パンチの独り言

(2013年11月25日〜12月1日)
(充足、機密、優遇、早期教育、比較、回復、無策)



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12月1日(日)−無策

 秘密を守る話で、話題は次々と移り、焦点は暈けるばかりだ。案出にあたる人々の浅慮に、大きな責任があるのは事実だが、批判する側の責任も、重いのではないか。役人の無能を問う声は、依然として大きいが、責任を奪われる中で、全力を尽くすことは難しい。公僕の奉仕は、無私に基づくものとは限らないからだろう。
 ある時期から、官僚と呼ばれる役人たちが、国の政策に関わることに、強い批判が集まってきた。右肩上がりが継続する中では、細々としたことについて、文句を並べることは、難しかったが、経済が崩壊したことで、批判の機運は高まり、その矢面に立たされたのは、官僚だった。おかしいのは、本来の決定権を持つ筈の人々が、その責任を放棄することに繋がる、官僚政治への批判を強めたことだろう。この方向に突き進めば、自らの役割を無いものにする訳だが、それを知ってか知らずか、躍起になっていた。愚かな人々に囲まれ、お山の大将となった人々は、愚かな行動を繰り返し、枢要な地位にある人の士気を挫き、多くの仕事の停滞を招いた。そんな環境が長く続くと、人材も腐り始めるのか、様々な問題が噴出してくる。最近も、無駄を省くという政策が、様々に実施されているが、中でも興味深いとされるのは、国が持つ資産の始末であろう。都心の宿舎は、長年に渡り、批判の対象とされてきたが、始末は、そこに留まらず、津々浦々にあるものへと及ぶ。無駄を省くと称する廃止措置は、それぞれに別の無駄を産み出し、住む人の迷惑を招くだけでなく、折角の資産を無価値にする。資産表を眺め、選び出す作業にあたった人に、どんな考えがあったのか。おそらく、何らかの数字を根拠とするのだろうが、意味を成さないのではないか。一方、住む人々も公僕だから、抵抗もなく、簡単な作業となる。批判の声をかわす為の政策として、安易に流れたと見るべきだろう。

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11月30日(土)−回復

 景気回復は本物か。毎度お馴染みの議論だが、どうだろうか。株価の上昇は急で、ごく最近の動向では、他の市場と比べて、著しい伸びを記録したとある。ただ、庶民の生活にとって、どうかという話になると、余り実感はないようだ。色々な指標が、それぞれに変化を繰り返し、総体として回復が実感できるのは、いつなのか。
 株価についても、上昇率のみを取り上げれば、確かに報道通りとなるが、同じ見出しの中では、6年ぶりの高値とあり、下がり続けてきた中では、少し戻っただけというのが、素直な感想ではないか。それでも戻したのだから、という考えの一方、バブルと称せられたとは言え、あの時代の株価には、未だ程遠い状態にある、との考えもある。それに比べると、海の向こうの最大の市場では、史上最高値の更新が伝えられる。互いに、平均を示す為の指標や、全体の動向を示す為の指標という具合に、全体の総和を示すものではなく、単なる指標に過ぎないのだから、比較は無駄とも言われるが、それぞれの市場での時代的比較に関しては、同じ指標なのだから、正しい結果を示しているのではないか、とも思える。ただ、こちらの市場だけを見ても、バブル当時と同じ銘柄が、指標の計算に使われている訳ではないので、やはり、短期の比較しかできないようだ。では、この上昇は、庶民生活が豊かになるきっかけになるのか。同じ記事の中では、投資家の動向を中心に、上昇の解釈が行われている。国内だけに限られた時代と違い、国の間で資金を移しながら、利益を上げている人々は、その国の経済状況には、直接関心を抱かないようだ。それより、表面的に過ぎずとも、上昇する場所に資金を移せば、収益が上がるという論理がある。となれば、経済状況に無関係に、人の関心が集まる場所に、資金が集まり、株価が上がる場合もある。本当の理由はどうであれ、その国に住む人々にとっては、自分たちの生活の方が大切なのだ。では、この国の経済は、何処へ。

