旅行を楽しみにする人は多い。普段見ることのできないものを眺めるのは、一種独特の興奮があり、それを喜びの一つとする人も居るが、反対に、どこで何を見るかではなく、出かける行程のみを楽しみとする人も居るようだ。旅行ということについて、目的を重視するか、過程を重視するか、という違いなのだろうか。
実際には、どのくらいの違いがあるのかは解らない。それぞれに、自分自身の考え方を反映させるだけで、それがどこかに発表されるものにならない限り、他人の知る所とはならないからだ。だが、最近の傾向からすると、何かにつけて、経費の問題が第一となるから、旅行に関しても、豪華なものより、如何に節約したかが問題となるらしい。宿泊場所の工夫もその一つだろうが、過程を重視する人の多くは、如何に運賃を節約したか、を問題とするようだ。例えば、夜行バスはその一つとして、注目を浴びてきたものの、重大な事故が多発することで、管理体制が問われ、節約の度合いが小さくなってしまった。一方、時期が限られるとはいえ、鉄道での旅行で使う、格安の切符の人気が高まっているようだ。急ぎの旅行に目が向く中、逆に、ゆったりと動く旅行に限定され、その代わりに安さを狙った訳だが、若者対象の筈が、かなり広い範囲の年齢層に愛用されていると聞く。なるほどと思う部分がある一方で、面倒ではとの思いもあり、さてどうなのか、という思いだろうか。
ハラスメントに対する解釈は、ある意味安定してきたと言えるのかも知れない。イジメという言葉が既にあり、その解釈についても、ある程度固定したものがあった中で、突然、ハラスメントが海の向こうからやってきた時、多くの人が面食らい、理解に苦しんだ。加害と被害、見る立場で、これほどに違うのか、と。
イジメは、する側の意識が優先され、される側の感覚は、余り尊重されてこなかった。そんな中に、される側の判断のみを採用する、ハラスメントという考え方が持ち込まれれば、混乱が起きることは当然だろう。何気ない発言や行動に、様々な解釈が施され、それが原因となった、と言われる度に、無意識を意識せよ、といった戒めが聞かれるようになり、あらゆることに意図を持つことで、心理的な疲弊が広がったこともある。被害妄想として片付けられた特性が、脚光を浴びることとなると、それまで、目を向けられなかった存在に、注目が集まることとなる。となれば、問題が生じても、説得などで解決してきた仕組みが、成立しない事態となり、組織として考えるべきは、問題が生じる可能性を、如何に少なくするか、となる。言うは易し、行うは難し、の典型のようなもので、これを実行に移すことは、かなり難しいと言うしかない。問題の芽を摘むのも当然だが、種を排除することが第一となれば、人間性を眺め、可能性を持つ人を外さねばならない。本来、業務上の能力が第一に考えられたものを、別の要素を優先するとなれば、肝心なものが二の次となり、支障が出る可能性もある。全体的な能力低下に加え、こんな副次的なものに配慮することで、停滞は更に著しくなる。本来、権利を守る為に考えられた筈が、いつの間にか、別の作用が強まることで、別の権利を失ったとしたら、何処に問題があるのか、考える必要があるのではないか。
不安や心配を口にするだけなら、実は大した事態には陥っていない、と思う人は多い。そちら側から見れば、ただ単に、思いつきを表明するだけで、深刻な状況には無いと思えるから、心理的に落ち込む人にも、「大丈夫」とか、「頑張れ」といった言葉をかけるだけで、相談に時間を費やすことは少ない。
