期待に胸を膨らませ、新たな出発に臨む季節には、様々な思いが過る。期待は当然として、それとは正反対の不安も、時に抱いてしまうものだ。未知の世界となれば、何が起こるかも予想がつかず、それが不安へと結びつく。確かに、楽観だけで済めば良いが、人の心は複雑で、どんなに明るい未来を望んでも、それだけとはならない。
そんな心の動きを反映してか、精神的な不安定を招き、悩みに沈む人も出てくる。昔から、花芽時と言われる季節には、そんな変調を訴える人が出ると言われるが、周囲の状況は、随分違ってきたのではないか。不安を訴えたり、休みがちになる人を見かけても、暫く様子を見るのが、昔は常だったようだが、今は、様々な場所に、用意が備えられている。職場での相談も、自治体が用意したものも、カウンセリングと称する相談の場を設けたものだが、どんな効果があるのか、今一つ見えていないように思う。その原因の一つには、個人情報の秘密保持という観点があり、経過報告も無いままとなれば、専門家の間でしか、状況が知られることは無い。止めておけ、と言うつもりは無いけれど、暫く放置することの方が、功を奏する場合もあるのではないか。一部の医者は、こんな考え方を、荒唐無稽と片付け、排除しようと躍起になる。だが、彼らとて、仕組みも治療法も判らず、日々試行錯誤の繰り返し、と漏らすのでは、全幅の信頼を託すことは難しい。何故、こんな状況に陥ったのか。おそらく、与し易しと始めたことが、予想外の困難に直面したのだろう。だが、その見直しより、更に先へ進むことを選び、難度は増し続ける。投薬が唯一の手立て、との主張も、現状からは、負け犬の遠吠えに似た響きを持つのでは。
切迫感が無いのか、楽観的なのか、紙面を飾る文字を眺め、そんなことを思う。甚大な被害を出した事故から、既に3年が経過しようとする中、依然として、方向を定められない社会は、科学への信頼を失い、根拠の無い暴言に振り回される。被害そのものの評価さえ、主観ばかりが飛び交い、互いの理解は得られぬままだ。
強制的な避難や風評被害に遭った人々から見ると、何とも身勝手な論法が飛び交い、嫌なものを押し付けられている感覚は、更に強まっている。同情の声は上がるものの、肝心な所では、突き放すような言動が続き、都会に住む人々の、優越感にも似た、一方的な要求には、反吐が出るのではないか。被害についても、事故直後の過小評価への反省からか、過大に膨張させたものが、挙って取り上げられ、根拠の希薄どころか、無い所にさえ、火を見るかの如くに振る舞う始末。科学的根拠は、失われた信頼を、取り戻すきっかけを見失い、通じない話に、言葉を継げない状態が続く。直後に失われた冷静さは、落ち着く先を失ったかのような状態となり、感情を揺さぶられると、一気に爆発する危険性を孕む。論理は、籠絡に受け取られ、積み重ねたデータは、作為と受け取られる。何十年も前に、科学への盲信を戒めた学者も、まさか、こんな事態に陥るとは予想だにしなかっただろう。だが、そんな世相だからこそ、諦めずに説明する責任を、科学者は負うべきではないか。研究費を稼ぐ為に、腐心するばかりでは、本来の義務を果たしていることにはならない。悪意に満ちた言葉を浴びせられても、正しいことを見出し、それを伝える信念を貫く強さを、失ってはいけない。絶対の存在は無く、安全も安心も、自らの関わりがあってこそ、との理解が必要で、そこにある確率には、重要な意味が込められていることを、説き続ける必要がある。恐怖に駆られる人々が、理解力さえ失うのと違い、始めに書いた記事の話は、冷静さを纏った理解不足から来るものだろう。
国際的な活躍を人材に求めるのが、時流となりつつある。その為の資質を備えているかを、選定の基準と置き、不可欠な要素と見なしている。確かに、企業活動では、国境が見えなくなり、狭く留まるより、広く拡げることが必須となる。だが、その為に必要な資質に何があるかは、それ程確かなものなのだろうか。
