彼岸と聞いても、ピンと来ない人が増えた。墓参りは面倒との声も大きく、特に、親の田舎にまで出かけるとなると、遠すぎることもあり、他の行楽地に、と思う若い世代は多いのではないか。そんなご時世には、墓守は大きな負担となるから、そんな場所は要らないと思う人も増え、墓自体を持たない家族も増えた。
とは言え、いざその日を迎えてみると、田舎町に他県ナンバーを付けた車が走り、花屋の前には車が止められ、狭い道の行き来は難しくなる。何処から現れたのか、と思える程の数だが、こんなご時世でも、墓参りの人はまだまだ多く、亡くなった親やご先祖様に会いにくる。こんな表現も、非現実的と指摘され、馬鹿にされることが増えたが、まだまだ、先祖を敬う気持ちは消えていないようだ。今の自分があるのは、どう考えても、先祖が居たからであり、自分の力で、今の自分の地位を築いた人でも、先祖のお陰との気持ちを、少しくらいは持つのではないか。そんな気持ちの現れが、必ずしも、墓参りには繋がらないものだが、それでも、この季節には必ず、という人が居るのだろう。毎年、花屋の前の車は必ず見るし、墓の並ぶ寺の周辺にも、車の数が増えて見える。この習慣を、大切なものと見るか、それとも、下らないものと見るかは、人それぞれの考え方だが、この国の伝統として、守っていくのも一つの選択に思える。確かに、子供たち、孫たちの迷惑にならないように、との心遣いもあり得るが、迷惑とは何か、という思いも過る。上に書いたように、先祖無くして自分の存在が無いことを考えると、何らかの関わりを持つのも、一つの方法に思えてくる。
行方不明になった飛行機、憶測ばかりが飛び交い、未だに見つからないままのようだ。様々な方面から、地球上の出来事が見守られているにも関わらず、全てが明らかな訳ではないことを、今回の事件は、人々に知らせることになったのではないか。一人の人間の動きさえ、追跡できるとの話からは、あの大きさのものが何故。
技術革新は、様々に展開し、個人の秘密を守ることは、難しいとまで言われていた。だが、個人どころか、人工物の中でもかなり大きい部類のものが、ある瞬間に消えてしまった話は、逆の驚きを持って流されている。あんな大きなものが、自らの意思で、監視体制から逃れることができる、などという話は、他の飛行機から見れば、危険極まりない存在となる。それでも、大型飛行機には、衝突を避ける為の仕組みが備えられており、危機回避に必要となれば、飛行士の操作をも無効にするとのことだ。上空での空中衝突の危機については、時に伝えられることがあるが、ある事故に関しては、機械の能力による回避が、最終決断として使われたと言われた。当時は、まだ、人間の判断力が機械によるものを上回ると信じられていたが、この報告は、それを神話に過ぎないものとした。この事情が再び注目されることとなったのは、自動車への事故回避装置の装備からだろう。追突を防止する装置は、既に市販車に装備されているが、更なる仕組みとして、車線変更までやってのけるものが紹介されていた。愈々人間の関与が少なくなり、そろそろ自動運転が、とまで言われているが、最大の存在となった企業は、珍しくその話題に触れていないように見える。実は、追突防止でも、走っている全ての車に装備されれば、余り問題とならないが、一部に限った場合、別の事故を招く可能性が高い。更に、急激な車線変更となると、周囲の車への影響は、大事故を招くかも知れない。そんな観点からか、暫く静観する姿勢のようだが、これも考え方の一つなのだろう。
周囲が海に囲まれていることから、島国であることは明らかだが、そこに住む人々が全て、島国根性の持ち主かと問われれば、否と答えるしかない。一つには、この根性が否定的な意味で使われることが多く、悪い印象しか抱かれないからだが、そこにあるような、狭量で排他的な、という解釈が的確なのだろうか。
