パンチの独り言

(2013年12月9日〜12月15日)
(無思慮、確実、応分、軽減、望み、実現、冬から春)



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12月15日(日)−冬から春

 日が短くなる。季節の移り変わりの一つの現れだが、ある日突然そのことに気付くと、暗い時間の過ごし方を考える。残業で、夏場でも暗くなってからしか、家路につかぬ人たちにとっては、季節の変わり目と言っても、日の長さを意識することなどないだろう。だが、不況の中、そんな空気も無くなっていた。
 働くことの喜び、などと表現するのは、どうかとも思うけれど、働けなくなって、初めて気付くものだろうか。様々な事情から、職を失い、苦しい生活を強いられた人も、少なくない。だから、どうということも無いのだが、日の短さは、何処かに寂しさを感じさせる。たとえ、それ程酷い目に遭っていなくとも、寂寥感が広がる。寂しいからと言って、何が変わる訳でもないが、日の光が無くなると、何となくそんな気持ちになる。そこに、寒さが強まり、雪や氷を見るようになると、更に気持ちの落ち込みは、大きくなる。流石に、皆が心を病む訳ではないが、気が滅入って来るのだろう。毎年のこととは言え、こんな繰り返しに何とか耐えてきた。だが、不況との声は、その落ち込みに更なる追い討ちをかけ、厳しい状況に追い込む。長い冬を耐えたとしても、明るい春に、異変が起きる。明るさを取り戻したからと言って、気持ちが急に明るくなる訳でもない。何処かに、均衡のずれが生じ、心の不均衡を招くこともある。太陽の明るさが戻っても、他の明るさが戻ってこない時、そのずれは更に大きくなる。そんなことが長く続いたけれども、今や、徐々に回復しているように見える。今度こそ、長い冬の後の、明るい春はやって来るのだろうか。

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12月14日(土)−実現

 希望を叶える。人間の成長に繋がる、意欲の現れの一つ、と見る人が多いのは事実だが、あれもこれもと望む人が増えた時、そこに歪みが生まれるのではないか。手に入れることが、自分の成長に結びついたとしても、それが周囲への悪影響を招く時、どんな意味が出て来るのか。無意味を通り越すのだろうか。
 豊かな時代には、様々な望みを持つことが、当たり前となっている。日々の生活に追われ、やっと生き延びた時代には、将来への期待を持つことはできても、そこに具体的な夢や望みを掲げることはできなかった。それが当然と受け入れた人々にとって、期待を膨らませ続け、生活の向上を目指した時代には、徐々に夢が叶うことを見ることができた。いつの間にか、叶わぬ希望は無い、との見方が広がり、それを当然と受け取る人々が、町に溢れ始めていた。希望が叶わぬ時代から、それが可能となった時代へと、移り変わるに連れて、世代の断絶は大きく広がり、夢や希望を持つことが、生きる条件のように見る雰囲気は、人によっては、重くのしかかる空気を作り出した。その一方で、欲望を満たす為に、手段を選ばぬ人が増え、それを手伝う人々が出て来るに従い、欲望の膨張は、急速になっている。その中には、過剰な欲望に見えるものもあり、夢や希望を持つことを推奨した手前、今更否定することが難しい、と思うこともあるようだ。だが、物事の良し悪しは、常にあるものであるだけに、こんなことを放置する社会は、ろくでもない方に向かうことになるでは、と思う。人それぞれの自由が、他人の不満を招いたり、直接的な影響が見えなくても、徐々にそれが深まる可能性もある。そんな議論を省いて、夢ばかりを追わせ続けた結果が、どうなるのか。自分が生きている間には、見えてこないからと言って、知らぬふりで済ませていいのだろうか。

