パンチの独り言

(2014年1月20日〜1月26日)
(紋切り、未熟、倫理、下世話、二番、奉仕、不満)



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1月26日(日)−不満

 宿舎の話題は、一時期挙って取り上げられたが、今は、それらの熱意は冷め切ってしまったらしい。何故、との問いは、陳腐すぎるものだろう。敵を作り、戦いを想定することで、内部の争いを鎮める。昔から組織で使われてきた戦略は、人間を相手とする中で、今も十分通用するもので、効果の程は明白なのだ。
 だが、昔との違いは、固定した仮想敵より、次々と繰り出される、新種の敵の方が、好まれる所だろう。これは、刺激を常に求め、飽きっぽい人々を相手にすることと、イジメが忌み嫌われる時代に、標的を固定することが、敬遠されるからではないか。それにしても、一度でも敵対視されれば判るが、理不尽な攻撃に晒されると、大衆の貧しい心持ちが見えてくる。都心の豪華な宿舎が槍玉に挙がった頃、まるで希代の大罪人のような見方に、呆れた覚えがある。そこまで極端でなくとも、狭隘な宿舎が、人が住むべき広さに、変貌した当時、石を投げつける人が出たのも、非論理的な大衆の無謀さの現れと言えそうだ。たかが、公僕のくせに、と言われるのも、辛いものだろう。公衆に奉仕することを、こういう形で妨げることに、賤民は気づく筈も無い。極端な表現は、受け入れられないと思うが、黙らされていた人々が、発言権を得た時から、こんな歪みが強まり続けている。その中で、無駄金を省く為の宿舎廃止が提案され、強行された訳だ。一見、民衆にすり寄ったかのように見える政策には、結果を見なければ判らぬ部分が多い。この件も、帳簿上の操作のみに頼る、無能な公務員の決定が、唯一の答えのように扱われ、廃止後の整備に要する経費の計算は、別の帳簿に書き込まれそうだ。無駄が産み出す無駄について、見て見ぬ振りをするのは、当事者としてやむを得ないことかも知れないが、非難の声を上げてきた大衆は、敵をやっつけたことで、満足してはいけない。

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1月25日(土)−奉仕

 公僕とは、広く公衆に奉仕する者、とある。今の言葉で言えば、公務員となるが、奉仕という言葉の意味が、今一つ不明確になった時代には、同じ意味とは思われないかも知れない。窓口での傲慢な態度に、腹を立てた経験のある人も少なくないし、官僚に至っては、自分の利益しか考えない、とまで言われる始末だ。
 それでも、氷河期と呼ばれた就職戦線では、確実と安定という魅力に注目が集まり、第一の選択とする人が増えた。地元を出て、独立した生活を始めることが、夢の一つと呼ばれた時代には、地方の公務員には、人を引きつける魅力は無く、他に何もできないから、といった理由で地元に残る人の働き口としか見られなかった。華々しく活躍する企業人と違い、同じ事の繰り返しばかりの仕事には、何の魅力も感じられなかったようだが、経済成長の急激な変化から、企業の安定が失われ、不安が先立つ時代になると、変わらぬことへの安心が、魅力へと変化する。何とも不思議な変貌だが、当事者たちは、いたって真面目に自らの考えを主張する。実際には、考えと呼べる程のものではなく、巷の噂に振り回されているだけだが、生活がかかる人々には、最善の策に見えたのではないか。徐々に回復の兆しが見えるとは言え、一度失われた企業への信頼は、中々回復しない。依然として人気を誇る公務員に、時代の変遷が、違った役割をもたらしたかと言えば、そうでもないらしい。奉仕する役目は、一時期、こき使われると言い換えられる程、つまらぬ仕事となっていたが、変化を好まぬ傾向があったことも否めない。そんな中で、大震災後、一律に減給措置がとられた人々は、更なる国民からの圧力により、国有財産の処分へと標的を移した。悪者の首領のように扱われた宿舎問題も、帳簿上の処理により、各地で廃止が決まったらしい。無駄金を無くす為に、虎の子を叩くとは、何たることかと思うけれど、公僕たちには、そんな感覚は一切ないのだろう。