大多数の例では、そのまま何事もなく時間が過ぎ、不安に苛まれていた人も、それと付き合う方法を見出すこととなる。だが、中には、膨らみ続ける心配に、心を蝕まれてしまうこととなり、安定に向かうことが、難しくなる場合がある。多くは、治療が必要と判断され、投薬により、不安を取り除いたり、心配を無くさせる。ただ、薬は問題を取り除くのではなく、体調を整える為のものが多く、人それぞれに異なる、不安や心配の種を、完全に取り除くことは難しい。そこまで深刻化しないうちに、相談という形で、種を除く作業を進める例は多く、多くの組織は、その為の人員を確保している。社会全体で考えると、それ程深刻な状態にあり、組織の義務の一つとして、整備が必要とされる訳だ。それでも、問題を抱える人の数は減らず、根本的な問題解決には程遠い状態にある。始めに書いたように、不安や心配を口にする人がおり、それが高じることで、仕事や作業に支障を来すようになって初めて、対応が進み始めるが、始めの段階で、効果を上げるとしたら、専門の相談員ではなく、周囲の人々の声かけに期待するしかない。人間社会では、そんな遣り取りが、健全性を保つ為に存在していたが、現状では、それがうまく働いていないようだ。問題を抱える人と、その周囲に居る人間、どちらに問題があるかを、断定することは難しく、それぞれに違った様相を呈しているように思える。そんな中で、どんな解決法が適切なのか、答えが見出せるようには思えない。迷走は暫く続くと見た方が、良いのかも知れない。
子供と大人の違いに関して、もう一度書いておきたい。大人になり切れない、中途半端な存在が問題とされ、厳しい状況にある人にも、権利は保障される故に、家族の責任も社会のものへと移されている。一見、優しい社会の象徴と映る行為も、その実態を眺めると、様々な矛盾や捩じ曲げられた解釈が目立っている。
本来、成長を促す役割は、周囲の人間にあるものの、殻を破る為の最後の手立ては、自分で講じるしかない。当然と扱われた考え方も、時代の変遷に従い、かなり変貌したらしく、積極的な取り組みを強制するより、消極的で受け身な考え方を放置することを、選ぶようになっている。大人になり切れない人々が、どれ程増えたとしても、豊かな社会の包容力は、それを受け入れられる、と思った人々が、そんな方向に歩むきっかけを与えたのだろうが、経済を始めとする指標の悪化は、その見込みの甘さを表にしたようだ。後手に回った対策が様々に講じられ始めているが、社会に甘えたい人間やそれを許すことで利益を得る人間を始めとする、抵抗勢力は様々な働きかけをすることで、自らの権利を維持しようと躍起となる。だが、現実に、無い袖が振れない状況が明らかとなり、未来どころか、今この時さえも、破綻を来しつつある事態となれば、何かしらの制限をかけざるを得ないだろう。そんな時代に、大人になる為に必要なことは何か、今更ながら、若い世代に対して、示すべきことは沢山ある。ただ、それを持たない、大人の皮を被った子供たちが、社会に巣食う状態では、それも簡単なこととは言えないようだ。こんな社会の情勢を如実に表すのは、言葉の端を捉え、一々批判に繋げる人々の存在で、まるで子供の喧嘩のような、幼稚な行為に終始する人の存在だろう。有識者、知識人などと呼ばれる人の一部に、そんな存在が許されることに、社会の幼さが現れている。
子供の頃、大人とは、どんな存在だったのだろう。口答えをせず、命令に従わねばならない存在とか、理屈では通らぬ、身勝手な存在といった印象があったのではないか。当時、大人だと見なしていた年齢を過ぎ、自分がその立場になった時、人は何を考えるのか。命令ばかりで身勝手な行動をする人が多いのかも知れない。
そんな大人たちを見て、理不尽と感じた子供も、自分がその立場になった途端に、そう思われる言動を繰り返すのを眺めると、人間とは、所詮勝手なものだろうと思えてくる。だが、いつまでも子供のように振る舞うことは、一方で、様々な問題を生じることも事実だろう。大人と子供と、簡単に二つに分けてしまったが、最近は、どちらにも属さぬ、不思議な存在が急激に増えているのではないか。勝手な言動を続け、権利ばかり主張し、義務は無視して、責任を果たさない。こんな大人たちが増えると、それに続く子供たちは、同じ繰り返しを行い、循環が成立する。一時は、こんな反復が劣化を著しくしていたが、ごく最近は、違った兆しが見られると指摘する声もある。底を打ったとは、そんな時に使われる言葉かも知れないが、これ以上悪くならない線になり、回復の兆候が見られると言われるが、下がってきたものが、上がり始めるとなれば、状況の変化は著しく、社会全体の歪みが急激に強まる。それが、規制強化の提案へと繋がり、様々な理由をつけた、反対派の抵抗へと展開する。本来、当然の成り行きと見るべきことに、何やら勝手な理由をつけることで、規制を緩め続けた結果、人間の考え方が根本から変化したと言われたが、底打ちの後、考え方自体は別の方を向いてきた。ただ、依然として、既得権を主張する人々の、傲慢な反論は多数の賛同を得て、かなりの力を示している。劣化を食い止める為の方策は、そこに急激な変化を持ち込まねば、功を奏する筈も無いから、ここが一番の勝負所だろう。勝ち負けの問題でもないのだが。