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12月13日(金)−望み

 医療技術の進歩は、様々な形で日常生活にも影響を与える。多くは恩恵となり、酷い後遺症から解放されたり、失いかけた命を取り戻すこととなる。だが、臓器移植のように、他人の命との関わりが必須となるものもあり、倫理との繋がりから複雑な問題が生まれる。望みが叶うという点ばかりが強調されているが。
 望みという点から、もう一つの問題が様々に取り上げられる。生殖医療は、子供を欲しいと思う夫婦にとって、最後の望みとなる点から、希望を捨てないといった観点で扱われることが多い。確かに、血の繋がった親子関係は、家族を形成する上で、重要な要素となるけれど、昔から盛んに行われてきた、養子縁組の制度は、血より家を保つ為のものである。技術が伴わなかったから、との解釈を施す人がいるが、血縁に拘るが為に、失うものもあることを、生物学の立場から論じることが、忘れられているような状況が起きているのは何故だろう。希望を捨てなければ、望みは叶う、との言葉を、重く受け止める時代には、実は、長い期間を意識することが減り、刹那的な考えが溢れているのではないか。一時の望みが、永遠に続くとは、誰も思わないだろうが、こと、血縁に関しては、そんな思いがあるように感じられる。様々な方法が編み出され、望みを叶えることが、医学の使命のように受け取られてきたが、人間も生き物であり、節理を破ることはできない。生殖も一つの能力と見なせば、それを失うことは何に結びつくか、ある程度は想像がつきそうだ。にも拘わらず、技術の発展は、不可能を可能にし、何でも手に入る状況を作る。望みが叶う、ということだけに目を向け、それが招くだろう負の面に、蓋を被せ続けることは、必ずしも正しいとは思えない。性の不一致の問題も、そんな面の一つだが、それとこれが重なることは、一人の望みを叶えることで、多数の不幸を招くことにもなりかねない。欲望が尽きることの無いのは、当然のことだけに、応えることの意味を考える必要があるのではないか。

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12月12日(木)−軽減

 生活が苦しい、という声が大きくなっている。弱者救済の見方からすれば、捨て置けない状況に思えるが、現状は少し違っているように見える。どん底では、質を論じる状況に無い、としてしまうと、何とも冷たい態度に思われるが、ささやかとは言い難い贅沢ぶりに、文句の一つでも言いたくなるのでは。
 苦しいのは、庶民の台所事情だけでなく、国の事情も同じだろう。個人なら許されぬ借金を続け、膨らみ続ける額に、将来への不安も拡大するばかりだ。その中で、少しでも実入りを増やす為に、税率を上げることが決められた。当然の成り行きとの見方もあるが、普段の生活にかかる税への措置だけに、苦しい家計が更に厳しい状況に追い込まれる、との見方もある。どちらも妥当な見解であり、その中でより良い答えを導く為に、様々な提案が入り乱れている。その中で、一律の課税を見直し、日々の暮らしに必要な物品を、低い税率の対象とする案が、毎度お馴染みの形で顔を出している。苦しい生活との見方からすれば、当然の措置であり、他の国でも実施されていることから、導入は容易だとの意見がある一方、手続きや区分に問題があり、難しいとの意見が強まっている。いつもながらの迷走ぶりに、呆れる人が居るけれど、逆に、問題を過大に評価することで、反対とする人が居る。誰かの利益は他の不利益、という状態は、当たり前のことであり、その大きさの比較により、解決を図るのが当然の道筋だが、ここでも、誰を弱者、あるいは、被害者と見るかが、決め手となっているように感じられる。多数の庶民を犠牲にして、少数の事業主に有利になるように、という考えが、何故、こうも簡単に受け入れられるのか、不思議でならないのだが、世の情勢はそうでもないらしい。問題の本質に目を向けぬ人々には、自分の不利益のみが大事なのだろう。

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12月11日(水)−応分

 無理な背伸びを控える。そんなことを言い出すと、途端に厳しい声が返ってくる。成長を促す為には、前へ先へと向かわせることが必要で、縛り付けてはいけないとの考えは、巷に溢れているようで、その機会を与えることが重要とされる。だが、その多くは、届きそうにも無い目標へと向かわせているように見える。
 背伸びをして手が届けば、その位置まで這い上がることも、可能に思えてくる。多くの人が、目標を定め、それに向けて努力を重ねることは、何の手助けも無かった時代には、ごく当たり前に行われていた。この際、届きそうにも無い所ではなく、比較的手近な所に目標を定めるのが、妥当なものと思われていた。ところが、社会からの手助けが、様々な形で実施されるに従い、目標は徐々に遠離り始め、手の届かぬ所へ置かれるようになった。助けがあるからこそ、自力では届かぬ所にまで、という配慮からか、高い目標を設定させた上で、努力を促すものらしい。だが、助けがあったとしても、本人の力が備わらねば、結局は、努力は徒労へと変わり、無駄が増え、失望だけが広がる。背伸びの後の達成感が、成長へと繋がると言われる中で、この状況は、問題とされていないようだ。しかし、分相応や身の丈と評されるように、自分の力に合ったものが、適切であるとの考えもあり、日々の努力に、無理より、妥当を当てはめることが大切なのではないか。手助けも、機会を与えることばかりに力を入れ、相手に見合ったものを与えることは少ない。魅力的な企画は、その目標の高さが肝心と、次々と繰り出されるものが、全てそれを競う形となるのは、競争を基本とする仕組みの中では、仕方の無い所かも知れない。しかし、目標ばかりを重視し、達成度や到達度に目を向けないのは、無益なものを増やすだけだ。将来への備え、という考えも、実は無駄を増やしており、見直しの時期が来ている。分相応とは、能力に適うものということであり、それは成長過程にも適用できる。将来ばかり見ずに、今を見つめることが、本当に大切なのではないだろうか。