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1月24日(金)−二番

 資源問題は、様々な所へ影響を及ぼす。昔から何度も、枯渇の危機が伝えられた石油に関しては、いつの間にか別の油田が見つかり、忘れ去られることになった。だが、基本的には、経済の問題同様、限られた枠の中でのものであり、回避が永遠に続くのではないことは明らかで、代替の必要性も当然のものとなる。
 その変遷に従い、資源を使うものについても、様々な変化を遂げている。発電形式は、その最たるものだが、需要の高まりに従い、供給も拡大が必要となる中では、代替の考え方が通用し難い場合も多くなる。国策を優先すべきか、民意を尊重すべきか、などとの議論もあるけれど、その中身は希薄で、論点の整理さえできていない。資源の消費との見方からすれば、消費者にとって、次に来る身近な存在は、自動車だろう。こちらも、本来の燃料に対する危機感が、かなりの実感を持って出てくるようになると、代替への熱望は急激に高まった。電気への転換が、当初図られたものの、動作形式には大した問題が出なくとも、その動力源の供給に大きな課題があり、実現は難しいものとなった。そこに、混合方式とでも呼ぶべき仕組みが導入され、現時点では、単一方式より、そちらの優位が続いている。もう一つの燃料方式も、その効率や清浄さに期待があるものの、電気と同様に、供給への不安は拭えない。製造する側から見れば、こういった流れに、どう対応するかが、経営における重要課題となる。何処に力を入れ、何を優先させるか、といった問題は、実は、広告の戦略を見れば、かなり判ってくる。何を売り込もうとするかは、生産の重点化に繋がるので、経営方針を反映する訳だが、その観点からすると、先頭を走る企業は、流行を導く方針を見せるのに対し、二番手に甘んじ続ける企業は、方針転換や迷走を重ねる姿を晒している。所詮二番煎じだから、と言われることに対して、一貫性を失っては、嘗ての凋落と似てくるのもやむを得ないか。

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1月23日(木)−下世話

 知識人や文化人と呼ばれる人々が、批判を口にすることは珍しくないが、互いに向きの違う意見が出てくるのが常で、統一見解などはあり得ないものと思っていた。それが、あの事故直後の、狂気に似た廃止論では、挙って同じ線に並んでいた。その光景を、勇気ある発言と見られることにも、同じ喜びを覚えたようだ。
 依然として、論理もへったくれも無い、一貫した反対論には、感情以外のものが入り込む余地は無い。事が起きると、必ずと言っていい程に、極端な反応が出てくるのは、今に始まった現象ではないが、それにしても、科学も技術も、人の感情に勝てぬものかと、呆れるばかりとなる。確かに、盲信が招いた想定外もあったに違いないが、その是正を図るより、放棄するのが一番との考えには、責任感は微塵も無く、その部分は、前も後も変わらぬ一貫性が感じられる。結局、評論家としての態度が現れ、何が正しいかを判断するかのように見せて、その実、無責任な言葉を並べ、保身に走っているだけに見える。判らぬことに知らぬふりを続けていたものが、事故をきっかけに、社会への働きかけとして、大勢に与する姿勢を見せる。どちらにしても、理解から程遠い状態にあることは変わらず、敵か味方かの区別で、全てが判断される風潮に、乗っかっていると思い込んでいるようだ。その後の経過に関しても、工程表との比較など、既に忘れてしまったようで、日々の出来事に一喜一憂する。頭の悪い人には所詮無理、との批判も、自明の理に見えて、口にするのも恥ずかしくなる。無知と無恥が入り混じった状況に、今更、説明は無用となってしまう。だが、山積する問題は、誰かが片付けねばならず、その為には、理解と工夫が必要だ。取り上げられていないが、その歩みは衰えること無く、目的を持って進んでいるに違いない。今叫んでいる人々が、声が出せなくなる頃、やっと日の目を見るのだろうが。

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1月22日(水)−倫理

 外道とは、人の道から外れた人を呼ぶ言葉と思っていたが、辞書の始めの項には、仏教以外の教えを信じる者とある。そういえば、人の道と言っても、大多数の人を指すだけで、それが絶対に正しいものを指すかどうかは、定かではないようだ。ただ、人の道が注目されるのは、間違ったことが余りに多い為らしい。
 子供の頃を思い出すと、道徳の時間が組み込まれ、他の教科と同様に、そこで何かを学ばせていたようだ。だが、学ばされている当人たちは、何かを覚えようとするのでなく、ただ読み物を楽しんでいた。当時は、他の科目についても、覚えさせようとはせず、それぞれに触れさせることで、十分だった。時代は大きく変わり、小学校でさえ、様々なことを「覚える」のが重要となると、道徳も何かを「覚える」為のものとなるのかも知れない。身に付けることと覚えることには、大きな違いがあるように思うが、世の趨勢は、偏った知識を重視している。社会に属する限り、当然と思える感覚が、失われていると見られるのには、騙す側にも騙される側にも、外道の考え方があるからで、倫理観を取り戻す必要があるとの判断がある。だが、覚えることを優先する考え方では、別の歪んだ人格が形成されるのではないか。専門性に応じて、様々な倫理が存在するかの如く扱われる時代に、子供たちへの働きかけは、どんな形で進めるかは明らかではなく、おそらく、最も重要な点に目が向くことは無いだろう。人としていかがなものか、という表現が、度々聞かれる一方で、専門家としていかがか、と問うことに、違和感を覚えるのもその為だ。子供に教え込むのなら、人を対象とするしかないが、そうなるか。専門性が最も高いものの一つとして、研究現場の荒廃が話題とされているが、この話も、焦点がずれ、検証制度の確立に目が集まる。だが、真実を追い求めるより、小説を書くことの方が、遥かに簡単だとすれば、どんな検証も、見落としが起きる。当事者の倫理観が、何よりも重要なのは、その為なのだ。人として、という問い掛けは、常に必要となる。

