パンチの独り言

(2014年2月3日〜2月9日)
(愚考、成長戦略、虐待、責任転嫁、地道、回避、届け物)



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2月9日(日)−届け物

 天候の話を書くと、どの地域に住んでいるかが判るだろう。と言っても、一所に留まってきた訳ではないから、すぐには判らないかも、とも思う。だが、雪の話題となると、まあ、大体の想像がつくのではないか。少なくとも、雪深い地域ではないことは、すぐに判るだろうし、温暖な地域でもないらしい、とも。
 天気予報は当たらぬもの、という時代から、技術革新は目覚ましく、かなりの確率で言い当てることができるようになった。とは言え、局地豪雨の予報は、まだ確実とは言えず、被害の大きなもの程、期待が高まる為に、外れた時の反響は大きい。それと似たものに、雪の予報がある。雪国のものは、経験が無いものの、降り続くのが普通という状態からすれば、外れることは少ないように思える。しかし、ほんの偶にしか降らない地域では、影響の大きさに比べて、確率が低いだけに、警戒を優先する時代には、何度も失敗が続くこととなる。今回も、その一つと思った人も多かっただろうが、現実は、甘くなかったようだ。10年ぶりから始まり、降り続くに従って、年数が増すというように、稀な事象であることが徐々に明らかになる。それでも、交通機関の障害を伝える情報に、外出を控えるようにとの指示が加わると、何事と思った人も多かったのではないか。流石に、膝が埋まりそうな程の積雪では、驚くしか無いが、これも異常気象の一つと数えられると、またぞろの印象しか浮かばない。いずれにしても、朝刊の配達が無い朝では、何が起きたのかさえ判らない。配達所まで届かなかったのか、はたまたその先の問題か。便利な時代には、他の情報源があるから、別に気にしないという人も多いだろう。その代わりと言っては何だが、小動物の足跡を、車の脇に見つけた。別のお届けものなのか、雪が無ければ気付かぬものだ。

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2月8日(土)−回避

 春の気配を感じた頃から、寒さが増すとの言い伝えは、実感を持って広がり続ける。雪国にとっては、何の変化も無い時期だろうが、雪を見ることの少ない地域では、この季節に様々な障害が起きる。僅かな積雪に、外出を控えるとは何事、と思うのは、慣れた人々だろう。足を滑らせ、転倒するのは、不慣れな証拠だから。
 春が年の始まりとする国では、桜の季節がそれに見合うものとされるが、新春という言葉は、必ずしもそこに当てはまらない。ただ、新しい年を迎えても、それが春の訪れとはならず、更に寒さは増し続ける。雪に閉ざされた地域では、雪解けを心待ちにする季節だが、雪の無い地域では、乾いた空気と北風に悩まされる。そんなことも、ほんの僅かな雪で、大きく変えられる。喜びに溢れる子供たちと違い、高齢者たちには、用心が必要な空からの贈り物だろう。それにしても、外出を控えるようにとの指示は、やり過ぎに思える。確かに、不慣れな歩みには、不安を抱かされるし、足回りの不備は、車での移動を危うくする。不安を口にする反面、過信や楽観に彩られた行動には、確かに、危ない感じがする。想定外との言葉も、使い難くなったけれども、何も知らずに行動に映す姿には、無謀との思いが過るし、無知と想定の繋がりに目を向ける必要を感じる。避けるの一言で、禁じるやり方では、知ることを遠ざけることにしかならない。優しい社会には、こんな危険が潜むことに、気付かぬ人々は、大きな災害に直面しない限り、何も学ぶことは無いだろう。また、一度学んだとしても、すぐに忘れてしまう習癖が、無くなることも無いだろう。

