パンチの独り言

(2014年1月27日〜2月2日)
(競争社会、無形価値、個と社会、成功術、企み、軟弱、崇拝)



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2月2日(日)−崇拝

 アイドルという言葉から、人が思い浮かべるのは、人気者という意味だろう。その繋がりから、尊敬される人物という意味にもなるそうだが、遠い昔に開いていたシケ単とか出る単とか呼ばれた、英単語本では、偶像という意味が第一に来ていたように思う。崇拝の対象が、憧れから人気へと繋がったということだろう。
 偶像は、宗教では重視される存在だが、信仰を持たない人でも、憧れを抱くから、そんな存在が必要になるのだろう。一流選手は、運動の世界での尊敬の対象となり、囲碁や将棋の頂点に立つ人々も、極めたという意味で、当てはまることになる。その一方で、画面を賑わす、若者たちのアイドルは、どうにも薄っぺらい存在であり、出ては消える儚い人々だろう。情報媒体に携わる人々は、この辺りの事情をどう見ているのか、その扱いから判る部分がある。長い期間追い続け、その人となりも十分に理解した上で、凄さや素晴らしさを紹介する場合には、余り感じられないことだが、毎度のこととて、一日前までは知られていなかった人間が、一夜にして有名になると、異様なまでの興奮と、崇拝にも似た過剰な評価の対象となる。多くは、付け焼き刃的な情報収集による、誤解や曲解によるもので、冷静な目で見れば、馬鹿げた行状にしかならない。だが、興奮は大衆へと伝播し、ここでも、若者のアイドルと見紛うばかりの、特別扱いが続けられる。最も偉大な科学賞を授与された、一企業人は、その会見に作業着姿で現れ、驚きと戸惑いの入り混じった表情が、双方に広がっていたのが、印象に残るが、直後の扱いは、まさに異常を極めた感があった。平凡な人が、一夜にして天才に、というのは、まさに、宗教での神が降りてきた、と表現されるものと似ていないか。だが、本人にとっては、何も変わらぬ日常だった筈で、こんなことに巻き込まれるのは、迷惑でさえある。そんな形で、偶像化する手法は、相変わらず続いていて、また、その生け贄が祭壇に飾られつつあるのでは。

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2月1日(土)−軟弱

 公共放送の長に就任した人の発言が、槍玉に挙がっている。これこそが報道に携わる人々の見識の現れ、と見る向きもあろうが、単なる吊るし上げにしか見えない。言葉尻を捉え、それを殊更に強調した上で、失言と決めつける。いつもながらの手法で、芸の無さが目立つが、批判の基本を熟知するとの誤解ではないか。
 こんな態度は、好き勝手な振る舞いで、自画自賛を続ける業界の、傲慢さの現れに違いないが、その中で、中立性を保ち、良識を堅持しようとする、と言われた公共放送も、人気取りなど、最近は、質の低下が顕著のようだ。お堅い番組、と呼ばれたものは、見向きもされないと、次々に姿を消し、他局で流れるものと、何処が違うのかと思えるような、俗なものばかりが並ぶのでは、テレビを消そうという運動が、勢いを得そうな気配だ。堅さの現れとして、皆が認める番組は、ニュースだったのだが、それも、民放の庶民化の勢いに押され、まるで演芸場からの中継のような、失笑を買いそうなものになっている。それでも、という思いを抱いていた人が、やはり、と認識を新たにしたのは、あるサッカー選手の移籍報道だろう。朝のニュースは、その日を始める上で、新聞と共に、重要な情報源だが、その日の番組は、この話から始まったのだ。騒ぐことが好きな人々への、奉仕という気があったとは思わないが、それが10分を超える長さになると、唖然とするしか無かった。こんな編成に、良識や見識はある筈も無く、お笑い番組と変わらぬものとなる。これは、新聞のトップ記事で触れたものと、何ら変わらぬ、能の無さだろう。視聴者や購読者の減少に、頭を痛める話が聞こえてくるが、白痴を通り越して、誰を相手としたいのか。