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1月21日(火)−未熟

 騙されやすい人々が居る。ということは、必ず、騙す人が居るわけだ。犯罪に手を染める人々は、一攫千金を夢見る人から、次々に金を巻き上げる。家族を心配する人から、なけなしの貯金を引き出させる。そんな事件は毎日のように起きるが、金が絡まぬ話でも、騙し騙されは、枚挙に暇がないほど起きている。
 ある時代、嘘を吐くのが商売、とまで呼ばれた人々は、選ばれるまでの約束を反故にし、任期の間、好き勝手に振る舞っていたが、最近は、少し大人しくなったと言われる。ただ、これも単に静かになっただけで、約束を果たすわけでもなく、時に、居眠りまでしている。そんな中で、発言の機会を捉え、様々に持論を展開する人には、自ずと注目が集まる。煽動者的な役割を課せられていたものが、時代の趨勢とでもいうものに乗り、頂点を極めたのは、異常としか思えぬものだったが、それに端を発した動きは、未だに迷走を続けている。確かに、当時の凋落ぶりからすれば、経済も明るい兆しを見せているが、脆弱な状況は依然として続き、小さなきっかけで転覆する危険性は高い。その最中、件の人は、老いさらばえた姿をさらすならまだしも、意気軒昂な様子が伝わり、舌鋒は衰えることがない。ただ、その中身はと言えば、当時と同じく、薄っぺらなものに過ぎず、責任も感じさせない姿勢では、戯言にしか聞こえない。だが、これもまた、当時同様、狂信的な支持者は後を絶たず、まんまと騙されようとしている。元々、論理の欠片も感じさせない、話の中身に、何故引き込まれるのか、知る術も持たないが、害悪は、まるで環境汚染の如く、目に見えない形で広がりつつある。事後処理が不完全だということに、初めて気がついたような話を、鵜呑みにする、無垢な人々には、判断力は塵ほどもなく、暴言を含蓄あるが如くに受け取るのでは、またぞろ、混乱を来すのみだろう。理解できぬ人に、説明はしようもないことだが、せめて、誰が選ばれるかぐらい、きちんとして欲しい。

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1月20日(月)−紋切り

 文章を書く時に、特に気を配るべきこととして、紋切り型を避けるように、と注意を促す声がある。母語と外国語の間で、揺らぎ動いた経験を持つ著者は、この言葉をどんな意味で使ったのか、辞書によれば、型にはまったとか、決まり切ったという意味が並ぶが、それだけでは、何がいけないのか判らない。
 こちらの意味だけでは何かが足りないと思い、あちらの意味を調べると、conventionalという言葉と共に、stereotypedが並んでいた。ここから、皆が使うという意味と共に、固定観念的なものといった否定的な表現や陳腐ななどというものが引き出される。成る程、こちらの意味からすれば、否定的な意見も頷ける。ただ、皆が使っているだけに、迂闊に使ってしまうことが多く、避けるのは、かなり難しい気がする。その戒めと共に並んでいたのは、不明確な表現を避ける、という指摘だった。こちらは、ある言葉にある意味を持たせ、それが読む側にも、当然伝わる筈という思い込みを戒めるもので、様々な意味を持つべき言葉に、特定の意味を持たせるのは、書き手として避けるべき、ということのようだ。これは、ここでも何度か取り上げた話で、了解事項といった呼び名を使った。仲間内で通じる言葉を多用し、仲間意識を強調することで、理解を得ようとする文章には、実際には、希薄な内容や重大な誤りが散見され、価値の低いものが多い。若い世代に目立つ傾向と思われ勝ちだが、最近は、全ての世代に通用するものらしく、有識者と呼ばれる人々にも、そんな劣悪な文章を、恥も外聞も無く披露する人が多い。この悪影響は深刻に思え、何かしらの手立てを講じる必要がありそうだ。始めに取り上げたものも、その思いを込めたものなのだが、それがかなり昔に書かれたという点に、問題の深刻さが見える。当時から、一部には知られた問題が、更に深刻化していることになるのだから。

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