パンチの独り言

(2013年12月2日〜12月8日)
(疑惑、沈黙、空白、質保証、小国、守秘、疑義)



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12月8日(日)−疑義

 疑いも無く信じることを、鵜呑みにすると言ったりする。確かに、鵜飼いで知られるように、鵜は魚を丸呑みにするが、魚かどうかは確かめるし、捕らえた鮎には嘴の痕が残っているという。ただ漫然と丸呑みにするのでなく、きちんと確かめた上で呑み込むのだから、人間の愚行の譬えに使われるのは心外ではないか。
 考えることを止めた人々は、不安や心配を口にすることで、立ち続けている。しかし、本来であれば、物事を受け止め、そこから考えることで、答えを導き、自らの存在を確かなものとするのではないか。当然のことであった筈が、いつの間にか、別の方法で権利を主張し、存在を誇示することが可能となった。今では普通に行われていることも、嘗ては蔑みの眼差しを向けられ、遂には無視されることとなっていた。批判は悪いことのように扱われ、評価は良いものしか受け止めない、疑いの目を向けるのは、悪意の現れと受け取られ、反発や反抗は、敵対行為として片付けられ、排除される。だが、疑いを無くした人間に、何が残るのかは、明らかではないか。様々な形で騙される人は、富めるか貧しいかに関わらず、存在する。唯一最大の違いは、その被害の大きさだろう。金銭的な被害は、なけなしの金を叩いたとしたら、三桁も四桁も違ってくる。その違いは、罪の重さに及ぶと思われ勝ちだが、現実には、騙す行為において、何の違いも無い。疑いを持つことの罪ばかりが強調され、それを無くすことが肝心な社会は、実は、荒廃するしかないことに、そろそろ気付いてはどうか。不安を煽る為に、20分以内に死ぬとされた線量に、驚いた人は多いだろうが、どう測ったのかと思う人は居なかったのか。各紙の記事を比べれば、一つを除き、単に数字を示し、危険性を訴えるだけだった。そこからも、考えることを忘れた人々の姿が、見えて来るのではないだろうか。

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12月7日(土)−守秘

 知る権利に注目が集まっているようだが、どうにも、下らない話にしか思えない。秘密との関わりで、知る必要性が取沙汰されるのだが、そことの結びつきは、情報統制と呼ばれたある時代の規制から来るものらしい。国としての悲劇が、全てそこから生まれたかのような説明に、責任逃れの感は否めない。
 秘密を守ることが優先されず、知る権利の主張ばかりが強まる。領海侵犯の問題も、本来の違法性より、実況中継にも似た映像の漏洩に、目が集まってしまった。知りたがりの覗き見趣味は、今に始まったことではないが、彼らの正当性の主張には、情報統制とは正反対の危険性が潜むことに、気付かぬ人々に、主張の権利さえ見出せない。この国の人々の、中途半端な理解とそこから生まれる誤謬については、今更取り上げる必要も無いが、それにしても、扇動に勤しむ人々と、それに与する人々の、責任感の欠如たるや、凄まじいとしか言い様が無い。情報を漏らすことが許されぬ人でも、知る権利と人々の利益に結びつくのであれば、何もかも吐露して良いとする風潮は、国家的盗聴に関する事件を見れば、誰もが気付くものだろう。だが、その度に気になるのは、守秘義務を蔑ろにする態度に、正義が通用するのか、という点だ。正義を守る為に、義務を放棄する。今の時代なら、当然と受け取られかねない状況だが、正義とは何か、考えたことの無い人に、主張の資格は無い。ご都合主義が罷り通る時代に、正義を考えることの難しさは、かなりのものだろう。それに気付かぬからこそ、思いつきを並べることに終始し、前言を忘れ去ることに何の抵抗も覚えぬ。秘密を守ることだけでなく、それを保持することの重要性に、向かう目の少ないことに、別の危機感を覚えるのは、所詮少数派でしかない。

