パンチの独り言

(2014年2月10日〜2月16日)
(無駄遣い、紙屑、悪書、補う、依存、異常気象、期待)



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2月16日(日)−期待

 科学技術の発展に対する期待は、以前の方が大きかったように思える。小さな頃には、次世紀になれば、世の中が全て変わり、全てが制御できるようになると言われていた。未来図が描かれ、建物を始めとする街の光景だけでなく、そこに住む人々の姿まで違っていた。その時代に入り、違いはあるものの、あの違いは無い。
 人工物の違いだけでなく、食べ物にも大きな違いが描かれていたけれど、その予想は大きく外れている。人工栄養で十分との考え方は、依然として続いているのだろうが、人々の嗜好はそちらに向かわないままにある。この国伝統の食事に、世界的な注目が集まるのも、人の手の入れ方についての考え方に、変化が起きた為ではないか。料理は、人の手を入れることであり、それは人工的なものとの考えが、同じ人の手を入れるにしても、素材の特徴を活かす形を重視し、ありのままの姿を、如何に留めるかに工夫を凝らす。その集大成のような料理法に、始めは戸惑いを覚えた人々も、その楽しみ方を知るに連れ、自らの伝統に、どう採り入れるかに目を向けるようになる。素材も、環境も違うだけに、始めは拒絶の気持ちが動いたのだろうが、いつの間にか、状況が一変した。売り込む方から見れば、確かに良い機会なのだろうが、このまま進むのが良いのか。今の時点で、確かなことを言うのは難しい。ただ、勢いがついてしまったのだから、そのままに、という思いも理解できる。その一方で、資源の枯渇を危ぶむ声は、強まり続けている。単に料理法の問題との捉え方もあるが、素材を伴う話と見ると、今後の展開に注目すべきか。予想外の展開だが、新世紀はどんな道を歩むのか、楽しみではある。

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2月15日(土)−異常気象

 首都圏が雪に閉ざされている。ほんの少しのことで、何を騒ぐのか、と言われていたが、これまでとは、大きく違った様相のようだ。気象統計が取られ始めてから、初めてとの声が聞こえる。足元が覚束無い、といった状況から、腰まで埋まる、となると、まるで雪国の景色ではないか。どうなっているのだろう。
 一週間前に降った雪が、まだ残る中で、新たに降った雪は、雪が降ると喜ぶ地域に住む人々にとって、とても、空からの贈り物とは思えぬ程に、積もり積もった。状況の違いは、雪だるまを作って喜ぶ姿が、見られないことからも判る。少しの雪なら、それをかき集めて、雪だるまを作る。何が楽しいのか、と雪国からの冷たい視線を感じていても、楽しい気分は高まるばかり。だが、ある線を超えると、気分は大きく変化する。道の雪かきが必要となる程になると、一日の始まりに、ひと仕事が待っていて、それが済んだ頃には、次の仕事を始める気力が萎えている。たまのことだから、まだ何とかなるだろうが、これが連日となったら、どうだろう。これも、豪雪地帯で育った人から見れば、ごく当たり前のことだろうから、考える必要も無い。だが、雪を眺めて喜ぶ人々は、徐々に、その怖さや面倒を実感するしか無い。雪が雨に変わり、徐々に融ける景色には、安心が過るかも知れないが、これが中途半端に終わると、どうなるか。想像もつかない展開に、気象事象の凄まじさを知らされる。こんなことを書いているが、実際には、どうなるのか判らない。ひょっとしたら、後日談が、色々な所から聞こえてくるのだろうか。

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2月14日(金)−依存

 異常な数値を示す検査の結果に、落胆の色を隠せない。健康診断は、年代に限らず、全ての人々が受けられる体制が整えられている。世界一の寿命を誇る国にとって、その地位を保つ為の制度として、認められる所だが、いざ、正常値を外れた結果を受け取ると、心穏やかでは居られない。何をすべき、かと。
 だが、少し考えれば判ることだが、どの位逸脱しているかが肝心であり、示された正常の範囲から、どれ位遠離っているかを見極めねばならない。酒飲みにとって、肝臓の状況を表す数値群は、結果次第で、安心へと繋がったり、戒めや悔やみへと繋がる。確かに、極端な場合には、正常とは一桁違う数値が現れ、恐怖を抱くこととなる。でも、よく考えれば、少し疲れているとしても、まだ、普通の生活が送れている、という思いがあり、人によっては、大丈夫と自分に言い聞かせる。ただ、それを続けることで、別の症状が現れることもある。依存症と呼ばれる事態に、多くの人は反発を感じ、何の異変も無いと主張するが、心の病いとされれば、処置が必要となる。正常値から外れたことから始まる、病気との診断に関しても、自覚症状を伴わねば、同意することは難しい。同じように、依存症も、自覚症状だけでなく、その意識さえ無ければ、診断の結果を受け止めるのは難しい。そんな状況はごく普通の状態と思われたが、最近は、その辺りの事情が大きく変わったようだ。病気との診断が、安心材料と扱われ、原因を知ることで納得できた、との意見が聞こえる。忌み嫌われるべきと言われてきたものが、好んで受け取られるとされると、首を傾げてしまうのは、古い人間の特徴かも知れないが、何が変化したのだろう。心持ちに起因する症状を、依存と呼ぶ習慣が定着すると、社会には、様々なものに頼る状況は、全てその範疇に取り込まれる。病気となれば、治療が必要となり、薬や働きかけを受けねばならない。その異常さに、気付かぬ人々には、無関係だろうが、広がり続ける状況には、危うさを強く感じる。一方で、病気と言われて安心する人の多くが、そのまま何もしないのも、異常の一つだろう。

