パンチの独り言

(2013年12月30日〜2014年1月5日)
(残す、復活、質より、初、数値解析、伝統食、無駄?)



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1月5日(日)−無駄?

 何故、こんなに沢山の人が移動するのか、と思う。全ての新幹線が集まる、国内で一番大きな駅では、ある季節には、大きな荷物を抱えた人々で溢れかえる。日頃の移動とは違い、不慣れな場所では、乗り換え場所さえ見つからないこともある。そんな人が大部分な中では、息が詰まりそうになることも多い。
 始めの話に戻せば、何故、人が皆動くときに、自分も動こうとするのか。大きな疑問ではあるものの、答えは見つからない。自分も含め、この時期に、会うべき人に会い、挨拶を交わすことが必要だということだけは解る。だが、今でなければならないか、と問い返されると、答えは見つからない。互いに長い休みを取り、打ち合わせる必要がない、という点が一番大きなものだろう。だが、本当に会うことが必要ならば、都合を合わせれば、いつでもできることではないか。もう一つ、この時期の不思議は、全国で何十億通もの葉書が飛び交うことにある。便りが必要なときに、葉書や封書を利用するのは当然だが、年の初めの挨拶に、というのは、いつ始まったのだろう。郵便制度がこの国に興ったのは、百年以上前のことだが、始めは一部の人にしか利用できないものだったのだろう。それが、万人が使えるものとなり、更に、誰かが年始の挨拶に、と言い始めたのがきっかけだろうが、いつのことか、今調べる気は起きない。こんな習慣も含め、色々と変化するに従い、一時に比べれば、ずっと衰えてしまっている。いつかは消える運命にあるのか、誰も解らないことだろう。かなりの経費を使うという点では、移動の話と全く同じになる。こんなことも、経済への影響が大きいと見れば、消してはいけない、という声が、どこかから聞こえてきそうだ。

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1月4日(土)−伝統食

 毎日毎日、同じものばかりが並ぶ食卓、そんなことに文句を漏らした時代を知る人も、随分少なくなった。遠い昔になった訳でもなく、今も、百貨店や有名料理店が、豪華な食材を詰め込んだお重を売り出す。だが、それぞれの家の味が詰まったものが、豪華で美味なものに変わっても、人の興味は薄れるばかり、ただの一膳となる。
 この国の食を、世界に広めようとする動きがある一方、こんな具合に、家庭の味は失われつつある。お節料理は、外食が稀だった時代までは、何とか生き残ってきたものだが、正月早々から、あらゆる店が開く時代には、不要なものとなってしまった。お雑煮さえも、米離れの余波か、餅嫌いが増えてしまうと、姿を消しつつあると言わざるを得ない状況にある。これも、地域ごとの違いどころか、家庭による違いが強く現れ、家ごとの違いが現れていた。情報社会が確立され、見本を真似ることが、確実な道となってからは、独自の道は、危ないものとの受け取り方が、通例となってきた。面白いのは、平均とか、普通とかが、当たり前となりつつある中で、独自とか、独特が、重要と見る風潮が、意図的に作り出されていたことだろう。皆がやるからとか、皆がやらないとか、そんなことばかりに目が集まり、本当に大切なものは何か、を誰も気にしない。こんなことで良いのか、という声も押しつぶされ、結局、皆同じという状況が生まれた。同じものを食べるという意味で、伝統や習慣が保たれるのであれば、何も悪いことは無かったのだろうが、現状を見ると、全く違った方向に走ったようだ。正月は、それを強く感じられる時なのではないか。後戻りはできない、と。