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12月6日(金)−小国

 大小関係で物事を理解しようとする、そんな傾向が強まっているのだろうか。力を持つかどうかで、国の大小を論じていても、気の持ち方を引き合いに出し、別の見方を取り入れる。国の面積も、人の数も、大小関係の例となるが、それで終わりとする訳ではない。経済の力が、最大要素となるからだろう。
 人の数だけなら、他を圧する力を持っていた国は、経済力が伴わなかった時代には、小国と見なされていた。大国の多くが停滞期に陥り、活動の場が小さな国へと移されると、そこでは数の論理が強まり、著しい成長がもたらされた。となれば、大国の仲間入りと来るのだろうが、現実はどうだろうか。気の持ちようと同様に、精神的な成熟が取沙汰されることが多くなり、周囲への悪影響も加わって、厳しい評価が継続する。この国も、嘗てそんな目に遭わされてきただけに、それが当然との見方が大勢を占めるが、成長の度合いは、更なる急激さを示し、勢いに任せた言動は、未成熟な人間のものと変わらぬ様を見せる。苦言がそのままに受け取られず、妬みに似た形で処理されると、勢いは増すばかりとなり、傍若無人と思える態度は、収まるどころか、更に強まる。経験によれば、成長に翳りがさせば、自然と勢いが緩むものだが、その最中には、意識に上ること無く、気持ちを改めたのは、ずっと後になってからとなる。同じ道を、あの国が歩むものかは、誰にも判らないことだが、成長が鈍化することだけは、明らかだろう。そろそろその兆しが見え始め、前例との類似に、焦りを覚える人々は、実は、それを察知されないように振る舞うことに躍起となる。前例より、酷い経過を辿るかも知れないとの懸念は、そんな所から生まれているようだ。礼を失した発言も、その現れの一つと見れば、罵り合いに加わらぬことも、一つの方法に思える。

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12月5日(木)−質保証

 人の能力を測る方法は、色々あると言われる。そろそろ、人生の節目とも言われる選抜の時期が近づき、渦中の若者たちは、選ばれる為に工夫を重ねている。ただ、方法が様々となれば、それぞれに違った対応や対策が必要となる。確かに、学力が秀でていれば、何の心配も無く、挑めば良いだけのことなのだろうが。
 多様性に注目が集まったとき、選び方を変える方に皆が動いたが、そんなことを考えもしなかった時代には、幅の広い枠をはめることで、広がりを保証していたのではないか。それが二段階の選抜が導入されることで、徐々に絞り込むこととなり、狭い範囲に封じ込めることになった。妥当な選び方、と評価される反面、画一的とも思える集団を迎えると、同じ所に留まろうとする心理が強く働き、導入以前のような成長が、期待できない状況が生まれた。教え育む立場からすれば、成長が見込める環境が、好ましいものと映った筈だが、選抜された人々が、変化を求めぬ心を持つようになると、環境整備だけでは不十分との思いが募ったようだ。始めは、そのことに気付かず、戸惑いが広がるばかりで、奇抜な教育手法に手を染めることもあったが、その後の展開は、選抜手法の多様化へと結びついた。振り返れば判るように、その効果は大きくなく、手間ばかりを増やすことで、組織全体が疲弊しただけだった。それでも、懲りない人々は、更なる展開を目論み、新たな手法の導入に奔走する。多様化が、選抜段階で保証されると信じるのは、それぞれの勝手なのだろうが、それにしても、入った後の展開に目を向けないのは、いかがなものか。質の保証は、様々な場面で取沙汰されるが、人間に関しては、余り触れられていない。測る方法が様々であるだけに、ある人間の質を保証するなどとは、何様のつもり、と批判されるからかも知れない。しかし、社会は明らかに、それを求めており、応える責任はあるのではないか。

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12月4日(水)−空白

 適材適所、人材活用の手法の一つだが、必要な部署は幾らでもあるのに、肝心の人材は、と悩むことが多いのではないか。この頃の若い者は、との苦言は、いつの時代も聞こえてきたものだが、最近の状況は、かなり深刻とされる。批判の目を向けられた若者が、そのまま齢を重ね、組織内の地位も上がるからだ。
 人材活用の考え方からすれば、無能な人間を活用する手立ては見つからない。本来は、能力不足と見なされた人間には、更なる訓練を施し、新たな能力を身につけさせるのが、筋と思われるが、現状は、訓練をする立場の人間が、見当たらないのが最大の問題となる。組織として成立しているのだから、そんな筈はないとの反論もあろうが、器はそのままでも、中身が腐り始めていると見れば、少しは状況がつかめるのではないか。若者に批判の目を向け、努力を強いた上で、向上を促すのは、古今東西に関わらず、人材育成の手段として実行されてきた。その肝心な手立てが、失われ始めているとしたら、社会を支えることさえ難しくなるかも知れない。そんな状況に、危機感を抱くどころか、圧迫は好ましくないとばかり、褒めて育てるなどと戯言を繰り返した人々は、現状を直視することさえない。社会へ飛び立つ準備さえ整っていない人間が、次々に押し出された結果、今のような状況に陥ったとしても、その責任は、社会全体が負うしかないだろう。だが、一度歪んで曲がってしまったものは、元の形には戻りそうにもない。空白の時代とか、不作の年代とか、そんな言葉で片付けることで、次に来る世代に期待を込め、根本からの訓練を再開するしかないのではないか。彼らが育てば、上に居る役立たずを追い落とし、再生が成るのかも知れない。今、足らないと思われる部分に対し、どれ程の力を入れさせるか、徐々に回復の兆しが見え始めたからこそ、更なる注力が必要となるだろう。