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2月7日(金)−地道

 中流、という言葉が流行った時代がある。国民の意識調査で、大多数がその感覚を抱くことが明らかになった時、何故という思いと共に、やはりとの思いも過った。右肩上がりの時代に、同じ道を歩んでいるとの感覚を、共有することは、走る列車に乗り遅れていない、という思いを抱かせた。それが安心だったのだろう。
 ところが、そこに崩壊が起き、列車が走るのを止めてしまった時、人は次に乗るべき列車を見つけられず、不安を抱くことになった。中流意識は、徐々に低下し始め、下流などという言葉が、流行り出す始末に、不安感は更に膨らみ続けた。そういえば、もうすっかり忘れてしまったが、はじける直前からその最中にかけては、上流への意識が高まりつつあり、思いを抱くだけでは終わらず、それが実現したと思った人も居たようだ。夢が実現したと思ったのも束の間、下り坂に入ったことに気付かず、立ち止まることも忘れて、そのまま走り続けた人は、坂道を転げ落ちていった。今、それらの人々が、どんな意識を抱いているのか、知る由もないが、生き続けていることだけは、確かだろう。安心に満足せず、その上を目指した挙げ句に、不安に突き落とされた人々にとって、今の時代は、それを叫ぶことで、何かの権利を得ようとするものに、映るようだ。だが、一度失われたものを、取り戻すことは容易ではない。権利を主張したとて、嘗ての栄光が戻ってくる訳でもなく、実質の無いままに騒ぎに乗った代償は、大きなままに目の前に横たわっている。騒ぎも知らず、地道に自らの役割を果たし続けた人々は、確かに、凋落の被害を受けたには違いないが、渦中の人々とは、全く違った反応を示す。足るを知るとか、分相応とか、そんな言葉を思い出すに至った社会は、少しずつ正常化の道を進んでいる。何がまともなのか、騒ぎの中に居ては気付かぬ人々が、そんなことに気付き始めたとしても、情勢は大した変化も見せない。所詮、時流に乗ると評される人々にとって、刹那的な快楽こそが、求めるものであり、その先に来るものには、目もくれないのだ。輪の中に入れない人々は、そんな姿を横目で見やり、自分の道を歩み続けるだけのことだろう。

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2月6日(木)−責任転嫁

 うまく行かなかった時、口惜しいという思いが浮かぶ。努力が報われなかったという点に、もう少し頑張れば、と思う人も居れば、相手が居る場合に、認められなかった、と思う人も居る。それにしても、足らなかったのは、自分の努力と運だったのではないか。たとえ相手のある話でも、そちらに責任を投げるのは、筋違いだろう。
 こんなことを書くのは、最近の傾向がそちらに向いているからだ。努力の評価を第一とし、結果に目を向けないのは、その典型と思えるが、努力に有効なものと無駄なものがあることに、こういう人々は気付かないのだろうか。運動競技の多くは、結果のみが問われ、そこまでの過程は反省の対象にしかならない。厳しいと言えば、その通りなのかも知れないが、実力とは、そんなものに違いない。それが、別の競い合いになると、全く違った指標があるかのように、扱われることがある。ただ、結果を競うのであれば、それだけが指標であり、言い訳のように、別の話題に目を向けるべきではない。競うものでなくても、ある水準に到達することが求められるものでは、同じ考えが適用される。評価される側に、何の選択権も無い筈だが、この辺りの事情も、最近は混乱しているようだ。努力をしても、結果が得られなければ、到達することは叶わない。これほど明らかなものに、どんな余地があるのかと思うが、渦中の人々の中には、身勝手な考えを持ち込もうとする人が居る。結果が、期待を裏切るものとなると、彼らの多くは、それが評価する側の勝手な判断のように受け取る。たとえ、水準が明確に示されていても、それに到達できないのは、自らの不勉強や努力不足とは受け取れず、恰も、意地悪をされたかのように振る舞う。情けない心の持ち主、と言い切ってしまえばそれまでだが、優しい社会は、手を差し伸べようとする。責任を果たせぬ人が、続出するのは、こんな愚かしさによるものか。

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2月5日(水)−虐待

 窮屈な世の中になったと思わないか。そんなことを聞いてみたくなる時がある。何故、って、そう感じるからだ。作り話の内容に、苦情が寄せられたとあり、始めは、反論に努めていたようだが、その後、変更を臭わせる展開になった。不快感を催させるものを、排除しようとする動きには、イジメに似た心理を感じるのだが。
 人権とか人道とか、ある種の人々は、便利に使っていると思う。他人への圧力を、恰も圧力の源は、そちらにあると言わんばかりだ。所詮作り物なのだから、という寛容は、こんな所には通用しない。あくまでも、感じたままを伝えるのみと、主張を突きつけられる。人それぞれの感じ方には、一切興味が無く、自分がどう感じたかが、全てとなる。いやはや、社会を築き、維持するのも、疲れる話ではないか。昔出版された書物を読むと、最後に、一文が加えられていることに気付く。不適切な表現とは、どんなものかと、もう一度パラパラめくってみるが、結局判らないことが多い。差別用語と呼ばれる類いの言葉は、数々の苦情の末、目に触れない所へと追いやられた。そういえば、難読漢字にふりがながあるのに、「跛」にはふってなかったことがある。これもその一つだろうか。いずれにしても、表現に制限をかけることは、ある権利を保障する為に必要かも知れないが、別の権利を奪うことになる。優しい社会とは、そういうものを指すと思う人も居るだろうが、所詮、それとて作り物に過ぎない。現実は、そんなに甘いものだったのか、と思う。話は違うが、陽水の曲にも、カラオケで歌えないものがある。そんな言葉が鏤められているからだ。下らないと思う自由は残っているから、そんな思いを抱くが、何も変わらず、変えられない。そういえば、この所、あるサイトの広告で、貧困地域への寄付を募る画像が示される。不快というと、誤解を招くが、決して気持ちの良いものとは思わない。これも、苦情で消せるのだろうか。

