パンチの独り言

(2014年2月17日〜2月23日)
(妥当性、不達、嘘、減点法、衰微、暢気、興味を惹く)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



2月23日(日)−興味を惹く

 科学立国の名は、まだ捨てていないようだが、実態は、かなり厳しい所にあると言われる。不思議に近づく子供たちは、いつ頃からか興味を失い、理科離れから始まる、知らないことにさえ疑問を抱かぬ人々が作られる。手にする科学技術の結晶も、仕組みへの興味は起こらず、ただ、使い方にのみ興味が集中するようだ。
 何故、こんな事態に陥ったのか、という疑問には、数々の返答が出されるが、何一つとして、効き目をあらわしたものは無い。それより、窮地に追い込まれた為か、多種多様な提案に、応えようとする体制が、作り上げられ、その中の子供たちは、行き先の知れぬ船に揺られるようだ。特に、馬鹿げていると思えるのは、興味を抱かせる為の方策、と呼ばれるもので、数々登場したが、どうにも効果の程は不確かに思える。科学者の多くは、自らの経験から、興味が重要と見るようだが、怪しげにしか見えない。一部の人々は、身の回りの不思議に取り憑かれ、それを一生の生業へと変化させてきた。彼らのことを兎や角言うつもりは無いが、同じ経験を積ませたからといって、子供たちが、科学者になるのだろうか。一方、多くの科学者は、興味の大きさもあっただろうが、仕事として研究を続けている人が多い。彼らと同じ道を歩ませる為には、職としての魅力が大事と、手厚い処遇を用意するべきとの提案には、浅ましさばかりが見える。知る喜びと、不思議を抱くことは、必ずしも、一致しないことであり、それは、喜びを経験した人にしか判らない。だから、それをさせるのだ、という考えには、子供の意思は、入れられていないようだ。自己満足でしかない提案は、幾ら並べられても、役立つ筈も無く、無駄に終わる。魅力を感じさせる為に、偶像化する動きも、同じように失敗してきた。何が大切なのか、また、考え直した方が良いのではないか。

* * * * * * * *

2月22日(土)−暢気

 週末ごとに降っていた、首都圏の雪も、やっとその勢いが止まったようだ。しかし、各所で大きな問題が起きているらしい。依然として、孤立する人々の数はあり、様々な形での救援、救助が行われている。そこまで酷くはないものの、大雪直後の品不足が落ち着いたとはいえ、まだ、生鮮食料品の高騰が続く。
 生活を危うくさせているのは、日々の食料品の値段だけではない。不慣れな土地への大雪は、その処分にさえ、頭を悩ませる人々が多い。路上の雪も、やっと車がすれ違えるようになったとはいえ、まだ、山のように堆く積まれたままの所が多い。人力では、堅くしまった雪、というより、氷に近いものを移動させるのは難しく、更に、気温が上がらない為に、路上に放り出したものも、簡単には融けてくれない。大体において、雪国とは違い、大量に出た雪の始末が、一大問題となる。側溝の蓋が簡単に開き、水の流れに任せて、雪の始末をするのが、雪国の処理法だろうが、数十年に一度しか雪が積もらないような所では、そんな手立ては講じられておらず、皆、山積みにするだけで、一安心といった感がある。だが、氷の山と化したものは、更に融けにくい状態になり、どうにも手出しができないような雰囲気だ。そこで、重機が登場した街角もあれば、消防士がよってたかって、といった風景も見られる。自衛隊の救援を要請した自治体もあったようだが、それほどでなくとも、住民の力だけでは、何ともし難い所も多い。協力の光景が見られる、などという話も、渦中の人々から見れば、暢気の極みに思えてくる。政治家の失言を指摘するより、自分自身のことを顧みた方が良いのではないか。

* * * * * * * *

2月21日(金)−衰微

 この所、カウンタの進みが更に鈍くなっている。ホームページ全体は当然として、独り言の閲覧の減少が、特に著しい。大した数があった訳ではないが、数人の常連者が居なくなってしまったようだ。原因は、独り言の中身によるものも多いだろうが、それにも増して、最近頻繁に起こる不通が大きいように思う。
 以前は、毎日決まった時間に、ほんの数分の不通があったが、それ以外には、精々週に一度あるかないか、という状態にあった。それが、最近は、毎朝、数時間の不通期間が続く。このサイトが間借りしている、無料サービスは、現時点では数少ない場として、多くの人々が利用しているらしい。実態を知る術は、最近は殆ど無くなり、たとえ検索で見出したとしても、その存在を確認する手立てが無く、全体の確認が行えない。更に、管理サイトから全体の情報流通量を調べることができるが、こちらは、殆ど限度一杯に達したことを示すだけで、利用者だけでなく、何かしらの悪意を持った人々の妨害行為が、含まれていることを現しているのかも知れない。いずれにしても、設置させて貰っている側からすると、何かしらの圧力が感じられ、再び、転居を考える必要が出始めている。ただ、以前のように、参加者の数がある訳でなく、管理者の考えを記録する場でしかない状況では、維持をしなければならない、とは言い難いように思う。新たな展開があれば、また、何かしらの動きを始めるが、現状のままだと、このまま維持を続けるだけ、ということになりそうな気配だ。

