パンチの独り言

(2013年12月16日〜12月22日)
(やる気、一攫千金、地力、本物、囃し立てる、言説、共存)



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12月22日(日)−共存

 急に寒くなり、冷たい雨が降る。季節が移ることは、この国では当たり前のことだが、人は、それを楽しむ一方で、辛い思いについ文句を並べてしまう。望めば叶わぬことはない、と教えられた人程、こんな無理を思い浮かべ易いのかも知れない。だが、逆らえぬ自然に対して、何を望みたいのか、よく解らない。
 受け入れることは、如何にも消極的に思える話だが、それしか選択できない時に、逆らうことにどれだけの意味があるのか。受け入れるから負けだとする考え方も、どうかと思うことが多い。人間は、様々な工夫を思いつき、それを実現することにより、発展してきたとする考え方に、異論を唱えるつもりはないが、何でも思い通りになるとの傲慢な考えには、何故と思う。上を目指すことが、成長に繋がるとの考えに、皆が挙って賛同し、これまでの発展を支えてきたのは、事実に違いないが、自然に逆らう考えを持ち、自然を思い通りに操ることができると信じるのは、行き過ぎたものではないか。その考えを実現する為に、より深く自然を理解するという手順を追っているうちは、学ぶことが中心となるだけに、大した問題は起きない。だが、何かしらの提案を、自然を制御するものとして出した所から、話は大きく変わってくる。思い上がりと、時に表現される行動だが、当人たちは、そんなことは思う筈もない。様々な考えを織り込み、自分の思いを実現させようとする。この思いこそが、発展の原動力であるだけに、否定するだけでは、逆効果となるだろう。ただ、最近のように、共存が強調されるようになると、少し考え方に変化が起きたように思える。特に、この国では、自然の厳しさに逆らうより、それを少しでも和らげる方に、力を使ってきた。まだまだ、傲慢な考え方が主流だが、自分の体も含め、思い通りにならぬものと、どう折り合いをつけるか、考えることも大切と思う。

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12月21日(土)−言説

 主張しなさい、と言われ続けられる中で、成長してきた世代は、同時に、ゆとりと呼ばれる、新たな試みに曝され、十分な知識を身に付けていないばかりか、それに触れる術さえも知らぬ、と言われてきた。知る術もなく、知恵も知識も持たぬ人が、権利を主張する姿に、嫌悪感を露にする人々は多い。責任を果たせ、と。
 直接的な表現を嫌い、間接的で婉曲な表現で、互いを理解してきた人々にとって、察することは、当然身に付けておかねばならないものとされてきた。それが、他の国では通用しない現実に、使い分けができない人々は面食らい、郷に入れば郷に従えとばかり、主張や要求の為に、直接的な表現を使うようになる。その実情からだろうが、若い世代には、無駄な力を使わせまいと、主張の重要性を説いたのではないか。その浅慮に気付く人もなく、先祖代々続いてきた、大切な接し方を教えなかった結果、身勝手な考え方が、当然の権利として受け取られ、自由に対する誤解が加わり、要求を並べることが、当たり前との風潮が広がった。こう書くと、如何にも学校教育の責任のように思えるが、現実には、その前にある、家庭教育の歪みを修整する機会を失ったことに、最大の問題があるのではないか。世代間の断絶が、良く話題となるけれど、家族という単位での継承については、たとえそこに断絶があろうとも、親の言動に接しながら育った子供が、似てしまうのは当然ではないか。こんな中で、もっともっとと、要求が高まる世相は、誰も止めないままに、極まりつつある。何故、と思う人は、確かに居るには居るのだが、その声が、欲望を満たそうと躍起になる人々に、届く筈もない。いじめ社会では、誰も戒めないのが通例となり、言ったもの勝ちの状況が生まれる。更に、弱者に扮すれば、怖いものなどありはしない。

