どれだけのことを学んだか、を試すものが試験だろう。それを実力を試す為、と言い換える人が居ると、何かが違うと思えてくる。確かに、将来性を試す為のものも、そんな名前で呼ばれるが、実力も将来性も、こんなもので測れる筈は無い。培ってきたものを試し、その能力を見込んで、将来に期待するだけなのだ。
そんな指標に更なる期待を抱いたせいか、制度の変更を目論む人々がいる。美辞麗句を並べるのは構わないが、相変わらずの中身の無さに、驚かされることは多い。単なる真似事に、何を期待するのか、更に言えば、試験制度の変更とは名ばかりで、結局、運用側に強い圧力をかけるだけで、自らは、何の効果も産み出さない姿勢には、反吐が出ると言うしかない。どんな形にせよ、力を測ることに変わりがなく、それを経て選ばれた人々が、社会でどんな活躍をするかは、その後の展開によることで、活躍する、その段になってみなければ判らぬことだ。それをこんな形に変えてしまう人々に、信頼も何もある筈が無い。その一方で、最近望まれる人材が紹介される度に、何とも言えぬ違和感を覚える。世界で活躍する、などと評される度に、宣伝文句ばかりで、内容に迫らぬ論法に、信用を得ようとする姿勢が見えないし、実際に、何が鍵となるかについて、何の知識も持ち合わせていないことが判る。まるで、何かの製品を売り込む為の文句と同じように、良い所ばかりを並べているように見えて、それぞれが単なるハリボテに過ぎず、中身は空っぽだとしたら、そんなものを買った人は、損をするだけとなる。今の改革案も、そんな状態にあるとしか言えず、大きな変化は期待できない。ただ、どんな方法を用いたとしても、ある力を測り、将来性に期待することに変わりはない。そう思えば、今と何も変わらぬことに、「安心」する人もいるだろう。
気温が下がってくると、様々に支障が出る。最近話題になっているように、温度の変化に対して、体が反応すると、時に急激な変化が起き、気を失うことにもなる。変化の大きさだけ見れば、温度が上がる時と、下がる時とで、何も違わないように思えるが、体の反応には、全く違ったことが起きているからだ。
急変だけでなく、様々な支障がある時に、ウイルスに曝されると、体調を崩す感染症に罹る。時に、それがきっかけとなり、重症に陥ることもあるが、多くの場合は、持ち合わせた体力と、投薬などの治療によって、快復に至る。発熱によって通常の活動ができなくなったり、嘔吐下痢などによって苦しむ場合もあるが、余程酷い症状にならない限り、入院する必要は無い。毎年のように起こる病気に対して、警戒を怠ることは無いと思うが、目に見えない存在のウイルスが敵では、ちょっとした油断が、付け入る隙を与えることとなる。うがいや手洗いの励行も、防御策として推奨されるが、だからといって、何処でもできることではないから、完璧は難しい。体調を整えておけば、少々の変化に対しても、対応可能との考え方もあり、まずは体調管理というのも防御法の一つだろう。それにしても、集団での生活は、感染の機会を増やすこととなり、多数となれば管理も難しくなる。学校や施設での感染の広がりは、そんな事情もあってか、強い警戒心を持って取り上げられる。確かに、起こってはいけないことに違いないが、それを殊更に怖がらせることは、正常な生活を妨げることに繋がらないだろうか。嘔吐下痢の集団感染が話題となる中で、話を聞かれた関係者が、「怖い」と漏らしたのを伝えるのも、思惑に満ちたものと思えたが、死に至るものでもないと思っているこちらから見れば、一言加えた上で流すべきと思える。「何が怖いのか」との質問に、どんな返答があるのか、見てみたいと思うのは、余りに意地の悪い態度かも知れないけれど。
記憶なんて、いい加減なものと思う。事件が起きる度に、目撃者の話が伝えられるが、同じ場面を見ていても、全く違った印象を抱くことに、事実とは何か、という疑問が膨らむ。自らの記憶も含め、様々な要素のうち、ほんの一部だけが残り、事実の多くが消し飛んでしまうことに、驚かされることも多い。