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2月13日(木)−補う

 足らないから補ってやる。当然のことと思い、多くの大学で実施された補習のことだ。ゆとりと称する考え方が小中学校に採り入れられ、その悪影響と思しきものが、上の学校に広がった時、最大の危機感を抱いたのが大学だった。社会からの要請に対し、応える責任があるから、との理由だけでは無かったのだろう。
 義務教育でも、社会的要請は常に存在する。しかし、教育水準が、意図的にせよ上がってきた国では、最低の水準を保つ為のもの、との理解からか、余り大きな問題とは捉えられていなかったようだ。しかし、それが上へ上へと広がるにつれ、問題の深刻さを痛感する人々が、悲鳴を上げ始めてきた。その中で編み出されたのが、補習制度なのだろう。本来、一つの学校組織の中で閉じるべき制度が、一段上の学校に採用された所から、歪みが生じたのではないか。入試という、選別の為の関所を設けたのに、必要な学力を備えぬ人が目立つ事態が訪れた時、選択の余地を見出すより、手っ取り早い再教育を選んだわけだ。だが、その実態となると、首を傾げたくなるものが多く、本来、関所を通る為の手形となるべき学力を、通り抜けた後に身に付けさせようとするのは、土台無理な話である。そんなことへの反省からか、最近は、再教育とは違う形にしたり、補習そのものを止めてしまった所も出てきた。下らない「ゆとり教育」が捨てられたことで、安心が広がると言われたが、さてどんなものやら。それにしても、社会的責任を重く感じた筈の大学が、実際には、その役目を果たせなかったのか、社会に送り出した人々の基礎学力を疑う声が、強まっているようだ。現実を目の当たりにして、愕然とした人々は、面白いことに、大学が捨てたものを拾っているという。企業での補習制度、という記事に対して、何を想像するか。おそらく、一時的なものに過ぎず、早晩捨て去られるのだろうが、それにしても、今この時には、仕方が無いとの理解が大勢を占める。ここでも関所が機能していないのだろう。何が間違っているのか、そろそろ社会として気づかねばならない、と思う。

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2月12日(水)−悪書

 活字の話題では、多分新聞を取り上げることが、一番多いだろう。日々接するものだから、気になることも多いのだが、それにしても、様々な面で質の低さが目立つ。昔の記者たちが、気概を持って臨んでいたと言われるのに対し、今や、伝達者に成り下がったとは、良く言われることだが、本当なのだろうか。
 事件の核心に迫り、それを記事にすることが、役目であると信じた人々は、それぞれに苦労を重ねてきた、と言われる。確かに、そんな見方もあるだろうが、事実を掘り起こす作業に、それ程の力が必要だったのかは、よく解らない。今とは違う、という意見も、見方の一つに過ぎないのではないか。主観的な見方に拘り、それを世に問うた結果、認められるようになれば、客観となる訳で、始めから客観を貫いたのではない。にも拘らず、結果ばかりを重視する社会は、まるで違った道筋を、彼らの活動の中に見出そうとする。歪曲されたものが、綴られた結果、彼らはその分野の英雄の如く、扱われることとなる。活字の問題は、こんな形で日々接するものから、後世に遺されるものへと移るが、こちらのいい加減さは、遺すべきと思えぬものの多さに反映される。意見を主張する場と捉える向きは、好き勝手に振る舞うけれど、それを持ち上げる人が関わり、劣悪なものが出回ることとなる。科学者の代表のような意見を記した新書には、機を見るに敏、という彼女の生き様を著した感があるが、大した持論も無く、自らの役割も見えぬ中身に、相変わらずの姿が見える。恩師の庇護の下、業績の少なさが問われること無く、まるで科学界を引っ張る存在かのような振る舞いに、企業の研究所は扱いに窮した。その後、教育現場に転身しても、基盤の無さが目立つばかりで、抱えた組織は困ったらしい。更に、別の組織を立ち上げた結果、何やら、世に問う立場を貫いていると、自分自身は思っているようだが、社会の見方は違うものだろう。その中で、大震災後の迷走を、まるで他人事のように扱い、自分は違うかのような主張を繰り返す最新刊には、薄っぺらな他人の主張の紹介ばかりが続く。誤解を招くしか無い中身は、著者自身の能力不足も確かにあるが、業界が抱える悩みの現れとも言えそうだ。