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12月20日(金)−囃し立てる

 やっと辞めてくれた、と思った人が多いのではないか。だが、その中に、何故辞めねばならないのか、知る人はどれ位居るのだろう。得体の知れぬ金を受け取ったから、という論理が大勢を占めるが、受け取った金を返したことで、何が変わるのかの説明はない。田舎芝居の如くの遣り取りも、核心を突くことはなかった。
 誠実さが見られない、との感想は、まさにあの遣り取りの限界を示しただろう。だからといって、そこに厳罰が持ち込まれれば、核心を暴くことができると信じる人が居たとしたら、その幼さに呆れるしかない。たとえ、三文芝居に過ぎずとも、そこに厳しい質問を持ち込むことは、物事をきちんと考える人であれば、それ程難しくはない。今回の応酬で、下らないとしか映らなかったのは、金銭の授受が、何を目的としたものか、また、借りただけなら、何を罪と問えるのか、そんな点に目を向けず、ただ、感情的な罵り合いを繰り返すだけの、どうにもならない無能ぶりを、互いに露呈しただけだったからだろう。何故、こんな状況が長く続いたか、答えは簡単に見つかるのではないか。口先だけの批判が許される時代の社会では、どんな地位であろうが、無能な人間が居座ることが可能で、その為に必要な芝居を続けることで、現状維持を狙うことが第一となる。平穏無事であれば、何も心配する必要はないが、そのまま何も起こらずに、との願いが届かぬ場合もある。そうなった時に、馬脚を現す人々が、続々と登場することに、呆れてはいけない。彼らを選んだ人間も、同じように劣悪なのであり、それを許す環境も、大きな問題を抱えたままだろう。核心や本質という言葉も、実は、余り聞かれなくなっているようだ。そんなものが重要とは思わず、表面の動きだけに左右される人々には、ただ騒ぐことだけが、意味のあることなのかも知れない。

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12月19日(木)−本物

 この国の食べ物が、世界に広がっている。手間ひまかけて作るけれど、地球の反対側のものとは、違った味わいとなる。また、味は濃いけれども優しい、との感想も、熱帯気候に住む人ならではで、香辛料による味付けは、刺激ばかりが強くなる。実は、この国の料理の特徴は出汁にあり、「うまみ」は第五の味と言われる。
 偽物が広がる中で、本家本元を主張する運動も、かなりの成果を上げているように見えるが、力を入れれば入れる程、当てはまらないものは増える。より良いものを求める動きも、盛んとなっているだけに、過剰な変形が、本筋に沿ったものか、あるいは、単なる亜流に過ぎないのか、区別は更に難しくなる。確かに、表面に違いを施すだけで、新たな動きというのは、どうかとも思えるし、所謂台無しにしてしまうような装飾では、元も子もなくなるだろう。本家が誇るものは、やはり出汁にある訳で、即席とかで粉末となったものに満足するのでは、本物の味も失われてしまう。家庭では、との声もあるが、昆布も鰹も煮干しも、昔は全ての家庭で使っていた。少しの手間でできることを、難しいとの理由で放棄しては、本物は継承できない。確かに、料理店の味は格別だが、家庭の味もこの国のものに違いない。それを維持することは、全員に課せられた役割ではないか。但し、面倒を理由に、簡単な方法を採るのは、どうかとも思う。出汁を取る代わりに、全てを食べようと、粉末にしたものを使うと、香りは似ても、味は違うものができる。魚介系と呼ばれるある食べ物で、煮干しの粉末をどっと入れるのを見た時、偽物の姿が過った。伝統の方法は、確かに古臭いのかも知れないが、それぞれに意味を持つ。前日から浸けておくことも、一煮立ちで止めることも、何故と問う前に、試してみるべきだろう。本物を知らずに、工夫を凝らすことは、間違いを増やすだけだろう。