それより、単一民族からなる国だから、という理由で、画一的な見方や協調性を強調する意見もある。いずれにしても、余り良い印象を与えないが、卑下することにより、他を立てるという意識が、こんな考え方を定着させてきたのだろう。狭い世界に生きることの息苦しさが、一時盛んに取り上げられ、それが、田舎を脱出し、都会へと進出した人々の動機との解釈が、さも真実のように扱われたが、島国との分類からすれば、田舎だろうが、都会だろうが、島の中に留まることに変わりはなく、考え方が急に変えられる筈も無い。要するに、周囲からの圧力を避け、勝手な生活を送りたいとの思いを、実現しただけに過ぎず、孤立し始めると、また正反対の考えを抱くのも、身勝手な思考の現れなのだろう。他人との比較ばかりを気にした挙げ句、心を病む人が出てくるのも、自分の考えが不確かな為だろうが、これも島国たる所以、となるのかも知れない。悪い点と思うからこそ、何とか改めたいとの考えに囚われ、努力する人も居るが、見方次第で変わることを、気に病んでも仕方ない。同じ機関に属する研究者の、画期的な研究成果を羨んだら、その背景に、事実を歪曲させた作為の存在が指摘され、人格否定に及ぶ事態に至る中で、自分までも否定されたと思う人も居るかも知れない。流石に、自己表現としての研究に携わる人間が、そんな下らない考えを抱く筈は無い、と思うが、どうか。島国には、こんな人間性も、典型と見なされるのか。
競争は、健全性への唯一の道かのように、扱われてきた。競い合う世界では、競争が当然であるにも関わらず、新たな競争が採り入れられたのは、何故なのかは定かではない。だが、競い合いに必要となる資金を、どう分配するかについて、順位付けを施した上で、決めていくやり方は、今やごく当たり前となった。
不思議に思えるのは、新しい発見を競い合う世界に、更なる競争を持ち込む必要が、何処から来たのかという点だ。従来、ある程度の基礎的な資金分配を施した上で、更に上乗せを必要とする人々が、競争に加わるという形式で行われてきたものが、基礎を殆ど無い状態にすることで、誰もが全て、強制的に参加させられる形式へと転換してきた。分配に与る役所は、資金の適正な運用の為と説明するが、何故、基礎を厚く分配することより、競争が適正と見なせるのか、納得できる説明は得られていない。何もしなくとも手に入れられる状況では、切磋琢磨が必要とならず、現状に居座り、安閑とするだけの人々の存在が、許されることになる、というのが彼らの論理だろう。だが、これをやりすぎれば、じっくりと取り組む姿勢をも排除し、無駄の一言で、折角の才能を摘み取ることに繋がる。これまでも、この類いの議論は様々に為されてきたが、一方で、競争を勝ち抜いた人々の、異常な行動に対する批判は、余り取り上げられてこなかった。しかし、最近話題になっている女性研究者だけでなく、この所、種々に取り上げられている研究上の不正は、実は競争による弊害とも言えるのではないか。規則に厳しい世界では、不正は許されないと信じる人が居るが、どんな世界にも不正は蔓延る。それを防ぐ手立ては少なく、構成員自身の倫理に頼るしかない。外道たちに、競争の機会を与えた結果、こんなことが起きたとしたら、何が悪かったのか、明らかなのではないか。
子供のような言動を繰り返す大人の存在に、社会は振り回され続けている。意見を伺われるべき存在でさえ、余りに稚拙な表現と、余りに無知な言動に、呆れ返るしかない時代には、こんなことが当たり前となるのだろう。自らの行為を反省することなく、ただ、一方的な批判のみを繰り返すのでは、駄目なのだ。
それにしても、自分の意見を通す為に、倫理も道徳も無いというのは、いかがなものか。法治国家である以上、秩序を守る為の最低限の事柄は、当然の如く存在する。にも拘らず、自らの欲望を満足させる為には、何の拘束もないと考えるのは、一体、どんな心理によるものだろう。気が違ったとしか思えない人々が、毎日のように紙面を賑わせ、報道番組の大半を占めるようになると、この国の行く末を危ぶむ声は大きくなるばかりだが、その割に、危機感はさほど大きくないように思える。重大な事件との見出しも、誇大広告に似た様相を呈し、他人事のような振る舞いを続ける評論家たちには、食い扶持を減らされる心配はない。彼らの下らない主張ばかりが、メディアを賑わすのに対し、一般大衆にとっては、たとえ、自分が有用と信じていたとしても、それを世に問う機会は得られぬままとなる。これほどの不公平は、あり得ないと思う心に、何か注目を浴びるような行為を決意させる機会が訪れたとしても、それに抗う力を持ち合わせる人は少ないのだろう。一方的な破壊行為を繰り返し、それを正当化するような論理を展開する人は、自らが属す社会に対し、貢献する手段も気持ちも持ち合わせていない。そんな暴挙が許される筈もないのに、正当と見なせる心の持ち主は、やはり、心が傷み、壊れてしまったとしか、言い表しようのない状態になっているのだろう。