意思疎通に必要なものは、共通言語の使用と言われる。最多数が母語とする言語より、覇権を握り続けてきた国で使用される言語の方が、共通なものとの認識が強いようだが、この国では、その考え方が圧倒的主流となっている。その為、自らの母語より、そちらの運用能力の巧拙が、選定の基準とされることが多い。確かに、考えが正しく伝わらねば、交渉も始まらない訳で、更に、交渉ごととなれば、より高い運用力が必要となる。だが、言葉を操る能力ばかりに、注目が集まる一方で、その中身に対する吟味には、余り注目が集まっていないようだ。当然の力、との見方があるからかも知れないが、それにしても、単なる伝達力に目を奪われ、理解の上で論理を構築する力を軽視するのは、どうかと思う。こちらは、共通言語の問題とは違い、母語での評価が必要となる。各言語で、同じ事を繰り返すとの考え方もあるが、現実には、母語でできないものが、突然他言語でできる筈も無い。確かに、表現様式に関して、言語の違いが現れることもあるが、基本的な理解や論理に関しては、生まれてから使い続けてきた言葉で、表現できなければ、他での力は期待できない。評価を如何に行うかについて、様々な意見があるけれど、国際化を気にする余り、自分たちの言葉を軽視するのは、間違いなのではないか。
上を目指すことの大切さは、取り上げられることが多いから、皆当然のことと思っている。だが、目指すばかりで到達できなければ、所謂達成感が得られず、意欲の減退に襲われてしまう場合がある。成長を目指し、日々努力を積み重ねても、自分でその成果を感じられないと、更なる努力が難しくなる訳だ。
誰もが必ず到達できる点であれば、少ない努力で辿り着けるから、そんな問題に出合うことも無い。しかし、それでは、人より目立つという形の目的は果たせず、皆と同じという形に留まることとなる。それではいけない、とされる中では、もっと上を、という声が大きくなるが、果たして、そうしなければならないのだろうか。分相応と言われるように、それぞれに見合う所があると思われるが、上を見つめ続ける人は、何処が自分の場所かが分からず、戸惑うことが多いようだ。始めは、走り続けようと思ったにしても、この辺りが自分の場所と思える所に来ると、何となく落ち着ける、という感覚を持てる人は、その点、気楽なものではないか。これも才能の一つであり、無理をせず、自分の力を測ることで、落ち着き場所を見つける。近くに来るまでは、それが見えないから、不安に駆られることもあるだろうが、そこにやってくると、何となく判るのだろう。こういう感覚がないと、限りない努力を続けることを、自ら強いることになって、様々な問題が生じる。疲れ切って諦めるのとは違い、見極めて、ある地点に到達するのであれば、それは一つの成果となる。たとえ小さなものでも、そこに到達したという意識があれば、十分なのではないだろうか。そんなことでは、成長は見込めない、という意見もあるだろうが、無理することは、必ずしも良い結果に繋がらない。この辺り、人それぞれに意見が違うだろうが、それで良いのだと思う。
異常な冬との噂が流れたが、どうも世界的な傾向のようだ。各地で大雪や異常低温が観測され、温暖な地域が極端な気候に移りつつある、との分析もある。一々反応するのもどうかと思うが、それを仕事とするのだから、仕方ないのだろう。だが、そんな気象と雖も、冬は去らねばならず、春は確実に訪れる。
この季節、移動が重なることが多い。毎年感じることだが、各地での変化の進み方は異なり、それが体調に影響を及ぼすこととなる。多くの人同様に、スギ花粉に反応してしまう体には、そろそろ厳しい季節が始まる。だが、同じ場所に留まれば、ゆっくりとした変化に、体が反応を始めるだけだが、移動となると、違った環境を通り抜けたり、そんな所へ行き着くこととなる。ほんの数時間の移動で、全く違った花粉量の場所に移れば、体は突然の変化に、驚いたかのような反応を示す。この症状の問題は、引き金が一番大きな要素であることで、こんな移動が強い変化を招き、引き金を強く引けば、その後の展開は、悲惨なことになる。これが暫く続くと考えれば、憂鬱な気分にならざるを得ないが、その一方で、異常な量の雪に見舞われた冬が、少しずつ去りつつあることが意識でき、春がすぐそこまでやってきていることに気付く。まだ、暫くは、三寒四温への移行として、寒い日に戻ることもあろうが、体の反応から言えば、既に春を迎えた人が多いのではないか。喜ばしいとは、とても言える状況には無いが、季節は確実に変わりつつある。
