パンチの独り言

(2014年3月10日〜3月16日)
(忘却、暗闇、無垢、護衛役、総括、学ぶ、旬)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



3月16日(日)−旬

 旬が無くなったと言われる。人が作った食べ物に、そんなものが無いのはある意味当然だが、自然のものには、それぞれに見合った季節がある。ところが、人間の欲望は、自然の摂理をねじ曲げてでも、手に入れたいとなるようで、天然と養殖の区別がされる魚介類があると思えば、熱したり冷ましたりで作られる農作物がある。
 最近は、天然が養殖を勝るという考え方も、一概には通じないようで、味の評価からも、区別が困難となりつつある。そんな中では、季節に左右される天然物より、一年中手に入れられる養殖物の方が、優先されることもやむを得ないのだろう。だが、日頃から手を掛け続けなければならない、養殖やハウス物と呼ばれる産物には、経済的な天秤が掛けられ、売れるものにしか、興味を抱かれなくなる。取引が関わる話なのだから、経済が関係するのも当然と思えるが、何を食べるかの選択に、社会全体の経済状況が影響するというのは、どうだろうか。食べたいものを食べるという欲求が、養殖の導入を決断させたという背景と、旬のものを食べるという欲求が、旬を際立たせてきた歴史背景は、全く異なるものと受け取られ勝ちだが、実際には、欲しいという感覚は同じであり、それに更なる人間の手が入れられるかどうかに、違いがありそうに思う。旬が必ず美味しいか、と問われれば、すぐに返答することは難しいが、その時期、多く出回ることで、手に入れやすいという利点は、確かにある。これもまた、経済の考え方の一つに違いないのだが、どうも、そちらに目が向くことは少ない。安定した収入を確保する、という考え方が、何よりも重視される時代には、めまぐるしく変化する旬の存在などは、扱い難い存在となるのだろう。ふきのとう、たらの芽など、山に入らねば手に入らないものも、今や多くが人の手によって作られる。同じ味かと問われれば、既に昔の味を忘れてしまった人には、答えに窮することとなる。だが、さすがに小魚であるイカナゴには、人の手も及ばぬようで、春の訪れとともに店頭に並ぶ姿に、くぎ煮をせっせと作る人々は、目を輝かせる。

* * * * * * * *

3月15日(土)−学ぶ

 大学を卒業しても、職に就けない人の数が、弾けた後に急増したようだ。その後も、数は減ること無く、社会問題の一つのように扱われる。だが、この問題は、社会が抱えるものなのだろうか。個人の問題を、社会の責任と置き換える動きは、昔から様々に行われてきたが、これもまた、筋違いのものに見えるのだが。
 大学に進む理由のうち、最も大きなものは、就職の為となっているらしい。確かに、資格として要求されるのだから、当然の結果と見ることもできるが、逆の見方をすると、これほど馬鹿げた解釈は無い。学ぶことが優先された時代には、卒業後の進路を気にする動きは、余り大きなものではなかった。しかし、いつの時代からか、進学率が半分を超え、ある程度当たり前に受け取られるようになると、逆に、学びたいとか勉強したいという動機は姿を消し始め、その後のことを引き合いに出すことが増えた。職を得る為には、資格が必要という考え方は、大学卒業が当然となると、別の特徴を得ようとするものへと、変換し始める。それが、卒業後に、専門学校に通う人を増やす結果になったのだろうが、何故と思う人は多い。手に職を付けるという考え方による、との解釈もあるが、それなら、大学などへ行かずに、始めから専門学校に通えば良いのではないか。こんな意見を出すと、こちらの非常識を馬鹿にする声が聞こえてきそうだが、それによれば、大学に学んだという資格は、必要条件であり、そこに、専門性を高めることで、十分条件が加わると言われる。これでは、学校が就職予備校になってしまい、学び舎としての意味が無くなるとの意見は、時代錯誤と片付けられそうだから、今の世の中の歪みは、かなり酷い状況にあると言わざるを得ない。それにしても、学ぶことや勉強することに対する誤解は、これだけに限らず、世の中に溢れているようだ。言い返すなら、そんな非常識が罷り通る世の中は、お先真っ暗なのではないか。