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1月3日(金)−数値解析

 形にならないものの商売、数日前に取り上げたが、これが注目の的とされる。何だろうか、と思われるかも知れないが、所謂データと呼ばれるもののことだ。データの確かさは、その大きさによるとされ、如何に大きなものを集めるかが肝心、と言われる。大小ばかりに目が向かい、その質に議論が及ばぬことに首を傾げる。
 無作為に集めた数値、と呼ばれるものでも、その整理において、作為が入り込むのはやむを得ぬことだろう。だが、そこに目が向かうことなく、母数の大きさばかりを論じて、それが如何に重要なものかを論じる。こんなことが繰り返されながら、大きなものを競ったり、そこから見えてきたものを尊重するような風潮に、異論は余り出ていないように思える。例えば、購買傾向なるものについて、そんな分析を当てはめる動きは、最近急に思えるのだが、その行き着く先を論じる姿勢は微塵も見えない。何故、こんな状況が続くのか。想像するに、継続的な成長が途絶え、確実な未来が霧の中に見え隠れするようになってから、自分たちの経験に基づく運営に、翳りが見えてきた。それに対して、様々な提案が出されたものの、思いつきを並べるだけでは、経験より酷い結果しか招かなかった。そこに、経験を数値化する作業が登場し、それが、一人の人間には不可能な大きさとなったことで、新たな展開が広がり始めた。これが、ビッグデータと呼ばれるものの姿だが、現実には、形を成さず、ただの数字の羅列に過ぎぬことが多い。これが役に立つと言われるのは、その分析の結果であり、そこには、ある経験に基づく処理が行われる。此処で、おやと思う人がいるだろう。これでは、人の経験と、何の違いも無いではないか、と。その通りなのである。じゃあ、何故、こんな騒動になったのだろう。それは、形にならぬものを売る常道に、関係がありそうに思う。

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1月2日(木)−初

 年の初めをどことするか。初詣や初日の出は、まさに初めの日に当たるが、初夢や書き初めは、少し違うようだ。何でも初めてを好む国民性か、様々な形で「初」の字がつく行事があり、それぞれに祝いを兼ねた気持ちが込められる。節目節目を大切にする心に、良い機会が与えられ、素直にそれを表せるように。
 何も変わらない、いつもと同じ一日との声は、徐々に高まりつつある。伝統とか、文化とか、そんな言葉を加えることで、大切にさせようとする動きは、それ程の効果がないようだ。昔を忘れ、今を楽しめた時代には、過去に囚われること無く、前を向いて生きることが大切とされたが、突然、崖から突き落とされた時、見るべき方向を失った。過去も未来も見るべき価値を無くすと、結局、足元を見つめるしか無い。その日その日の大切さは、別の日と比べるまでもなく、全てが初めてなのだろうか。あの凋落が始まった頃から、特に、日々の暮らしに追われるようになると、過去を振り返ることも無くなり、未来に夢を見ることは無くなった。これを、将来への不安、と称する人々がいるが、渦中の人の多くは、その展望さえ無く、不安を抱くことも無い。確かに、社会全体としては、不安が鍵となるように見ているが、その声の主たちは、実は渦に巻き込まれている訳ではないようだ。他人の心配をすることが役のように、次々と並べられる不安の種を、さも大事のように紹介する。実際には、的外れな指摘と、その解決法が、出される訳だが、殆ど無駄な状態にある。毎日が、初めてのことであるのは、誰にとっても、同じ事に違いないのだが、それを「初」の字を冠することで、節目を祝うのは、本当は大切なことかも知れない。押し付けられては、興醒めなのだろうが。

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2014年1月1日(水)−質より

 夢を売る商売、とは、何をすることなのだろう。物々交換が、金銭的価値を定め、物を売り買いすることへと繋がる。最近の流行からすれば、一次産業から生まれた物品に、何らかの価値を加え、買い手の心を掴むとなる。そこに、人の手が入れば、物そのものではなく、付加価値を売り買いすることとなる。
 形にならないものを、取引することからすれば、夢を売るのもその一つだろう。だが、夢は人それぞれに違うだけでなく、形が無いだけに、掴めるとは限らない。気持ちの問題との関わりは、一見扱い易いように見えて、その実、正体が見えないものとの戦いとなる。特に、移り気な大衆を相手とするものは、その危うさに振り回される。加工が伴うとは言え、実体のある製品を流通させる二次産業は、景気の浮き沈みに左右されないと思われたが、その認識は、この十年程で大きく変わった。高性能で、高品質な製品は、必ず売れるという信念は、大きく崩れてしまい、姿を消した企業さえ出てきた。性能や品質が、魅力とはならず、何か別の要素が大きく取り上げられる。真の最新でなくとも、低価格であれば、人々が飛びつく時代となり、そこに新たな商売の種が芽生える。専門家は警鐘を鳴らすが、庶民にとっての魅力は、その場での欲望を満たせるものだろう。その為の流通に関わる業種は、新たな展開へと移り、それがまるで夢を追うように、見えてきた。だが、物を右から左へ動かすだけの役割は、何を売り買いしているのか。形にならないものに、人々は振り回される。流通という意味では、情報の流通に関わる業態も、何とも怪しげな雰囲気だ。出版、新聞、放送に関わることが、情報の流通への道だった筈が、いつの間にか、全く異なるメディアが登場し、状況は一変した。情報の質は上がるどころか、下がっているが、それとて、媒体にとって関係無しとの見方もある。だが、性能や品質より、価格が最優先と見たとしても、この状況はいかがなものか。