経験と言っても、目撃そのものと文字や画像などを通した間接的なものには、大きな違いがある。どちらも全てが記憶されるのではなく、一部のみが印象づけられるのだが、前者が自ら漉しとったものであるのに対し、後者は誰かがその作業をしたものを、更に濾過した結果となる。時間が経つに連れ、更に忘れ去られるものが多くなるのは、逆に、強い印象を残すものに記憶の強化が施されるからだろう。忘れることが能力の一つに数えられることは、滅多に無いものの、こんな経過を眺めると、これもまた大切な力なのか、と思えてくる。四半世紀も昔の事件に、再び光が当てられるのは、裁判という過程である以上、当然のことなのだろう。しかし、多くの人々が、事件そのものを知らず、同じ年代の人々が起こしたものに対して、それぞれに興味を抱き、それを捉えて、感覚の違いに目を向ける人が居るが、実際には、当時も多くはそんな感覚だった訳で、時代の違いなど、当てはまる筈のないことだろう。一方で、重大な事件であったことは確かだとしても、そこから理解できる要素が余りにも少ないことには、注目が集まらないようだ。知識ばかりが増大する反面、人間としての知恵の無さが歪みを生じさせ、身勝手な解釈を集団で共有することとなった。狂気と片付ければ、まさにその通りだが、そこに「何故」を当てはめると、理解に苦しむこととなる。再び、そんな所へ光が集まるような気配もあるが、今更のように言ってしまえば、無駄の一言で済む。高学歴に注目する向きにも、そこに顕在化した精神の幼児性とそこから出てきた狂気に、目を向けさせればいいだけだろう。今もその不均衡はあるのだから。
人間の愚かさを語る話は幾らでもある。思い上がりと評される言動には、調子に乗って、過ぎたことをしでかしたことが含まれ、分相応を外した愚かしさが現れる。できもしないことを、さもできるように言い放つことも、その一つだろう。その一方で、できないことに気付き、反省することが、賢いと思うのも、愚かの現れかも。
不可能は無いと信じ、夢を実現することに、全力を尽くす人に、人々は賞賛の声を送る。だが、それが形となり、一つの夢が現実となった時に、そこから生まれる副産物が、悪夢を招くものとなると、賞賛は罵声へと変わる。発明は、思いがけぬきっかけから生まれることもあり、それを天賦の才によるものと見るか、単なる偶然と見るかは、場合によるだろう。ただ、それまでに無いものが、突然目に見える形になることで、人間は、新たな力を手に入れる。産業革命は、そんな流れの例の一つだが、手に入ったことの一方で、失われたものがあることも、今の時代から見返れば、判ってくる。比較的最近手に入った発電技術も、夢の実現と評される一方で、様々な事故をきっかけとして、負の部分に目が集まった。目に見えぬ実体に、恐れを抱く心理は、理解できないものではないが、次々と出現する、事実無根の曲解に基づく、被害妄想としか思えぬ論理には、賛否の問題どころか、欺瞞の罪を問うべきと思う。ここでも、何でも可能と見る愚かさの一方で、事実を理解せず、論理を放棄する愚かさが出てくる。様々な可能性を検討し、安全を保つ為の努力は、当然必要であり、そこでは愚かな慢心を戒めねばならない。それが果たされたとしても、今の時代の問題は、その他大勢の人々の、事実誤認に基づく、意味不明な主張にある。自然にはなく、人工的に作られたもの、と見なした途端に、新解釈を施すのも、判ったふりをする、愚かな人々の蛮行に過ぎない。群集心理は、確かに、そんなものに振り回されることだが、それを妨げるのも、人なのだ。
棚に上げる、という表現がある。何故、これ程に自分のことと他人のことを区別できるのか、と思える言動を繰り返す人がいるが、彼らの棚は種々雑多なゴミで溢れかえっているに違いない。年の功と言われていたものが、いつの間にか、老害と呼ばれるようになったのも、口うるさい先輩を排除したい一心だったのか。
尊敬の念など微塵もなく、年老いた人間の悪い点を並べ、盛んに攻撃を繰り返した張本人は、自ら下した決断の成り行きを見守ることなく、さっさとその座を退いたことから、潔いと評されていた。しかし、今の姿はどうだろうか。その地位にあった時には、歯牙にもかけなかった決断を、後任に押し付ける姿には、有害な老人としか思えないところがある。その時点で、誰もが気付くところと思っていたが、愚民政治を賞賛していた人々は、またぞろ、諸手を挙げて歓迎といった雰囲気さえ漂わせる。あの時も、政治が行うべき数々の課題を放り出し、一点集中の戦略を見事に貫いた人物は、再び、その勝利の方程式を繰り出そうとしている。群衆を扇動する術に長けた人物にとって、物事をじっくりと考え、答えを導く手立てを知らぬ人々は、いとも容易く操られ、誤った道へと踏み出す。これは、担ぎ出された人物にも当てはまることで、まんまと口車に乗せられたように見えるが、首都と雖も、地方自治体に過ぎぬ組織の首長に、何が必要なのか、忘れてしまったのではないか。何時梯子が外されるのか、楽しみに見守る人もいるだろうが、都会の愚かな人々に、判断を任せていて、本当に良いのだろうか。論理が通じない社会には、崩壊への道しかないと思えるが、公共の電波や紙面に登場する人物たちは、注目を浴びるという一時の快楽に興じているようだ。目の前の課題しか見えない人への批判も、しなければならないことだが、的外れな議論に勤しむ人は、批判する価値もないように思う。