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11月29日(金)−比較

 数字は不思議なものかも知れない。大小を比較するのに、便利な表現方法として、多くの人が当たり前に使っているが、比較の仕方によっては、変に思えることもあるからだ。数字だけを見れば、どんな比較も通用するが、数値として考えると、通用しないこともある。そんな馬鹿な、と思う人も居るようだが。
 例えば、6と12を比較した時、6は12の半分と言っても、何の間違いもない。これは、例えば長さの単位を付けても、6メートルと12メートルは、同じ関係になるから、正しい。重さについても、同じ関係は続き、このまま話を続けても、大した展開はありそうにもない、と思われるかも知れない。だが、温度の単位にしたら、どうだろうか。6℃と12℃はどんな関係にあるのだろう。大小関係ははっきりと現れるが、半分とか倍とかいう関係は、成立しない。数字そのものは、始めに書いたような関係にあるが、温度としてみると、6℃が12℃の半分の暖かしかない、と表現することは誤りとなる。そんなこと、当然ではないか、と思う人が多いだろうが、こんなことを書いたのは、まさにそんな表現を、公共放送の場で使っていたからだ。深海に棲むと思われた魚のアンコウが、全く違った行動をしていたとの報告の中で、産卵期には低い温度域に移動することを示した話は、普段12℃の海水を好む魚が、その時期には「半分の」6℃を好むようになる、と話したのに、反応した訳だ。原稿を書いた人間は、何の疑いもなく、この言い回しを使ったのだろうが、何人かの人の点検も潜り抜け、皆の耳に届いてしまった。言葉を特に大切にする筈の、かの放送局でさえ、こんな状況にあると、嘆かわしく思う部分もあるが、こんな細かいことに触れるまでもなく、既に、その能力を喪失してしまったのだから、取るに足らぬこととの見方もある。だが、この誤りは、言葉の乱れとは違うのではないか。

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11月28日(木)−早期教育

 先取りが第一との考えが、様々な形で溢れている。胎教はその最たるものだが、効果の程は確かではない。同じように、年齢を無視した形の教育は、魅力的な効果を謳って、宣伝されている。親の心がどんな動きをするか、知る術もないが、子供の為と称した、自らの夢の実現が、大きな重みを持っているようだ。
 分相応と同じように、年相応という言葉も、様々な場面で使われてきた。勝手な括りと反発する声もあるが、思いつきが蔓延する先取りの世界が、浮かんでは消えを繰り返すのとは違い、経験と伝承に基づくやり方は、目新しさに欠けるものの、安定した状況が続く。目新しさは、注目を集め易く、その為に過大評価に結びつくことが多いが、陳腐に思えるやり方で育つ人々の数は、中々減らないものだ。だからこそ、新しい手法が異常とも思えるくらい、歓迎されるのだろう。とは言え、その中身はどれもこれも宣伝文句程のものでなく、歪みを強めるだけのものさえ出てくる。大いなる実験と見れば、その実験台となった人々の存在は、意味が出て来るのだろうが、失敗の代償は、彼らが負うしかないことに、意欲的な親程気付かぬものらしい。それにしても、自分のできなかったことをやらせるのは、何を期待してのものなのだろう。外国語を操れぬ人々が、子供に期待したとして、時を誤れば、別の歪みを残し、台無しの人生とする場合もある。子供に対する責任は、親が負うしかないものだが、子の人生を親がいじることに、反発を覚える人は少なくないだろう。親心を理解してやる必要はあるだろうが、振り回されたとしたら、誰が被害者なのか、考えた方が良さそうだ。就学前の試みも凄まじいが、その後の教育期間それぞれに、親なりの工夫や社会の試行に振り回された人々が、どんな生き方をするか、想像を巡らせてはどうか。

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11月27日(水)−優遇

 この独り言を掲げているホームページは、元々、証券社員の人々の交流の場として、作り出された。今では、そんな人々が盛んに議論することもなくなり、チャットの中での会話も絶えた。本来の意味は無くなってしまったが、経済活動に関連する情報が、幾らか流れている場の提供、という意味は残っている。
 貯蓄に走る国民性は、事ある毎に指摘され、資産運用を促す声は、特に海の向こうから押し寄せる。だが、国民性などというものは、徐々にしか変化せず、思い通りの展開を迎えるには至っていない。では、その変化は起きないものなのだろうか。そちらの考えは、多くの人が否定しそうで、例えば、食生活においても、生活様式においても、西洋化と呼ばれる変化が次々に起きている。便利という指標で見れば、そういった行動様式の変化も、簡単に理解できるものだが、いざ、資産運用の話となると、便利は引き合いに出せそうにもない。安心の生活とか老後の備え、という言葉を並べてみても、貯蓄との差を引き出すことは難しい。利率がこれほど低下しても、変化が見えてこないのは、根本となる戦略に、何らかの問題があるのだろう。度々試みられているように、税率の優遇措置も、一部には更なる利益をもたらしたのだろうが、全体の傾向を変えるまでには効果を上げていない。その為か、最近導入することが決まった制度は、小さなお金しか運用できない人々を対象とし、興味を惹く為の手立てを講じたと言われた。だが、その欠陥が実施前から色々と指摘され、問題視する声が高まっている。となれば、改良型を、と思うのは、最近の傾向のようだが、驚くべきは、現行制度の実施前に、既に、改善したものの話が進み始めていることだろう。議論不足を露呈するような話に、不安を抱く人々は、更に興味を失うことになる。こんなやり方が横行するのは、結局、平和で安定しているからこそ、とは、言い過ぎなのだろうか。