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12月10日(火)−確実

 確率と確定、その区別を曖昧にする人は、今も昔も沢山居る。決定的な違いを見分けられず、混同する中で、心の混乱を来す。自ら招いた事態にも関わらず、その責任を他になすり付ける。こんな人を見かける度に、その身勝手さに呆れるが、解決法は無いだろう。自業自得と、見放すのが精々といった所なのだ。
 違いを見極める為に必要なことは、知識や思考力に違いないが、それ以前の問題として、混乱する人々が知るべきは、確定的な事象は、実は殆ど存在しない、ということだろう。どんな事象も、大小異なるとは言え、ある確率で起きる。それが大きければ、まるで確実なように映るのに対し、小さければ、殆ど起きないとなる。ここで、事象の衝撃の大きさは、確率にとっては何の意味も無く、所謂期待値と呼ばれる数値に関係する。例えば、宝籤は、それぞれに当選確率をもつが、それに賞金額を乗じたものが、期待値となる。当たれば大きい賞金も、確率と組み合わすことで、期待は小さくなる訳だ。更に言えば、甚大な被害をもたらす天災も、その確率が僅少であることから、平生の備えとしては、小さなものと見なされる。同じ金銭に関わるものでも、正反対の影響から、全く違う反応を導く。そんな状況に、分かり易さを謳う情報提供は、断定的な表現を多用し、混乱を招かぬ配慮を施す。一見、理解を促すように見える脚色も、実は、確率を確定へと変換し、誤解を招く状態を産み出すことに、気付くべきではないか。確率をそのままに受け入れ、その事態が起きた瞬間から、確定となるとすれば、大した混乱も起きないが、始めから、一つの答えを求める人々には、そんな器用な振る舞いは、無理難題と映るだろう。こんな具合だからこそ、解決は困難、とするしかない。

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12月9日(月)−無思慮

 考えることの大切さは、今更言うまでもない。にも拘わらず、何度も取り上げるのは、何の考えも無しに、権利ばかりを主張する人が増えたからで、それが当然との振る舞いが、大手を振って歩いているからだ。デカルトやパスカルの言葉は、机上のものと化し、実社会では、そんな無駄を排し、手に入れる為の主張をする。
 線量測定の問題は、考えることをやめた人々と、それを良しとするマスコミの、現状を如実に表したものだろう。始めから口を酸っぱくして、距離や時間の問題を取り上げてきた人たちは、既に舞台を去り、考えるより、不安や心配を口にし、何かに取り憑かれたかのように振る舞う人々が、嘘や欺瞞に満ちた芝居を続けている。今回の報道も、劇的な見出しが躍り、それ見たことか、とでも言いたげな論調が並ぶ。冷静に分析すれば、それ程危険な状況を、そのままに経験することは、無謀としか思えず、どうやってと疑問を抱いた人もいるだろうが、伝える側には、その思考力は備わっていなかったらしい。ごく僅かな情報からすれば、離れたところで、更に測定器を棒の先につけ、測った結果から、最も高い部分の線量を推定した、とのことだ。推定や推測は、都合の良し悪しで扱いが変わり、この場合は、衝撃的な数値から、正しい推定との判断が下される。考える行為に、心理的要素は大いに入り込むが、要素が巨大な為に、考えることさえ止めてしまうとなるのはどうか、となる。そのくせ、原因の探求には熱心なようで、どこからそのような線源が現れたかにも、目が向けられたようだ。これら全てが誤りと言うつもりはないが、情報の取捨選択の機会を奪い、断定的な言い回しに終始する姿勢には、思慮の欠片も見えず、それを看過する人々にも、無考えな姿勢が見えるのではないか。

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