学校に対する信頼は地に堕ちたと言われる。荒れた学校、騒がしい教室、そんな例が次々に紹介され、遠くの存在が身近なものとなるに連れ、教育の現場は、本来の役割を果たせていないと言われるようになった。誰もが不安を抱く中で、改革への手立てが様々に講じられたが、好転の兆しは一向に見られない。
混乱の中で、議論の行方は全く見えてこない。評論家の殆どは、好き勝手な意見を出すだけで、その影響や効果についての責任を負う気配もない。振り回されていると、被害妄想にも似た感情を抱く、現場の人々は、自分なりの答えを見つけようともせず、目の前の問題解決に走り回る。根本解決への道は、山積する課題に埋もれ、見出されるとは思えない。だが、立ちはだかる壁のような課題に対して、その解決が自分に課されたものか、と考える人は余り居ない。他人の責任にせよ、という意味ではなく、過度な期待を抱かれた挙げ句、それを実現できないからと、責任を負わされるという状況に、何故、異論を唱えないのか、と言いたいのだ。読み書き算盤と呼ばれた、寺子屋の役割を、かなりの部分で、現代の学校も継承している。そこに、今のように、様々な知識や知恵を教えることが加えられ、何もかも、学校に任せきりにする社会が出来上がった。ここには、現場で働く人も含め、教育に携わる人々の、自画自賛にも似た、過度な自己宣伝が強く影響し、まるで不可能はないかの如くの態度は、今や、自ら招いた苦境に、社会からの圧力に喘ぐ、弱者のものへと変貌している。本来、役割分担である筈もなく、家庭がそれらの殆どに責任を負うべきが、その役を奪おうとした無能な人々の暴挙の、責めに帰すべきだろうが、それにしても、何もかも放棄した家庭にも、大きな責任がある。判断力を身につけさせないままに、任せると言い放つ親には、家庭内だけでなく、社会への責任も果たしていない、と言わざるを得ない。
他人が何を考えているか、気になって仕方がないと言う人が居る。度が過ぎると病的となり、更に極まれば、危害を加えてしまったり、異常な言動を繰り返し、法的措置をとられる場合も出てくる。本当に病気かどうかは、専門家でも判断の難しい所だろうが、何でも信じる人と、疑う人の違いは何処から来るのだろう。
病気かどうかは別にして、疑うことの問題は、様々な形で現れる。鵜呑みにすることの問題は、事件がある度に取り上げられるが、疑う方は余り取り上げられない。最近の傾向では、直接的なものしか注目されず、背景にまで目を向ける人が少なくなっているから、こんな表現しかできないが、例えば、国の間の関係などには、この「疑い」が様々な形で影響を及ぼしていることが判るのではないか。相手の考えに想像を巡らし、明確に現れていることだけでなく、隠されていることに言及するばかりか、時に、あり得ないこと、起こりえないことにまで、話を広げる。疑いとは、信用できない関係に当てはまるもののように思う人も居るが、現実には、信じ切る態度にこそ問題があり、そこに疑いを挟む姿勢が重要なのではないか。疑いが、すぐに不信へと繋がる心理が、最近は当然のように扱われるが、この考え方には、大きな問題があるように思える。隣国との軋轢は、常に存在するものであり、それを認識した上で、関係を保ち続ける努力が必要となる。だが、今の状況はどうか。一方的な批判に曝され、取りつく島もなし、といった感のある関係に、改善の兆しは見えない。その中で、自らの行為を正当化する国の、周辺国への圧力には、あの被害に遭ったものとは思えぬ姿勢が窺われる。それを脅威と感じ、整備を進めようとする動きは、こちら側では正当なものと受け取られるが、あの戦いに対する拒否反応を示す人々は、警告を鳴らし続ける。国の間の関係も、所詮人の間のものだけに、人間関係における病的な挙動と似たものになってしまってはいけない。良好な関係が難しい中でも、線を越えないように気をつけねば。