* * * * * * * *

2月20日(木)−減点法

 競技の内容を採点するものの多くは、必要要素を如何にそつなくこなしているかを基準とし、減点法が主体のものが多い。その中で、長所を取り上げ、それを点数に反映させる採点法を使う競技があった。冬の競技として、注目を浴びたのは、その華やかさ故だが、見せ物的要因から、基準の揺らぎが話題ともなった。
 技術的長所と芸術的印象、という二つの採点基準を設け、それに基づいて優劣を判断する方式は、かなり長い期間採用されていたが、いつ頃からか、限定要素を設定し、その出来を競う形式が導入され、一時期は三つの形式の順位の総計で競う形となっていた。だが、華やかさを優先する動きは、競技の形式にまで力を及ぼし、規定と呼ばれる地味なものが排除された後、採点法に大きな変更が起きた。基準を明確にする、という姿勢の現れと受け取られたが、体育館で実施される競技同様に、それぞれの「技」の基準点を、その難度を基に定め、その総計で競う形になった。長所は無視され、失敗という形の短所が重視される。更に、印象などというものは、無駄なものとされた、との意見もあるが、実は依然としてそちらは残されているらしい。採点法の複雑さは、そんな経緯で、結局は残ったままになっているが、同じ基準で競うということからすれば、今も昔も、何の変化も無い。ただ、厳密な審査という立場から、基準を設け、それを基に、という形になるのは、ある意味、世相を反映しているようで、世の中も全体的に、人々の長所に目を向けていた時代から、劣っている点に注目するようになっている。点数稼ぎのつもりで、自らの優位性を主張しても、次の段階で、失敗すると逆効果、などと言われるのも、そんな事情だろうか。就職活動で、自分の特長を並べたり、予備知識や理解力を示そうと、肝心な質問をすることが、一時流行っていたが、最近は、そこから更に先に進めるかどうかが、判断基準とされている。始めの自己主張も、その後の展開が悪い方に向くと、却って、劣っているとの印象を与える。長所より短所、という傾向が、こんな所にも現れているのだろうか。

* * * * * * * *

2月19日(水)−嘘

 他人の嘘を見破ることは、世間で言われる程容易ではない。特に、詐欺事件のように、自らの利害が入り混じる中では、澄んだ目で見つめることは難しく、欲に目が眩むと言われる如く、濁ったり、霞んだりした目で見る訳だから、鏤められた嘘も、時に宝石のように輝いて見える。騙された、と気付いた頃には、もう手遅れだ。
 では、利害が入らぬ中での判断となれば、確かな目が利くのだろうか。これも、程度問題と言えるのではないか。生物系の研究の進展を伝える、所謂メルマガと呼ばれるものに、編集者の研究に対する意見が載せられていた。実験結果を示す写真を、方向を変えて眺めていたら、作為を疑われるといった内容に、当人は、仲間の信頼の必要性を指摘したらしい。だが、嘘に凝り固まった、捏造、改竄に満ち溢れる論文では、仲間の信頼はある筈も無く、作為に満ちたものとなれば、それを見破ることも容易ではない。その場は、画期的な発見と取り上げられても、再現性と呼ばれる、同じ条件、同じ材料での実験が、同じ結果を導くことが起こらなければ、疑いが急速に膨らみ、いつの間にか忘れ去られる存在となる。そんな、自らが招いた苦境を、ものともせずに、次々に新発見を連ねる人も居るらしいが、後世に遺されるのは、汚点だけだろう。一般大衆から見れば、専門家と呼ばれる人々には、嘘を見破ることは容易いと思えるだろうが、これまでのこういった事件の経緯を眺め直すと、それがかなりの困難を伴ったり、場合によっては、不可能ともなりうることに気付かされる。「論文捏造」という本で取り上げられた、物理学の新星は、データの矛盾が糸口となり、その嘘が見破られたとあるが、その出版より二昔程前に話題になった、生物学のがん化の仕組みに関する研究では、論文のデータからは見破られず、実験の再現性が得られなかったことから、検証が始められ、結果として、実験自体が台本に基づく虚偽であったことが暴かれた。ここから見えるのは、仲間の信頼も、データの確実さも、全て確保されたとしても、中心人物が「始めから」意図を持って挑めば、筋書き通りの結果を得ることが可能であり、それを見破ることは、身近な人間にも難しい、ということだ。こんな嘘を無くす為には、結局、当事者の倫理道徳に頼るしかない。難しそうで、実は、簡単なことかも。