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2月4日(火)−成長戦略

 年明けから株価の動向が冴えない。この国だけでなく、他の国も同じような状況だから、内政によるものではないのだろう。それにしても、最大の魅力として売り出したい人にとって、逆風としか思えない雰囲気だ。所詮、波のように上下するのが経済の特徴だから、巧く乗った人間だけが、得をするのは仕方ないか。
 放たれた矢が何処へ行ったのか、既に多くの人々は、興味を無くしてしまった。一の矢、二の矢と上昇が続いたうちは、その効果の程に楽しみを抱いたが、勢いが無くなるに連れ、矢が尽きたとも思える状況に陥り、いつの間にか、下り坂へと転じてしまった。波だから、いつかは上昇へと戻るのだろうが、きっかけも見えず、手立ても尽きてしまったかの如く見える。そこに、更なる障害として立ちはだかるのは、消費税率の引き上げだろう。消費の拡大を目論む人々にとって、水を差すような政策に、反対の声も大きかったが、国の懐具合を眺めれば、仕方ないと言うしかない。だが、税収の増加は、消費に頼るしか無い訳ではない。他にも、様々な税があり、それぞれに、増やす工夫をすべきだろう。その一つが、給与の増加だろう。税率を上げずとも、それがかかる大本の数値が大きくなれば、税収は増すことになる。経済成長期には、まさにその歯車が回り続け、必要となる予算に見合う収入が期待できた。それが、成長の鈍化にあわせるかのように、狂い始め、今のような借金状況へと落ちていった。これまでのやり方では、常に成長することが、必要条件とされてきたが、人口の減少にまで陥る中では、それは望めぬこととなる。その中で、新たな手法を模索する動きもあるが、雲行きは怪しい。新たな展開より、旧弊に戻ることを選んだのか、成長戦略なるものが打ち出されたが、一年も持たずに、勢いを無くしつつある。さて、次なる手立てに期待すべきか、再び、別の展開を模索すべきか。

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2月3日(月)−愚考

 科学への信頼は失墜したと言われる。では、全てを捨てて、原始的な生活を始める、という訳でもない。こんな所にも、身勝手な都合主義なるものが出て、使える道具は何の疑いも無く手にするのに、誰かが危ないと言った途端に、悲鳴にも似た声を挙げ、糾弾へと変貌する。相手にする価値は、無いとしか言えない。
 不安とか心配という声が、絶対的な力を得たかのように扱われ、それを解消する為に、手を尽くすのが人道と見る向きが居る。確かに、不幸な人々を救うことは、時に重要であろうが、客観的な根拠も無しに、不安を募らせる人々に、手を差し伸べる必要はあるのだろうか。こんな世の中だからこそ、仮想敵が次々に登場し、それらへの不安に苛まれる人が出る。多くは、自業自得と言えるだろうが、無知な人の多くは、ただ振り回されているに過ぎない。これも、ある意味自業自得であり、自分で考えることも判断することも無く、他人の言葉を鵜呑みにするのだから、手の施しようが無い。その上、時流に乗る構えは十分にあり、騒ぎに加わる喜びは、常に感じているようだ。科学への不信についての、おかしな話は毎日のように報じられる。一見、論理性を備えたように見える話に、騙される人は続出するが、それも、不信の対象となる科学の誤った使い方に、よる場合が多いのではないか。確率の問題は、扱いようによって、どちらの結論にも導けるし、大きな数字を望めば、それを強調することも難しくない。科学とは所詮そんなもの、と思える人ならば、騙されることも無いだろうが、現状を見渡すと、そんな人はごく一握りに過ぎない。廃棄物の処理に関して、昔からの拘りのように、ある方法に固執し、その信頼性が揺らぐことで、悩みが深まっているようだが、元々、濃縮作業を経て、使い物になった燃料であり、それらは天然物だった。人工の物への恐怖が殊更に強調されるが、それとて、環境汚染で話題となった合成化合物とは違い、人の手が入らなくとも、自然にできるものではないか。濃縮の逆の作業が、適切なものとの見方は、出てきそうにも無いが。もう一つ、処理場の問題で、火砕流が、という危険性を取沙汰する向きがあるが、これほどの愚論は無いと思う。一体、何年前の話をしているのか、それも不確実なものを。

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