斜に構えた、と思われるだろうが、世の中全体がある方に向かうのを、放っておけない気がする。皆で渡れば、と言われた頃から、たとえ間違っていても、全体がそうならば、それが正しいことになる、という意見が多くなった。大勢が重要であり、個の力は小さくなるばかり。だが、肝心の大勢は、どう決まるのか。
所詮、浅はかな考えに過ぎないのに、味方を得た途端に、重い意見に変わる。そんなことを何度も見ると、今の世は、何を頼りとして流れているのか、と思えてくるのだ。人を振り回すことに精を出す人々は、情報操作に躍起となり、手練手管を弄してくる。だが、中身が空っぽなのは、良く眺めるまでもなく、明らかなのだ。にも拘らず、あちらこちらへと走り回る人が出てくる。何処からこんなことが始まったのか、と思う人も多くはない。好きなことをやれば、とか、やりたいようにすれば、とか、そんな言葉を並べられて育った人たちにとって、実は拠り所となるものは少ない。自分の考えが尊重される度に、何が正しいのかという思いが過るが、好きにすれば、と言われれば、その場の欲望に走るのが常だろう。様々な制限の下で育った人々は、自らの選択を尊重することが、最大の喜びと思ったのだろうが、正しい選択も、誤った選択も、何も教わらないままに、放り出された人々は、戸惑うよりも、飛びつく行動を選ぶようになった。振り回される原因は、おそらくここにあるのだろうが、当人たちにはその意識はなさそうだ。道徳などと殊更に取り上げられるのも、そんな世相を映し出したものだろうが、何が足らないのか、判り切ったことのように思える。道徳や倫理は、人の道とも言われるが、何も教わらずに身に付くかは、難しそうに思える。社会全体に、好きにすれば、と言い始めてからは、そんな難しさに入り込んでしまったように見える。肝心なものを失ったままに。
友達が欲しい、という声が、色々な所から聞こえてくる。でも、その切実な声を出す人々に、友達とは、と問い返すと、戻ってくる答えは、どんなものか。例えば、気の置けない仲間とか、何でも相談できる相手とか、そんな答えが多いのではないか。そこで、もう一つの質問、「あなたが、その仲間や相手だとしたら?」
自分が欲しい対象に、自分がなったとしたら、という想定は、こんな声を出す人々には、ないらしい。答えが見えない相談を、持ちかけられたら、どんな気持ちになるのか。相談したいと思う人は、そんな相手の心情に、思いを馳せることなく、親身になってくれる相手が欲しいと願う。だが、自分がそんな立場になったら、本当に、親身を貫けるのか、自信はあるのだろうか。無い物ねだりでは、言い過ぎとなるものの、実感のないままに、夢ばかりを描くことには、少々厳しい言葉も必要ではないか。世の中全体に、叶えたい願いばかりに目が集まり、その大きさを競うかの如く、内容は極端になる。この国では、そんな願いは過ぎたものとされてきたが、ここでも、海の向こうからの影響が、強まっているようだ。願いを強く念じれば、必ず叶うという、成功物語が、映画にされたり、小説になる。誰もができるとの言葉は、国中に広がり、夢を描く活力の元となる。これも、一種の直接表現であり、こちらの間接的な否定ぶりとは、かなり違ったもののようだ。だが、参拝にまつわる話は、直接と間接の取り違えのようなものに思えた。それぞれの国が、それぞれに見解を表に出すことは、当然の成り行きだが、これまでと違う所が、敢えて言うなら、一つだけあったのではないか。そこでの伝言は、果たして、直接だったのか、それとも。
教えることは簡単だと思う人が居るようだ。それ程多くはないのだろうが、教え込むだけなら、苦も無いと答える。覚え方や理解の仕方についても、同じ線上にあり、技術的な面では、既に確立しているとされる。確かに、業界の活況が続くことから、成果についての信頼性は、高まっているには違いないのだろうが。