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1月31日(金)−企み

 何故、この人はこんなに穿った見方をしているのか、と思わずにはいられないのかも知れない。性格が歪んでいるとか、素直でないとか、そんな指摘も聞こえてきそうだが、至って素直に、真っ直ぐな受け取り方を紹介するだけだ。それより、誰かが声を上げた途端に、諸手を挙げて大賛成の如く振る舞う人が、変ではないか。
 報道する人々のことを、毎回のように扱き下ろし、その見識の無さを強調してきたが、今回も、まさにそんな感のある事件ではないか。基礎研究の情報は、研究に携わる人々にとっては、核を成すものであり、聞き逃しては問題が生じる。業界では、その為に、毎年様々な学会が開催され、情報交換の場を設けている。それでも、日進月歩の進みには追いつけず、論文として発表される最新情報に目を向ける。不思議なものらしく、画期的な新発見も、実は、多くの研究室で同時進行しており、先を競う争いは、毎度のことのようだ。そんな事情からの情報統制だったが、漏れが生じたらしく、報道も先陣争いの状況となったようだ。それにしても、だ。基礎研究を一面トップに扱う神経には、驚きを通り越し、呆れるしかない。何の役に立つのか判らぬ話題が、全ての読者にとって最優先のものとする判断には、見識は無い。眺めた大手の新聞のうち、経済紙のみが、横並びから外れていた。この騒ぎの陰には、二つの要素があるように見える。一つは、研究所の状況であり、大々的な発表を企図したのも、彼らである。重要性の主張と言えば、聞こえが良いのだろうが、多分、銭稼ぎの目論見に過ぎない。もう一つは、女性問題だろう。女性の進出を後押ししたい政府にとって、追い風とも言うべき研究陣容に、乗らぬ手は無い、とでも言いたいのか。まさに、組織の論理が先行する形の、新発見報道に、穿った見方が無くとも、違和感を覚える筈と思うが、大衆には、そんな気配も見えない。ここでも、愚民を操るいとが、はっきりと見える。割烹着なんて、何の役に立つのやら。

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1月30日(木)−成功術

 先日から読み始めた本は、若い人々の友達に関する題名が付けられている。自らを成功に導く為の処世術を説く著者は、その類いの本を次々と出しているらしい。電車の中で、前著を開く初老の人を見かけた時には、もしかしたら、若者の動向をその代表たる著者の言葉から、汲み取ろうとしているのか、と考えた。
 だが、赤鉛筆を持ち、付箋を挟みつつ読み進む姿からは、まるで、夢よ再び、との思いを抱いているかの如くにも感じられた。勤勉と言えば、その通りかも知れないが、長い人生で身に付けたものより、若造の言葉に目を向ける態度には、頼りなさが感じられる。肝心の本だが、成功者を自認する人間らしく、傲慢な言葉が並ぶ。最高学府の頂点にある大学を出た人間らしく、外国語にも長け、その知識をひけらかす内容からは、重みが伝わってこない。ふと思い、表紙を眺めたら、題名とタイトルは、全く違ったものとなっていた。人の目を惹く為の手立てとして、母語の表現は、こうあるべきとの編集者の助言だろうか。長く残るものではなく、読み捨ての一つとなるだろうが、その理由は、本人も含め、関係者には見えていないのではないか。成功の為の道筋を示すことは、後を継ぐものにとって、重要な手助けになると言われる。だが、それを強める為に、大きな成功を掲げることが、第一とする考えには、疑いの目を向けたくなる。勝利を誇る人々に、群がる大衆という図式が、当然のように扱われるが、その実、大多数の人々は、勝利と呼べる代物や他人が羨む成功を手に入れることは無い。その代わり、小さな成果を手に入れ、次の段階へ進む機会を得る。彼らにとって重要なことは、そのちっぽけとも思える成果を、手に入れる為の方法であり、地道な努力の積み重ねを、評価してくれる組織の存在なのだ。それらを全て投げ捨てるような生き方から、学ぶべきものは一つとして無く、一方で、真に大きな成功を手に入れる人は、こんな下らない自慢話に関心を抱くことは無い。

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1月29日(水)−個と社会

 働き始めても実家に居続け、結婚することも無く、そのままに暮らす。いつの間にか増え始めた、この種の人々を、ある人々はパラサイトと呼んだ。寄生という言葉からは、良い意味は浮かばないが、カタカナにすると違った印象が起きるのだろうか。現実には、自分の遊ぶ金くらいは稼ぎ、家のこと以外は独立しているようだ。
 問題が深刻になるに連れ、働くことも無く、ただブラブラと過ごす子供が増え、まさに寄生状態と呼べるようになったが、これがまさか、独立心を強調すると言われたあの国に飛び火するとは、予想もしなかった。大学に入る時には、子供自身が借金をし、奨学金などを稼ぎつつ、卒業後には自分で返済を進める、というのが、あちらの方式であり、こちらの全て親掛かりという仕組みは、従属を強めるばかりで、独立の芽を摘むものと言われた。まさにその通りとなり、従属性が深まった末の寄生だったが、社会構造の変化は、独立の世界にまで、歪みを生じる程となったようだ。進学後の借金に、自己返済の見込みが立たず、追い討ちをかけるように、働き口が見つからないという事態にまで陥ると、自立生活の見込みは脆くも崩れ、実家に舞い戻る子供たちの数が増えているという。手を離せば、自分なりの生活が始まるとの見込みが外れた親たちは、資産運用の滞りもあり、維持の為に働き続けることを余儀なくされる。元々、定年という制度が存在しない社会では、継続は難しくないだけに、そちらに関しては問題は起きない。がしかし、新たに社会への進出を企てる人々にとっては、口を減らされる結果となるから、状況は更に悪化する。こちらでは、そんな歪みは起きず、個人の問題としての、働かない人々、あるいは、働けない人々、の数が増し続ける訳だが、行き着く先は同じようなものかも知れない。働くことが、個人の問題のように扱われ、生活の為というのが一番の理由となると、その選択も、個人の自由に思えてくる。だが、社会は、その個人によって支えられており、個人は社会の中で保護される立場でもある、と考えると、現状は余りに酷い状況にあるのではないか。社会との関わりを失い始めてから、倫理や道徳の感覚が更に薄れたのは、大いに関係のあることかも知れない。