あっという間、と感じた人も多いのではないか。祭典の陰に隠れて、周辺国以外は、余り目を向けなかったのか、はたまた、この国だけが、競技に酔い痴れ、国際情勢に目を向けるのを、忘れただけなのか。危機という声を聞いた頃には、当時の政権は既に末期状態に陥り、すっかり力を失っていたようだ。
他の方法で情報収集を行っていた人から見れば、何故、お祭り騒ぎに集中するのか、不思議に思えたかも知れない。しかし、当時の情勢からすれば、祭典が滞り無く終えられるかが、話題の中心にあり、所謂暴力沙汰が、開催国で起きるかどうか、それがどのように防がれるかが、興味の中心にあった。まさか、その隣国での騒ぎが、政府の転覆に繋がるなどとは、一部の人を除けば、想像だにしなかったのではないか。特に、両国が以前は一つの国を成し、繁栄を誇っていたことを考えれば、今回の変化は、互いの結びつきを、再認識させることに繋がった。反発を強めた時期を経て、外圧に屈するような形で、隣国との関係を周辺国とのものより、優先させるような政権が樹立されたとき、勝利を確信したのは、隣国の大統領だっただろう。だが、お祭り騒ぎの最中に、一気に高まった反体制派の動きは、結局、政権崩壊へと流れ、政治的な圧力のみならず、武力行使を得意とする国も、祭りに水を差すことを、思いとどまったようだ。この辺りの背景について、事実は、徐々に明らかになるだろうが、既に、力を失った人の暴挙は、数々暴露され始めている。この手の話題は、お祭り騒ぎを好む人々にとっても、好餌となるものであり、今後は、その極端な政治手法に、注目が集まるだろう。独裁的な権力を行使し、弾圧を繰り返した、という話は、社会主義国にありがちなものだが、自由を得たとしても、その手法をとってしまうのは、あの体制の呪縛の一つなのだろうか。
良い製品は必ず売れる。一昔前なら、当然と受け取られた標語の一種だが、今では、全く違った解釈が為されている。作る側が、「良い」と思っても、買う側が、受け入れなければ駄目、ということで、市場調査が優先され、更に、品質よりも価格が優先される中では、「良い」の意味が大きく変わってしまった。
苦境に陥った企業の多くは、客の要望に応える為に、様々な手立てを講じようとした。しかし、価格競争は、中でも最も難しいものであり、原材料から人件費まで、多くの要素に圧力をかける。確かに、安いものを追いかける人々の存在は、無視できない程の大きくなっているが、その一方で、特異な技術を売り物にし、他の追随を許さぬ企業は、依然として、品質を第一との方針を保ち、築いた地位を揺るがぬものにしようと、日々質の管理に精を出す。この違いは何処から来るのか。日用品と特殊な製品の違い、との指摘を続ける評論家も多いが、果たして、彼らの考えは正しいのか。価格のみならず、性能に関しても、客の要望が強まっているようで、それに応えることも、製造業の役割との指摘も、逆風の吹く中では、重要な選択として扱われるが、個別生産を捨て、大量生産に活路を見出した、価格競争での生き残り策とは、正反対の考え方だけに、安易に飛びつくのはどうだろう。こう並べてくると、要望という名の、脅しにも似た要求に、一々応えることが経営戦略のように扱われるが、どうも的外れの連続に至っているのではないか。品質と性能、本来目指してきたものに、今一度立ち返ることが、復活の糸口に思われる。何をとぼけたことを、と批判する人々は、一時の儲けに目が眩むだけで、長く保つ為の手立てを知らぬだけなのだ。