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12月18日(水)−地力

 手に職、と言われたのは何時頃からか。何もできない人間が、職業に役立つ技術や知識を身につけるようになる、という意味だろうと思うが、できないとの断定に、異論は起きなかったのだろうか。職を明確にする為に、資格なるものが設けられた業種では、その取得に精を出す人々が、続々と登場してきた。
 確かに、資格は、ある能力を保証するものだろう。だが、それが職業上で役に立つかどうかは、やはり人によるのではないか。資格を取っても、多様な事例に臨まねばならない現場では、役に立たなかった、とか、皆が取った中では、自分の能力を誇示することには、結局ならなかった、とか、そんなことばかり起きると、手に職とは何なのか、との思いが募ってくる。できないとの弁に、反論が起きなかった中でも、その対象となった人々の殆どが、大卒という資格を持っていた訳で、資格が役立たずとの見方の典型として、もっと注目すべきだろう。その一方で、大学で学んだことが殆ど無い、という実情に対して、本来はもっと批判が向けられるべきではないか。少し我慢すれば、卒業に必要となる、単位と呼ばれる手札も、何とか手に入れられる。そうなれば、何を学んだかと問われることなく、資格が手に入る訳だ。そんなものが役に立つか、と問われて、真面目に答える人も居ないだろう。問題は、学ぶことの意味に有るのだが、資格を得た人間の多くは、教えてくれなかった、などとの詭弁を弄する。この暴言から見えてくるのは、彼らの姿勢の問題であり、それを放置してきた教育体制の問題だろう。そんな資質しか携えない人間が、現場に現れたとしたら、迷惑千万となるしかない。それがたとえ、資格なるものを身に付けていたとしても、役に立つ形にできないという意味では、結局人材とも人財ともなり得ないのではないか。何故機会が得られないか、を考える上で、本質とは何かに目が向かない人には、得られる時は永遠に来ないように思える。

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12月17日(火)−一攫千金

 黄色い看板の目立つ店がある。近郊の町から、車で押し寄せる人々は、師走の町に長蛇の列を作る。夢追い人たちは、何を思うのか、近くの銀行の窓口脇にある売り場には、人影もまばらで、あの店程の賑わいを見せない。確かに、大当たりの掲示からは、どちらが優位なのか、明らかに思えてくるのだろうが。
 それにしても、全体の確率は変わらない。にも拘らず、結果が異なってくるのは何故か。確率の見方からすれば、当然のことを実際には、違う形で解釈することが多い。何処で買おうとも、当たりの確率は同じなのだが、販売数の違いが、結果の違いとして現れる。当たり易いと言われた場所は、購入する人の数が増え、自ずと扱う枚数も増える。同じ確率でも、枚数という形になる為には、ある程度の数が必要となるだけに、結果が違ってくるように見える訳だ。特に、金額が増すに連れ、確率は下がってくる訳だから、それが枚数という形に達する為の最低販売数は、逆に増すことになる。となれば、小さな売り場は何年かに一度しか当たらぬのに、大きな所は毎年のように当たることになる。心理が強く働く事象では、この違いが更に強まる訳で、大きな所は更に大きく、小さな所は閑散とするしかない。これこそが確率の為せる技だが、それに気付かぬ人も居る。何処で購入しても同じ確率でも、そこに並べば当たると聞けば、そちらに行こうとする。件の店は、周辺の迷惑を減らす為に、駐車場を新設した。その資金は、実は売れ残ったものを買い取った中に、当たりが入っていたから、と聞くと、また、買いたくなるのだろうか。自分に回ってくるかどうかは、いつも同じ確率なんだろうが、並ぶ時には、違う気分になっているのかも知れない。

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12月16日(月)−やる気

 意欲の有る無しを問題とする見方がある。意欲が有りさえすれば、不可能なことは何も無い、という考えが明らかに誤りであることは、誰もが知る所だろうが、意欲が無い為に何もできない、という状態に陥り易いことも、周知のことだろう。有るだけでは駄目だが、無いのはどうにもならない、との見方が妥当か。
 積極性との表現も使われるが、意欲が強く見られたとしても、それが空回りするようでは、効果は得られない。熱心な取り組みも、成果が上がってこそ、意味が出てくる訳で、更に上を目指す意欲は、そんな段階を経ないと生まれてこない。この過程の難しさは、積極的な取り組みをしない限り、気付かぬものだが、消極的な取り組みでは、そんなことも起きない。やる気の無さ、などと表現される状況は、様々な姿を示すだけに、判断基準が有る訳でもない。例えば、他人と同じように、という意識は、平均化の時代には、ごく当たり前のものと見なされるが、意欲の点からは、余り強く感じられないものだろう。だが、皆がその状態に有るとなれば、致し方なしと見るしか無くなり、その状態を当然として、取り組むしかない。他がやるからやる、という方に向かえば、それでも問題ないのだろうが、それが逆に、他もやらないから、となると困りものとなる。最近特に気になるのは、後者なのだが、解決法は見つかりそうにもない。集団での処理を諦め、個別化を強めることで、打開を目指すしかないが、個人の能力を伸ばすことの難しさが、壁となってくる。意欲が鍵となるけれど、それが全てで無いだけに、問題は複雑なようだ。

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