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12月3日(火)−沈黙

 真意が伝わっていない。そんな言葉を言い訳がましく繰り返す人々は、新しい道具を手に入れた時に、どんなことを思ったのだろう。自分の言葉をそのまま伝えられることに、喜びを覚えていたのではないだろうか。ある人は、つい先日までのそんな考えを、悔やむ気持ちで思い返しているのかも知れない。
 口にした言葉を、纏める形で文字にされたり、映像を編集されることで、自らの発言を違う形で伝えられる。発言者から見れば、そのままに伝えてくれれば、思いが正確に伝わる筈が、切り刻まれ、順序を変えられたことで、全く異なる意味となってしまう。そんな迷惑を口にすることで、間違いを訂正することなく、自らの立場を守ろうとする。そんな言動に、批判の矢は放たれ続け、最終的には、謝罪、釈明に落ち着く。あの立場の人々の、毎度お馴染みの失言に、世間は呆れるだけだった。そこに、新しい発表の場が設けられ、各自の肉声が、文字の形でそのままに伝えられる。となれば、 曲解されることもなく、誤解されることもなくなって、自らの考えを正確に伝えることができる。そんな歓迎の声が、一時は高まっていたものの、最近は、どうも様子が違っているようだ。会話での失言は、深く考えずに出るものだが、文字にするのであれば、推敲を繰り返すこともでき、間違いは無くなる、との考えは、度重なる失言を見れば、思い込みに過ぎなかったとなる。会話調の書き込みでの失言は、相変わらずであるのに対し、ブログと呼ばれるネット上の発言の場では、そんなことは起きる筈がない、との期待は、裏切られたようだ。こうなると、何が真意か、を考え直した方が良いのでは、と思う。誤解を産む発言は、どんな形でも起こるもので、発言の機会を得れば、失言の危険を伴うことに、気付くべきだろう。唯一の回避法は、黙して語らず、しかない。

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12月2日(月)−疑惑

 ブラックという言葉を、屡々見かけるようになった。以前から負の印象を伴う表現として、株の暴落日を指し示す為に曜日に付けて使われていたが、同じように曜日に付ける形で、売り出し日を示す。悪い印象ではなく、正の収益を表す黒字からの転換なのだそうだ。同じ表現が正反対に使われると戸惑うが、それが目的かも。
 ただやはり、最近の傾向としてのブラックは、負の印象を持つ。企業に付けられることが、最も目立つ用法だが、ブラックな、という、外来語を自在に転用するのが特徴の言語特有の、誤用とも思える表現でも使われている。企業の法令遵守に関する相談を専門とする新規企業の社長の話では、法令違反には至らぬものの、構成員にとって負担となるような要因を持つ、といった意味らしい。話を聞いても、実際の所、何処に線が引かれるのかは判らず、そう呼ばれた組織に属する人間にとっては、対応に苦慮することとなる。確かに、様々な問題を抱えた組織もあり、警戒を必要とする場合も多いが、もしそうならば、法令に触れる場合が表面化し、処罰を下されることに至る。ところが、謂れ無き疑い、とでも呼んだら良いのか、根も葉もない噂ばかりが膨らみ、一部の人間による情報操作が、思わぬ拡大を呼ぶことで、誤解だけが広がる場合も多い。一見、将来への不安を抱く人間たちが、それを打ち消す為に苦しんでいる、とでも映るようだが、その実、愉快犯とも思える、悪質な行為が噴出しており、被害者は、不安を抱える人ではなく、彼らが目指すべき組織に属する人々となる。あらぬ疑いは、原因が見えないだけに、払拭することが難しく、根本解決は困難となる。更に、一度標的とされると、次々と噂の種が蒔かれ、芽を出すこととなる。終わりの見えぬ戦いは、愉快犯が飽きるまで続く訳だから、堪ったものではない。

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