* * * * * * * *

3月14日(金)−総括

 人それぞれの見方の違いを示すことは、多様性のある社会にとって、重要となる姿勢だろう。新しいことを始めるにあたり、各方面から寄せられた意見を集約し、より良いものを作ろうとする姿勢も、慌てて無理な施策を進めるより、確実なものと受け取られている。始める前に手を尽くすのは、当然のことなのだ。
 だが、始めてしまった後ではどうだろう。始める前には、利害が見えなかったことも、始めたことで、様々に影響が及び、各自それぞれに利害が噴出することとなる。だから、という訳でもないが、そんな中で、様々な見方を集約し、そこから答えを導くことは、かなりの困難を伴うのではないか。それぞれに利益は過小評価し、害悪は過大評価する。本来、均衡のとれた判断を下さねばならないが、進行形の利害が及ぶ中では、冷静な判断はより難しくなるものだろう。国立の組織を法人格に移行するという、法人化と呼ばれた施策は、様々に異なる組織を、それぞれに合わせた形で、独立させるという目的を持っていたようだ。これについて、始める前の検討が十分為されたかを、今更のように取り上げれば、殆ど全ての組織が不十分であったと判断されるのではないか。その中で始められた改革は、始めからかなり大きな問題を抱え、歪みが大きくなり続けてきた。自らの存続を図る為に、自助努力を強いられた結果、不慣れな広告に力を入れることにもなったが、それだけでなく、法人という括りが適切かを問う声も聞こえる。自由を謳歌できる仕組み、という歓迎の声は殆ど無く、単なる予算削減の方便に過ぎない、との声は大きくなるばかりだろう。何処に向かうかは未だ明らかではないが、教育に限ったものでさえ、中核にいた人々の総括は、何ともつかみ所の無いもののようだ。不十分な検討が招いた、不十分な理解の下では、十分な効果など、得られる筈も無い。

* * * * * * * *

3月13日(木)−護衛役

 総攻撃だけが特徴だった筈のネット社会は、随分と変化したようだ。多様な見方の存在は、社会の成熟度を測る指標とも言われ、幼稚な行動ばかりが目立つネット空間は、そこに巣食う人々の欲求の捌け口のようになっていた。特に、注目を集めた人々は、その欠陥を晒された挙げ句、禿鷹のような人々に貪り食われていた。
 喩えとして不適切かも知れないが、一度でも攻撃の的となった人々にとって、二度と近寄れない世界であり、姿を見せぬ相手に、不安を募らせた人も少なくない。だが、いつの頃か、一斉攻撃の最中に、別の見方を示し、一方的な攻撃が抱える問題を、指摘する人が登場した。それ以前には、攻撃対象自らが、反論を積み重ね、賛同を得ることはあっても、無関係な人々が、四面楚歌の中で、味方につくことなど、あり得ない話だった。ところが、最近の傾向は、少しずつ変化しているようだ。科学論文の捏造が疑われる中で、当事者たちは、自らの正当性を訴える為に、様々に手を尽くしている。その中で、代表たる人は、組織の方針の為か、はたまた、別の理由からか、表舞台から姿を消してしまった。そこで、心ある人々なのか、そんな振る舞いをする人々が、ネット上に登場し、頼まれてもいないのに、擁護に走っているらしい。確かに、謂れ無き疑いをかけられ、無実の罪を問われているのかも知れず、そこでの暴走は避けるべきと思えるが、果たして、この場での擁護が正しい選択なのかは、定かではない。そこでの発言は、これまでとは違う偏りを示しており、擁護一色となっていたことに、逆の意味で、ネット社会の未成熟を見る思いが過る。如何にも、物わかりの良い大人を演じる人々は、実は、何の確信も無く、擁護に走っているように見え、イジメを嫌っているだけに見える。もし、取沙汰されていることが事実ならば、嘘や欺瞞は、渦中の人々の中にあり、それぞれに責任を果たさねばならない。それを擁護することも、穢れを知らぬ子供の言動であり、褒められたものではないのだ。

