば手に入らないとされる。粋な生活を心掛けると言っても、これでは、無理難題としかならない。特に、以前ならば、ほぼ同額とされていた正装用の着物も、売れないからと手の届く範囲になり、粋にかかる額は、更に高くなったとの印象を残す。そんな時代に、粋がる人々も少なくなり、背伸びもそこまで届かぬものとなった。生産者は、技術の継承に躍起となるが、肝心の商売が成り立たねば、商品価値を支えることは難しい。文化財も、眺めるだけの対象であれば、保存こそが最重要となるが、こちらは、人を着飾ってこそのものであり、これ一つという対象とはならない。そこで、生産地は様々に工夫し始めているが、中々効果が得られないようだ。試着を勧める催しも、着心地を感じるまでのものであり、購入を決断する一線を越えるのは、依然として難しい。技術の高さ、手間の多さ、素材の希少さなどを並べれば、その額を妥当との見方もできようが、高嶺の花の姿に変わりはない。たとえ試しはできたとしても、手の届かぬ品であることに違いはないのだろう。