法人化という言葉が頻繁に聞かれてから、既に十年以上が経過した。鳴り物入りで始まった制度が、その後、どのような展開を見せたのか、そろそろ検証する必要が叫ばれている。となれば、通例から言えば、失敗に終わったか、芳しくない状況が想像できる。無駄を減らす為、と言われたものの、どうなのか。
始めに起きたものは、独立行政法人と呼ばれる存在で、名称からは何を指し示すのか、すぐには判らないものだった。多くは研究所などで、最新研究で女性研究者の活躍を大々的に発表した存在も、その一つである。この行動も、法人化の結果と言われ、研究を行うことだけでなく、広報に力を入れることで、存在を社会に訴えるという姿勢の現れと言われる。当然の成り行きとも見えるが、不慣れなことの繰り返しは、弊害を産み出すこともあり、あの発表の後の展開は、あの法人が思い描いたものとは、大きく違ってしまったようだ。それに続く形で始まったのが、国立大学法人と呼ばれる存在の登場で、研究所の組織変更とは、少し違った事情があったようだ。教育が国を築く為に欠くことができぬもの、との見方は、維新後に出てきたものだろうが、国を挙げての取り組みとされたことが、これを機会に大転換を迎える、との見方が出ていた。だが、現実には、何の変化も起こらず、従来のまま、といった形での展開が、続いていたのではないか。大きな変化は、予算の問題であり、当事者達からは、減額という厳しい現実への対応に、苦慮する事情が聞こえてくる。ここまでくれば、自ずと理解できるのは、法人化は、何か新しい組織や展開を意図したものではなく、単に、予算削減を目指す為の方便に過ぎなかったということだろう。その思惑は成就したようだが、一方で、予算不足の歪みは深まり続けている。国を支える為の要素を蔑ろにしたツケは、どんな形で返ってくるのか。それを露にする為の検証に、国は力を入れる気にはなれないのだろう。
別れの季節に入り始めた。出会いがあれば、別れがあるのは、ごく当たり前のことだが、これきりとなるかどうかは、その時には判らない。同窓などと呼ばれる関係が、長く続くこともあれば、二度と会うことも無く、思い出としてしか残らない関係もある。人それぞれの展開が続くが、節目の別れは確実にやってくる。
節目に儀式はつきもので、それぞれに工夫を凝らしたものが行われるが、最近様子が変わっているように思う。卒業を祝うのに、祝ってもらうより、感謝の気持ちを表したいと、謝恩会を開くことが、一時流行ったものの、最近は勢いを無くしてしまったようだ。伝統を重んじた会を続ける所は別として、流行を追うだけの人々には、感謝の気持ちより、やっているという気持ちの方が、強かったからだろうか。よく似た事情は、歓送会と呼ばれるものにも、現れている。以前は、組織全体で開かれることが多かったのに対し、最近は、一部の仲間達だけの会となりつつある。仲間、という感覚が重視されるようになったのは、一種の個人主義が台頭した為なのかもしれないが、組織あっての個人の存在という関係が、いつの間にか、忘れられつつあることに、原因があるのかもしれない。仲間内での盛り上がりが第一となり、排除する気持ちには、特に違和感を覚えないというのも、そんな繋がりを思わされる。どうせ、仲間内でしか盛り上がらないのだから、他の人の存在は、目に入らない、という考え方に、疑問を抱かぬ人といっても、自分が逆の立場におかれたら、どうだろうか。では、そんな人たちから見て、何かに便乗して、自分たちの仲間を祝う会を企画することは、当然と見えるのか、それとも。