* * * * * * * *

3月12日(水)−無垢

 一面トップに扱われたことに対し、疑義を唱えた人は多くなかった。一大事だから、というのが、その理由なのだろうが、その後の展開は、予想だにしなかったものとなった。論文の中身に、様々な問題が指摘され、実験的事実さえもが、怪しいものとなる。そのニュースさえ、一面に載り、撤回の文字が踊っている。
 始めから判っていたこと、などと、後付けの論理を展開するつもりは無い。しかし、馬鹿げたお祭り騒ぎにまで発展した話は、割烹着の話題など、研究そのものと無関係な、演出やら脚色を施されたものとなり、下世話な井戸端会議の様相を呈していた。知性の欠片も無い人々が、騒ぎに加わることは、こんな展開を招く。これほど自明な話も無いと思うが、耳目を集める為には、必要との判断を組織がしたのだろう。あれほど持て囃された人物も、この展開の前では、天岩戸に籠るしかないようだ。それにしても、と思うのは、いつものごとくの穿った見方だが、何故、撤回する必要があると、著者が騒ぎ立てるのか、という点にある。論文を書く際に、全ての責任を同等に負うことに、同意した筈の人々が、こんなことが起きるとは、と嘆くのは、余りに無垢なのではないか。仲間の信用を、との見解が、捏造を防ぐ為に必要との意見も、責任を果たせない人を前にしては、無意味なものとなる。撤回は、他からの検証により、自らが信じてきた結果に対し、疑義が唱えられた場合に、起こる話であって、自分たちが自らの信念に基づいて、発表した内容に、今更のように疑いを挟むのは、おかしなことと思う。論文撤回ではなく、続報として、どんな結果が正しいものだったのかを、議論する機会を得るのなら、まだ分かる話だが、今の状況は、仲間の期待や信頼を裏切る行為に対し、過剰な反応を示しているだけで、研究者としてあるまじき行為に思える。投稿当初、完全否定されたとの話も、こうなってしまうと、そちらが正しかったこととなる。また、別の細胞の研究者が、協力を申し出た話も、何だったのかと思える。人の道に外れた行為には、こんな反動が起きることに、気付かぬとは、余りに無垢すぎる話だろう。

* * * * * * * *

3月11日(火)−暗闇

 突然の停電、そんな時何をするだろうか。誰もが配電盤を点検に行き、ブレーカーが落ちていないかを確かめる。多くの場合、それぞれの配線に流れる電気の量が決められており、それを超えれば、切る仕組みが働く為だ。昔は、ヒューズと呼ばれる部品が使われ、切れる度に新しい部品を繋ぐ必要があった。
 電流の大きさにより、部品の中の金属が溶ける仕掛けだが、これでは、停電の度に、電気店に走らねばならなくなる。その面倒を無くしたのが、ブレーカーなのである。昔から、一つ一つの回路ではなく、家全体には一つの装置が使われていたが、小さなものは経費の問題からか、余り使われていなかった。今ではごく当たり前のものとなっているから、ヒューズの時代を知る人も少ないだろう。さて、停電の話。今回は、どのブレーカーにも異常がなく、少々こじれそうな雰囲気となった。家屋内の問題を疑うのが始めだから、電気店に依頼したら、早速やってきて点検してくれた。配電盤に、電気が流れてきていないとのことで、初めて聞く話だ。電力会社に連絡すると、夕方遅くにも関わらず、点検に来た。原因は、電柱の変圧器から、各家庭に引く部分にある「ブレーカー」が壊れたとの話。30年くらいが寿命とのことで、交換したとの説明だったが、少し釈然としない部分も残る。先日、別の家庭への引き込み線を付け替えた時、何かあったのでは、との疑いが浮かんだからだ。まあ、いずれにしても、また30年は問題が起きないそうだから、安心という訳。生きているかは定かではないが、その間、心配無用となれば、よしとするか。

* * * * * * * *

3月10日(月)−忘却

 忘れないことが、それほどに大切なのだろうか。歴史上の出来事は、次々に起こり、積み重なるばかりで、それらを忘れずに、となれば、かなりの負荷となるのではないか。教訓は重要だ、という意見に反対するつもりは無いけれど、何故、忘れさせないようにするのか。理解に苦しむ点が沢山ある。
 確かに、覚えておけるのなら、そうすれば良い。しかし、学校での不勉強を思い出せば、そんな無理を押し付けられた時、どんな思いを抱いたか、わかるのではないか。記憶に残るのは、強い印象の為であり、その働きを受けなければ、誰もがすぐに忘れ去ってしまうのが、普通のことだろう。また、記憶容量の問題から言えば、その制限がかかる人にとって、覚えておけという命令は、かなり厳しい課題を突き付けることとなる。だが、今の世の中は、どういうわけか、忘れないことが重要となり、毎年、その日が来る度に、そんな話が画面に流れる。時には、多くの人が経験したことのないものへの記憶であり、何処までが真実で何処からが虚構なのかさえ、はっきりしないことが多い。それでも、語り伝えることこそが、人々の義務であり、忘れないことが、先人達への弔いへと繋がる、と言われれば、反論しにくいものだろう。たとえ、ごく最近のことでも、覚えていたい人も、忘れてしまいたい人も居るわけで、その選択の自由を奪う権利は、誰にもない筈だろう。にも拘らず、こんなことが繰り返されるのは、何故なのだろう。何か、本当に大切なことが、理解できていないのだろうか。

(since 2002/4/3)