所謂ノウハウについて、本当に確立されたのであれば、何故、別の現場に導入されないのだろうか。産業として成立するものがある一方で、全ての子供たちが通う現場には、同じ形式が採用されていない。教える側に問題がある、との見方もあるだろうが、現場では覚えさせたり、理解させたりという技術だけではなく、別のことを伝える必要があるからではないか。教え育むとあるのに、ただ単に教えているだけでは、人間として身につけるべきことにまで、手が及ばないとの見方がある。塾や予備校が盛況で、それなりの成果が認められる反面、肝心の学校と呼ばれる場所では、当然のことが為されず、落ちこぼれやイジメに目が集まる。教えることも大切だが、育つ中で身に付けるべきことを、伝える必要があるとの意見も、目の前に山積する問題の中では、伝わることがないようだ。社会の中での人としての資質、と呼ばれるものも、具体的なものが見える訳ではなく、確実な方法もある筈もない。にも拘らず、その役を負わされた人々は、様々に工夫を凝らすが、思うようにはいかないらしい。ただ、人の道を教える為に、別の能力も必要かも知れない。昔の道徳の時間の話は、何度か取り上げたが、登場する人々は、人の道を知らせる役割を果たしていた。また、その時間を、と望む声があるようだが、何に光を当てるのか、はっきりしない。更に、気になることは、と言えば、現場に立つ人々の資質ではないか。果たして、子供たちに、人の道を説くだけの能力があるか、と。
子供に宿題をやらせようと、終わったらご褒美があると言い聞かせる。何処の家庭でもあった話だろうが、今はどうなのだろう。その場の興味に振り回され、一つ事に集中できない子供には、後の楽しみを先に教え、それを集中への助けにしようとする。だが、楽しみばかりが目に浮かび、結局、集中していなかったようだ。
誰しも、嫌なことをする時には、後の楽しみを思い浮かべ、その場を我慢しようとする。一種の交換条件なのだろうが、対等なものかははっきりしない。その事情は、子供の時の経験と同じで、後で考えれば、そんな条件を何故受け入れたのか、と思えるものばかりだろう。これは、大人になっても、事情は同じに思える。交換も、より良いものが手に入るのなら、喜ばしいものだろうが、そんな話はごく僅かだろう。精々、欲しいものが手に入るとか、一時の喜びなどに結びつくだけで、等価交換という形になるものは少ない。子供心には、お菓子が貰えるとか、玩具が手に入るとか、最近では、ゲームをする時間が増えるといったものまで、自分が魅力に感じるものであれば、何でも構わないのだろう。これが、大人になると、大きく変わるのだろうか。愚かな政治家の発言で振り回された基地の話も、やっと答えが見え始めてきたと言われるが、これも、何かしらの交換条件によるものかも知れない。あの地域に行ってみると、気がつくことが一つある。こちらでは一時勢いをなくしていた、土木工事が盛んに行われていることで、道路の整備は遥かに進んでいるように見える。一方で、産業振興は、思い通りには進まず、雇用環境は改善されていない。そんな中で、どんな条件が適切と見なせるのか。徐々に明らかになるに違いないのだろうが、いつもの如く、落胆の声が漏れてしまうのか。
こんなに寒い季節に咲く花は少ない。当然のことなのだろうが、花の園と思える施設は、どうか。特に大きな藤棚で有名で、その季節には、咲き具合に応じて入園料が変動するという、面白い仕組みで運営されている所は、この季節、更なる工夫を凝らしていると伝えられる。花の代わりに、LEDが活躍するのだそうだ。
何時始まったのか、様々な色の電球で、個人の庭が飾り付けられるのが、各地で見られるようになった。外から入ってきた習慣なのだろうが、宗教的な背景は脇に置かれ、ただのお祭り騒ぎとして、広がったようだ。一部の飾り付けは、年を追う毎に豪華なものとなり、電球の代金だけでなく、電気代もかなりのものとなっていた。そこに登場したのがLEDであり、単価が上がるけれど、電気代はかなり抑えられる、ということで、これもまた流行のように広がった。それが、各所の公園にも設置されることとなる一方、始めに取り上げた、花園にも導入されたということだろうか。だが、こちらは、誰かの誕生を祝う為のものではなく、単に、花のない季節に、その代わりとして、夜の園内を彩るもののようだ。それにしても、市販のものの色では満足せず、自分たちで、本来の花の色に近いものに塗り替えるという話には、驚かされる。確かに、本物が一番なのだろうが、色だけのことでは、どうだろうか。季節の変化に従い、業種によっては繁忙と閑散の繰り返しが起きるけれど、特に、自然を相手にするものであれば、仕方のないことだろう。農家の出稼ぎも、そんな背景から出たものであり、異業種の間で、互いに支え合うこともあった筈だ。いつの間にか、そういう仕組みも消え失せ、旬の食べ物も区別がつかないようになった。季節の変化を楽しむのは、その移り変わりを眺めることから始まる筈が、いつの間にか、人の欲望は、そんなことを許さぬようになったらしい。