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1月28日(火)−無形価値

 いつ頃からか、価値よりも価格が優先という考えが、最重要との見方が巷に溢れた。同じ価値なら、低い価格の方が良い、という考え方に、間違いは無い訳だ。ただ、モノの価値はその通りだとしても、それに付随するものに関してはどうか。量販店が幅を利かし、ネット市場が急速に拡大する。一円でも安いものに、人は群がった。
 市場原理などという言葉が、絶対的なものかのように扱われたのも、同じような時代だったろう。散々買い叩かれて、原価割れなどという話が流れたのは、何が何でも安いものを、との声に応えようとする努力の末だったのではないか。だが、その果てに見えたものは何か。デフレと呼ばれる怪物に、締め付けられるような生活に、皆が首を傾げ始めた頃、価格に反映されない価値に、目を戻す動きが出てきたようだ。原価とは、原材料費のみと思う人もいるだろうが、そこに大きな割合を占めるのは、実は、人件費だ。特に、先進国で問題となっているのは、その割合であり、それを減らそうとばかり、海外への進出を優先させたこともあった。しかし、政情不安や国毎の習慣の違いに悩まされ、撤退を余儀なくされたこともあり、国内で全てを賄うという考え方に、戻りつつあるのが現状ではないか。その中で、価値を見直されているのは、商店で言えば接客、その他では、サービスと総称されるものだろう。機械を介して売り買いするものは、売りっぱなしとなり、その後の責任は買った側にあると言われた。だが、実際には、不具合を生じたり、不明なことがあったりと、前より後の方が、重要との見方も出てくる。何事にも、気持ちよく、といった感覚が見直されたのも、そんな事情からだろうか。笑顔などの接し方を再認識してみると、意外な効果が見えてくる。原理ばかりを説いていた人は、こんな話を聞くと、それも、と言うのだろうが、彼らにそんな深慮は無い。人と人との関わりが見直され、見えないものへの関心が高まる。次は、どんなことが、起きるのか。

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1月27日(月)−競争社会

 毎年この時期に、努力の成果が現れる。と言っても、絶対的な指標ではなく、相対的なものであり、競わされた結果になる。運が悪かったとか、偶々の結果などと言われるのは、比較によるからかも知れないが、結果は結果であり、成功も失敗も、自らが得た成果となる。それで、実力主義とか競争社会と呼ばれるのだろう。
 競わせることにより、実力を評価することは、昔から様々な形で行われてきた。その一方で、努力の程を評価しようとする動きも様々にあり、時に、二つが入り混じった形のものまで現れる。だが、節目節目での評価は、次に進めるかを決めるものであり、越えられなかった人々は、別の機会に挑むしかない。当然と受け取られていた筈の仕組みに、最近、大きな変化が起きている。救済とでも呼ぶべき措置で、努力への評価を高めたり、敗者復活戦のようなものを採り入れる所まである。勤勉さや熱心さは、必ずしも点数に反映されないから、というのが理由のようだが、では、努力はどんな形で評価するのか。点数が満たなかったのは、かけた時間の割に、効果が得られなかったからであり、努力の方向が違っていたとも言える。無駄な時間を費やし、到達点に届かなかった人間に、どんな期待を抱くのか、よく解らない点だ。その一方で、競争社会は、理不尽なやり方で改革を強要し、時に、疲弊のみを残す結果となる。ここでも、絶対指標は想定されず、比較のみで判断が下される。その結果、敗者となった組織は、消え去るしか無いとまで言い出す。ここでの不思議は、入試などの限られた牌を争う競争と、経営などの競争を、同じ見方で捉える動きで、何の為の競い合いなのかが、見えないことである。企業でも、形にならない購買意欲を追い求め、窮地に陥った所も多いが、今、巷で進められている競争の多くは、具体的な目標も到達点も示されず、発案を含めた努力が評価される。そこで殺し文句のように言われるのは、努力無くしては、生き残りは無い、というもの。潰す為の方策なのかも知れないが、手際の悪さを見る思いだ。

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