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11月26日(火)−機密

 誰にも隠したいことはある。他人に知られぬよう、細心の注意を払い、慎重な行動に出る。などと大仰なことはしないだろうが、隠すべき秘密を持つ人は多い。個人の隠し事は、本人がその思いを遂げ、世を去ることになれば、そのまま誰にも知れずに消え去る。そうなって欲しいと思うのが、秘め事なのだろう。
 では、隠すべきことが個人ではなく、組織や国家に関わることだとしたら、どうだろう。人の命と違い、組織や国家の命は遥かに長いことが多く、先に書いたような形で消え去ることは少ない。更に、誰知れず忘れ去られることは、個人の話題と違い、避けるべきこととされる。巷で話題となっている、国家の秘密を隠す為の手立ては、様々な意見が並び、一つの答えに到達することが、難しい状況にある。議論を尽くす姿勢は、それを論じる場にはなく、結論を急ぐ姿勢が、露になりつつあるようだが、一方で、議論の的が、ずれ始めていることに、気付かぬ状況には、いつものことながら、問題とならないのかと、心配になる。秘密を守ることばかりに目が向き、何を特定とするかや、誰が指定するかに、目が集まっているが、秘密と指定することで、どんな利益がもたらされるかについては、誰も触れようとしない。既に明らかなように、国家間の密約は、互いの利益を維持する為に、隠されてきた。それを隠す意味が少なくなり、約束の役割が終わったと判断されると、誰もが目にする機会が与えられる。ところが、二国間で対応が異なり、一方では密約の存在が確認されたのに、もう一方では無かったとされた。これは秘密を守る姿勢の違いだけでなく、その証拠を保存する姿勢の違いによるものであり、本来なら、無効となるまでは、確認の為に保存する必要があるのに、秘密であるが故に、その重要性までも判断の埒外とされ、いつの間にか、消失してしまったようだ。秘密を守るという目的に、このことが明記されているかどうかが、実際には重要と思えるが、今の議論は、そこに目を向ける気配さえない。総番号の時もそうだったが、この国の人々は、核心を見抜こうとするより、誰かが導いた上辺の利害に惑わされるようだ。

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11月25日(月)−充足

 流行に遅れてはならない、とばかりに張り切る人々が居る。だが、表面的なことばかりを追いかけ、本質を見失ってしまえば、流れに乗れないどころか、深く沈んでしまう。世界標準を語る前に、自らの基準を整えねばならないが、追うことを優先する余り、新たなものを盛り込むだけとなる。足らないのは何か、見て見ぬ振りして。
 順位付けは、特徴を捉えた末の数値化だが、時に比較できぬものがあり、数字のみに目が奪われることに、大きな危険性を孕む。だが、誰もが判る数字に勝るものはなく、順位を最優先とする戦略も、やむを得ぬものとされる。ただ、順位を上げることのみを目標とし、本来の役目を忘れてしまっては、本末転倒となるのではないか。最高学府と呼ばれる教育の場は、鎖国の時代ではなくとも、国の中だけで活躍する人材の育成を目指した時代には、他国との比較を必要とせず、自らの基準だけで、方針を決められた。社会進出した人材が、国際化の波に乗って活躍すれば、基盤となった教育が、役目を果たしたと判断されていた。ところが、最近の流行では、育成の段階から国際的に通用する基準を設け、それを実行しなければならないと言われる。提案できるものを持つ所は、何とかなるにしても、それさえ持たぬ所となれば、何でも次々に盛り込むことしかできない。他でやられていることを盛り込めば、足らない部分を補える、との考えだろうが、基礎の欠陥を埋めなければ、不安定を増すだけだろう。国際化を目指した二重資格も、何に何を足すのかに考えを及ぼさねば、足し算にもならず、無駄が増すだけだろう。国内の一流大学が、世界の一流大学との単位互換を断られたのも、教育の水準が理由と伝えられた。足元を固めずに、流行に目を奪われては、結局、何も得られない。これは、そんな警告と見るべきと思えないだろうか。

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