ホームで電車を待っている時、近くに居た集団の中での会話が聞こえてきた。週末の午後に開催される、競馬の結果についての話のようだが、購入した馬券との照合だけではない。ラジオを聴く人と、携帯端末で確かめる人で、情報の時間差があることを話しているようだ。端末の人が、ラジオの人に、そっちが遅いと。
中継放送は、生で伝えられている、と聴く人や見る人は信じている。だが、実際にその通りなのかは、その場に居る人以外には、確かめる術がない。最近の例で言えば、携帯端末に映るテレビ放送の画像に、自分の姿を見ながら、手を振る人が居る。だが、誰かに電話をかけながら、手を振る人たちは、実際に、相手が見ている画像が、同じものかどうかを確かめることはできない。同時進行のように見えて、少しずれるのは、通信そのものにかかる時間だけでなく、それ以外の要素があることに、気付くべき時が来ているのだろうか。運動競技に関するものでも、最近は、時間の都合とか称しながら、編集を施したものが流れ、インターネットという情報源を持つ人々には、臨場感を失わせるようなものが多い。事実を伝えるという役割から、時間という要素が抜け落ちた時に、どれ程の魅力が失われるかは、人によるものだろうが、情報社会と呼ばれる時代には、現状を見直す必要があるのではないか。昔、海の向こうから来た映画の中で、私設の馬券売り場を運営し、競馬中継をラジオで流す場面で、実は、数分遅れで録音を流していた、というものがあった。結果を知っておいて、胴元が必ず儲かるように、という詐欺行為だったが、始めの話は、その意図はないにしろ、そんなことを思い起こさせた。どのみち、私設の賭博は禁止されているのだが。
医は仁術と言われ、技術に頼るのではなく、思いやりの心を示すものと言われたが、高給を得られる職として、注目されるのとは反対に、病院破綻の報道などから、経営の困難に目が集まった。医は算術とも言われたのは、そんな背景から来るのだろう。経済観念が、人としての考え方より優先される時代、だからか。
医術は、技術だけを誇るものではない、との考えが、普通に受け入れられた時代と異なり、技術ばかりに目が集まり、その対価が論じられる中では、仁徳が何かを問うことなど、無意味にさえ思える。経済は確かに肝心なのだろうが、金銭価値に置き換えることが、全てなのかと思う人も居るだろう。だが、病院が潰れるのを眺めると、ただ、人の為と称するだけでは、難しいことも多い。経営が第一と見なされるのも、そんな背景から来るものだろう。人の命を救う、医術と似た状況にあるものに、教育があるのではないか。教え諭すことから始まったものが、知識を授けるものへと変わり、知恵に結びつくことで、人を育てる結果が生まれた。そこに金銭の授受が絡む必要はなく、後進の育成との観点から、無償を当然とすることもある。だが、その一方で、産業と括られるものも増え続け、成果を評価することで、経営に繋げる仕組みもできている。形あるものと違い、人を育てることには、無形の成果が問われることが多い。その中で、経営が重視されることに、抵抗は依然として大きいが、経済という名の怪物は、無償の意義より、有償での成果を求める雰囲気を作る。義務教育制度が始まった頃から、国が育成に力を入れるのが当然とされたが、その中心となったのは、国が経営する組織だったのだろう。初等中等教育に携わる人材の育成の主体となったのは、師範学校であり、大学へと転換した時に、そこにあったのは「国立」という括りだった。何の因果か、法人化した組織に、経営が最重要の課題となったが、どうだろう。金銭ばかりに目が集まる中で、他の価値はどう評価されるのか。