パンチの独り言

(2014年1月6日〜1月12日)
(賢愚、−−−−、不便、告知)



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1月12日(日)−告知

 警告を発するのが役割、と自負しているのか、と思えるように、紙面や画面に踊る、まるで脅しのような文句や画像に、人々は何を感じるのだろう。不安を口癖のように発する人は、また新たな材料が降ってきたと、歓迎にも似た感情を抱くのか。危険を未然に知らせてくれることに、有り難いという感情を。
 まさか、その声に応えているつもりではあるまいが、次々と繰り出される材料に、訝しむ向きも多いようだ。火の無い所に煙は、との話がある通り、全ての警告には、それなりの理由が添えてある。その多くは、昔現実に起きたことであり、起きてもいないことに比べれば、確かに、確率は高くなるだろう。更に、歴史は繰り返すとの話と結びつけ、その周期性を引き合いに出せば、現実味を持たせることができる。だが、それにしても、警告を出す目的は何か。それを知らせることで、人々はどんな準備を施せるのか、また、知らせた人は、どんな道を示そうとするのか。そんなことを考えながら、危険を紹介する内容を眺めると、その類いの中身は、殆ど含まれていないことが判る。大変だ、大変だとの連呼は、それ程意識せずとも、すぐに見つけられるが、どんな準備か、何をすべきか、といった話はどこにも無い。ついこの間の大震災で、その不備が度々指摘されたにも拘らず、相変わらずの論調に、この人々の浅慮が見える気がする。何故、あれほどの衝撃が、あっという間に忘れられるのか、と思う人は、実は、不安を口にすることは無い。それぞれに、自分なりの考えを持ち、判断を下すことを心がければ、得体の知れない不安を口にすることが、どれ程無意味なものかが判るからだろう。この感覚を、他人に教えることは簡単ではない。精々、手本を示すことで、考える機会を与えるぐらいのものだ。

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1月11日(土)−不便

 久しぶりというか、初めてだろうと思う。証券サイトが間借りしている、無料のサーバーが繋がらなくなり、5日間も反応がなかった。以前も書いたことだが、無料とはまさにただな訳で、管理に責任があるとは言えない。何人かが、いつも通りにツイッターに書き、何人かは、管理用サイトの掲示板に書き込んでいた。
 新年早々というのが理由でもあるまいが、いつもの対応に比べると、かなり遅れたものになっていた。ある意味、好意で開設されているものだけに、こちらも文句を並べる訳にも行かない。また、管理者はメールなどの手段での連絡を拒絶しており、管理用サイトの掲示板が唯一の連絡手段となるから、全体が不通となれば、場所を借りている側にできることは皆無である。そんなこんなで、一日が過ぎ、二日が過ぎ、という間に、管理者の反応が現れたものの、時間ができたらといった感じの返事では、期待は無理というもの。ということで、下の方を読んでもらえば判ることだが、独り言も、月曜日にアップして以来、土曜日となってしまった。今朝も、実は一時通じていたのだが、暫くするとまた不通となり、昼過ぎまで反応がなかった。便利とは、こういうものとの覚悟が無いと、やはりいけないのでは、と思うことが時々ある。便利になればなったで、色々と良いことがあるのだが、それが当たり前となってから、それを奪われてしまうと、以前より悪い状態に陥っているかのような感覚がある。ネットワーク上の話だけでなく、日々の生活において、同じような事例は数多あるだろう。危機管理などと言われる割に、そういうことに対する心構えが全くないことに、気付いておいて、諦めも含めた反応の準備をしておいた方が良いのかも知れない。

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1月6日(月)−賢愚

 警告を発するのが役目、と自任しているのだろう。権力を持つ組織や人々に対し、褒めることは無く、批判し続けていた。弱者は保護すべきと、批判は控え、褒めることを常としていた。そんなやり方が、どんな事態を招いたか、現状を眺めれば、少しは理解できそうだ。極端な手法は、結局、失敗に終わったということだろう。
 始めに書いた姿勢は、ある程度、立場を考えた所から生まれたものだろうが、その背景には、戦時に暴走を止められなかった、という反省もあったと言われる。しかし、警告や批判は、ある時点までは確かに続いていて、それを貫く人々の存在もあった。それが、何時どのように変化したかについては、確実な情報は無い。法律による規制が発端となった、とも言われるが、それ以前にも、様々な形での制限がかけられ、処罰の対象となった人も居た。にも拘らず、正論を吐き続ける人が居たのは何故か、答えを見つけるのは難しい。理由の一つは、今の人々の考え方にあるのではないか。多数決の精神が染み付いた中では、正しいか間違っているかの吟味より、どちらが多数の支援を受けられるか、という点が優先される。最近の議論の対象に関しても、それを考えに入れながら、批判や警告の中身を見直すと、別の思惑が見えてくるのではないか。一見、誤りを正すと思われ勝ちな批判も、その背景に、ある固定した思惑がある場合、全く違ったものと見なすことができる。始めに取り上げた人々も、正しい見方を紹介するという役目より、大衆をある方向に導こうとする意図を持つ。世論などと呼ばれるものも、その意味では、ある方向に導くことができ、それによって、行く末を決めることへと繋がる。これが、その昔の暴走へと結びついたのに、実際には、反省としながら、結局の所、同じ事を繰り返しているだけに見える。愚民が賢民に変わらないといけないのだろう。

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