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2月11日(火)−紙屑

 町の本屋の賑わいは、もう無いと言った方が良さそうだ。大型店が進出し、小さな本屋の意味は無くなったと言われる。更に、ネット上の本屋が幅を利かせるとなれば、出かけなくても手に入る仕組みから、その便利が当然のものとなる。大型店とて、その地位が保証された訳ではない。一方で、ネットの方とて、だろう。
 消費者が全てを決めると言われる、市場経済なるものが世界を覆うと思われたが、現実はそれ程でもないようだ。何もかも、買う側の意向で決まると言われつつ、その実、売る側の主張が反映されるだけで、大した違いは無さそうに思える。特に、出版業界はその傾向が強いようで、業界全体で魅力を訴えようとする動きがあり、以前からの書評の効果が疑わしくなる一方で、書店員なる一般消費者の代弁者のような存在が、推薦する仕組みが採り入れられ、それが全国へと波及している。ただ、彼らの声とて、制作側に直接届く訳ではなく、手にして初めて意見が出てくる。となれば、作る側の責任は大きく、書評にしろ、書店員の意見にしろ、広告にしても、中身の無いものを取り上げても、結局は、業界全体の衰退を早めるだけだろう。本屋の役割は、本来、立ち読みなどを通して、商品の中身を見せることであり、それが決め手となって、購入する人が、昔は多かった。紹介の重要性は、今再び注目され、ネット上でも、中身の紹介が行われ始めているのは、その為だろう。ただ、こんな努力を重ねても、中身の無い本が、これほど市場に溢れてしまっては、逆の効果ばかりが目立つ。自己満足の塊、としか思えぬものでも、意味が通じるものならまだまし、と言われるのも、伝えるべき中身の無いものまでも、姿を現すからだろう。活字離れが言われて久しいが、紙屑同然のものが、日々流通することを眺めると、何に近寄れば良いのか、判らなくなる。

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2月10日(月)−無駄遣い

 無駄金を減らせ、との声は大きい。確かに、無駄は「無駄」であり、要らぬものなら、使う必要は無い。だが、その判断は誰がするのか。この問題になった途端に、答えるのは難しくなる。今の流行で言えば、民意との返事が聞こえそうだが、それぞれが勝手なことを言う中では、何が民衆の意向かは、容易に見えてこない。
 それにしても、大いなる無駄と思えることが、東と西の大都市で起きつつあることに、何故、批判の声が上がらないのか。東では、その地位にあった人の、使途不明なる金の遣り取りに、正義を語る人々が、批判の声を集中させ、まるで重大な犯罪が起きたかのように扱った挙げ句、矢面に立たされた人物は、得意な批判する立場でなく、不慣れな、される立場へと追い込まれ、言い訳の連呼により立場を無くした為に、「無駄金」が使われざるを得ない事態が起きた。この事態に、時流に乗ろうとする人々が群がり、意味不明な主張が数々飛んだが、結果は、ある意味、予想通りとなった。一方、西では、これまでの非常識さから、そろそろ求心力を失った、と言われる人物が、また、非論理的な行動に出て、大いなる「無駄」を実行しようとしている。民意、という言葉が、頻繁に飛び交う中、肝心の民衆の声は聞こえてこない。以前から、人気取りに振り回される地域性から、名ばかりの飾り物が目立ってきたが、今回の人物は、中身を強調していると、自信過剰とも思える言動が続く。だが、自らの責任が及ぶ範囲を見誤り、過大評価を続ける中では、一地域に限られた話は、忌み嫌われる存在となる。これは、東の話題にも出され、意味不明としか受け取れない、国の中での役割、ということからも、政治好き、選挙好きの人々の不見識を、如実に表すものだろう。西の無駄は、空振りに終わりそうな気配だが、論争好きというより、喧嘩好きな人間は、こんなことで懲りる筈も無い。また、次の標的を掘り出し、何とか決戦を挑むのだろう。存在そのものが「無駄」とは、言い過ぎだろうか。

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