* * * * * * * *

2月18日(火)−不達

 流通の停滞が著しくなっているという。地産地消が殊更に取り上げられるのは、それが現実とは異なるからで、欲しい気持ちを満足させる為に、国内遠くからでも、時には、海外からさえも、取り寄せるのが当然となる。全てが順調であれば、何の問題も無く、欲望も満たされるが、一つ支えると、無い物ねだりとなる。
 消費者の欲望ばかりか、様々な生産の仕組みが、流通に依存することが露呈したのは、もう何年も前のある高速道路の閉鎖の時だろう。二本ある流通経路のどちらもが使えなくなることは、それまで無かったから、危機回避の仕組みは作られておらず、天候不順により、今とよく似た状況に陥った道は、降り積もった雪が行く手を遮る形となった。結果として、部品調達が滞り、看板と呼ばれた仕組みは、破綻を来たし、世界一を競う大企業が、為す術を無くしていた。実は、今回も、同じことが起きているが、一部の工場の操業中止は、当時とは大きく異なる扱いとなった。何がどう違うのかは、すぐには理解できないが、おそらく、生産の集約の状況が、当時とは違う為に、全体としての影響が比べ物にならない程に、小さくなったのではないか。いずれにしても、ある程度の対策は講じられたようで、企業としての面子も保てたのだろう。しかし、その一方で、大きく報道されている、一般消費者への影響は、何の対策も為されていなかったようだ。大雪の被害に遭った地域は、実は、地産地消さえもままならず、空の棚が目立つ状態にある。孤立とは大袈裟な表現だが、一部地域はまさにその状態にあり、優先順位の差が、復旧への道筋を危うくさせている。今後の展開は、いつも通りに、ただ粛々と進められるだけで、結局は元通りに戻るだけのことだが、便利な店も含め、流通頼みの仕組みには、ほんの偶とは言え、危うさが潜んでいることに、気付くべきなのだろうか。

* * * * * * * *

2月17日(月)−妥当性

 宰相まで務めた、ある元政治家が突然疑問を呈したことで、皆が騒ぎ出した。本人の無知無能は、最近の政治家に対する批判と酷似したものだから、今更取り上げても、無意味に違いない。それでも、鵜呑みを得意とする大衆の一部には、問題意識というより、単純な恐怖が広がった。何が問題かを知ろうともせずに。
 不安とか心配は、誰もが抱く感覚であり、それを備えることで、危険回避ができ、生き延びてきたのだから、それを無くせと言う人は居ないだろう。しかし、理解を忘れて、他人の言葉を鵜呑みにし、殊更に騒ぎ立てる、という形の感情の吐露は、何の意味も持たないのではないか。有名人の発言は、その真偽が問われることなく、ただ漫然と広がるものが多く、特に注意を要するが、不安を口にする人の多くは、注意を払う為の知識も、それを補う為の手立ても持ち合わせていない。彼らに必要なものは、正しい情報の伝達である筈だが、それに携わる人々の無知蒙昧ぶりは、最近富みに著しくなりつつあり、真偽の見極めや情報の選択において、意図的な偏りだけでなく、過誤も目立つ。始めの廃棄物処理に関する話題についても、誰も引き受けないのでは、到底無理な話と結論づけたことに対し、論理的な反論は殆ど聞かれなかった。その程度のことを議論しなければならないほど、処理への理解は進んでおらず、そこにこそ、本来の問題があるとの意見もあるが、問題のすり替えと言い返される状況では、話になる筈も無い。では、現在採用されつつある処理方法が、どの位妥当なものか、という話はどうか。実は、こちらも、見方を変えると、怪し気な論理によるものに見える。数万年どころか数百万年という期間を設定するらしいが、人類の存在を何処までと考えるのだろう。妥当とは、どんな意味になるのか、もっと考えた上で、示して欲しいという意見があってもよさそうだ。

(since 2002/4/3)