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2013年12月31日(火)−復活

 正直に言えば、予想外の結果となるだろうか。二度目の登板に、期待した人も居ただろうが、こちらは、また同じ事を起こすだろう、と考えていた。長年政権についていた組織は、それ程甘くはなかった、とでも総括しようか。間違いを繰り返さず、繰り返ささず、という考えは、今の所、うまく働いている。
 経済状況が何よりも優先される時代にあって、財布の紐をきつく縛るだけの政策は、奪い取られるという感覚を相手にするだけで、回復へと向かわせる力はなかった。冷静に考えれば判る、と言っても、未だに理解できない人が多い中で、高度成長期に味わった、天から褒美が降ってくる感覚は、消えていないと言うしかない。経済の基本理念として、利益を出す為の先行投資は、当然必要なものの一つと、扱われてきた。だが、一度甘いものを味わった人々に、それを手に入れる為の苦労は、無い方が良いものと映った。貰えるものは何でも貰うが、与えるものは何も無い。そんな考えの人間から、誰が何を手に入れられるのか。欲望は膨らむだけなのに、それを満たすものが見つからない。そんな時代なのだから、と言われても、昔は良かったと聞けば、ずるいとか、不公平とか、言い出す始末。こんな世の中に誰がした、と聞かれたら、ただ一言、「あんたたち」と返すのではないか。正確には、自分も含めるのだろうが、文句は誰かにぶつけたいもの、だから、こんな表現になる。自分にできることを頑張るという生き方も、こんな世相では、何か馬鹿げたものに見えかねない。だが、自分のことは自分で、という当たり前を貫いてこそ、他力本願の部分についても、何かしら力になるものが現れてくる。随分と上昇した経済指標も、宰相の力かどうか、見守る必要があろう。前回との違いは、取り巻きの態度にあるが、新たな展開には、見えない部分が多いだけに。

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12月30日(月)−残す

 このサイトがまだ賑やかだった頃、年末に十大ニュースの投票をしていたことがあった。今は、既に多くの人が去り、日々の訪問者は二桁に及ばない。それも管理者も含め、複数回訪問することを考えると、片手に満たない人しか、訪ねてこないのが現状だろう。そんな中で、何故更新を続けるのか、不思議に思われるかも。
 多くのホームページが、一時の活況を失い、訪問者が居なくなることで、閉鎖を余儀なくされてきた。開設の目的が何か、にもよることだろうが、たとえ、始まりが自分の記録の為としても、他人の目が集まることで、気持ちの変化が起きる。注目の場と紹介されたり、参考になると推薦されたりと、推してくれる人が居たからこそ、人の目も集まったのだろう。だが、熱し易く、冷め易い大衆は、何時の時代にも居るもので、持ち上げた人さえも去ることになると、閑散とした状況が続く。日記のようなものとの感覚から始めたものが、他人に覗かれるようになると、趣きが大きく変わり、内向きより外向きの言葉が並ぶようになる。これでは、聴かせる相手が必要となる。訪問者の激減は、その意味で強烈な打撃となる。移り気な大衆は、そんな中で、違う媒体へと移り続け、その度に、熱狂的な高まりを迎える。こんな様子を眺めていると、何を拠り所とするか、という考えと共に、何がしたいのか、と自分の欲求を、改めて見つめる時間が、必要になっているのでは、と思えてくる。他人との関わりが重要であることは確かで、それを頼りに、人々は何かを書き記していく。それが役に立つかどうかは、自分にとってのものであり、他人の為でもなんでもない。継続こそ、という声もあるけれど、何も目標が見えていなければ、続けることも難しい。他のサイトがどうあれ、此処は、単純に言いたいこと、書きたいことを残す場なのだと思う。

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