信用とか信頼という言葉に、どんな印象を抱くのだろう。人に裏切られた経験の無い人は、おそらく居ないと思うけれど、それがすぐに、信じられないことに繋がる訳ではない。だが、世の中には、そんな極端な反応を示した話が溢れ、信じることの難しさを表すと言われる。信用無しに生きるのは、もっと難しいのに。
それにしても、信じる側に回った時の悩みばかりが、取沙汰されているが、信じられる側の悩みは、余り触れられることが無い。信用や信頼を勝ち取る為の秘訣に関して、時に話題となることがあるけれど、多くの人は興味を抱かないようだ。騙されるということに、危機感を抱くことはあっても、騙すことには興味を抱かない。そんなことを、自分がする筈が無い、と思っているからなのだろうが、自分がするかどうかとは無関係に、騙されないようにする為に、騙すことについて知っておく必要があることに、何故気付かないのだろう。疑い深い人の扱いに窮した人は、多く居るだろうけれど、一方で、そんな人が、いとも簡単に騙されるのを見ると、理解に苦しむこととなる。人に対しては信用しないのに、何故か、メディアを通した途端に、信じてしまう人々の多くは、そんな目に遭うことが多いようだ。大切な子供を預ける先について、メディアの評判を気にするのに、対面で人の信用を見極めようとしない。こんなことで、何かが起きたとしても、その責任は、社会やメディアだけでなく、自分にもあるのだ、ということに気付くだろうか。この事例もまた、被害に遭った人を擁護する方向に、話が進むのだろうが、それにしても、相変わらずの不思議に見えるのは、こちらの感覚が鈍ったせいなのか。
教わっていない、という反論が通用するようになったのは、いつの頃か。そんな馬鹿げた言葉は、今も通じないという人も居るだろうが、一部の若者達の間では、当たり前の言い分らしい。それにしても、寛容な時代には、何事も受け身で事が済み、積極的に学ぶ姿勢は目立たなくなった。豊かさが、間違った方へ進んだ結果か。
教えることと学ぶことは、一方的で済むものではなく、双方が関わることで成立するものだろう。当然とは言えぬまでも、以前ならば、そんなことを敢えて指摘するまでもなく、皆が理解している雰囲気があった。ところが、いつからか、身を乗り出すことを忘れ、興味を抱くことも無くなった人々が、世の中に溢れ始めると、互いの関係などは成立することなく、一方的な要求のみが目立つようになる。つまり、教える方はその気になるだけで、相手がどんな反応をするかに、目を向けなくなり、学ぶ側は、知らないことを恥とは思わず、知ることの喜びに触れぬままに、言い訳に使える論理のみを身につける。これでは、相互に作用すべき関係は、骨組みだけで、肉が付くことなく、当然、中身を伴う形になる筈もない。そんな世の中になれば、無知は恥知らずとはならず、教えなかった人間に責任が押し付けられる。その責任が全くないとは言えないだろうが、では、何が大切かを自分なりに考えること無く、見せてもらった姿のみを理解した振りをする人間どもには、何の責任も無いのだろうか。そんな筈も無く、そんな状況を放置していい筈も無い。にも拘らず、訳知り顔の大人達が牛耳る現代社会は、無意味な寛容さを強調し、罪多き人々を野放しにする。善悪の区別無く、好悪のみで様々な判断を下す。これでは、論理もへったくれも無いのだが、それこそが、最善の手法とされては、真面目な人は戸惑うばかりだ。許してはいけない行為をした人間に、厳しくあたるのも当然のこと。それを忘れた人々には、正当な判断は無理というものだろう。