パンチの独り言

(2014年3月24日〜3月30日)
(失礼、歪曲、増税、コピペ、責任、矮小化、見識)



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3月30日(日)−見識

 責任、責任と連日書いていると、まるで、自らのものを棚に上げて、他人を批判する、あの人々の如く、卑賤な言動を繰り返しているように、見られてしまうのかも知れない。しかし、世の中の身勝手な意見の氾濫に、毅然とした態度を示し、間違いは間違いと厳しく反論する必要がある。他人事では、済まされないのだ。
 大きなものと小さなもの、何故、このような比較が必要なのか。それは、力関係を示すもの、との思い込みがあるからだ。確かに、地位を考えれば、そこに力の大小があることは、当然と見なせる。だが、個人の成果や業績において、この比較が意味を成さないことに、気付かぬ意見の氾濫は、百害あって一利無し、の様相を呈している。研究所内で起きた不祥事に関して、特定個人を擁護し、組織に責任を負わせようとする風潮は、今回の事件に関しても、強まり続けているように見える。だが、そこで展開される論理には、根拠の無いものや風潮そのものを頼りとするものが殆どで、検証の必要さえ感じられない。研究の成果は、常に個人に帰するものであり、その為の場や資金を提供した組織には、直接の寄与は無いものとされる。このことに、反対する人は居ないと思うが、その同じ人が、不正が取沙汰された途端に、組織の寄与、あるいは責任を、当然のものと見なすことに、疑いを持たぬのは何故だろう。そこには、連日取り上げてきた、強いものへの反発があり、論理の欠如に気付かぬ程、根深い恨みに似た感情があるようだ。論文の内容における成果も不正も、その責は著者に帰され、功績を讃えたり、不正による処分を下すことにだけ、組織は関与できる。それをどう捻くり回すと、世間の批判のように、長の辞任へと結びつけられるのか、全く理解できない。もし、組織の関与があったとすれば、それは、あの馬鹿騒ぎを誘発した、広報にこそある。誇大広告に似た演出に、違和感を覚えた立場から言えば、あそこには組織の責任が確かにあった。その点にだけ、謝罪が必要となるのである。となれば、次は、一面トップに扱った、不見識を恥じる態度を、あの人々も示すべきではないか。

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3月29日(土)−矮小化

 社会が腐っているとの声が、小さくなることは無いようだ。うまく行けば、個人の力、うまく行かねば、社会のせい。この図式は、便利なものとして使われる。確かに、ちっぽけな人間にとって、何もかも、自分の責任とするのは、難しいことだろう。だが、それを受け止めなければ、小さいままに終わることも、確かだろう。
 小さな存在だから、大きなものに責任を転嫁する。そんなことを繰り返したとて、何の変化も訪れない。そして、そのまま、ちっぽけな存在で終わる。それでよければ、それでよし、となる。そんな人々に、手を差し伸べる必要は、無いと思うが、どうだろう。優しい社会を作りたいと思う人にとって、これは重要な決断のようで、小さく、弱い人々を救うのは、自らの役目と思っているらしい。だが、その手が、何を産み出すのか、彼らの考えは及ばぬらしい。感謝の言葉を口にした人々が、その後、どんな変貌を遂げたのか、気にならない人にとって、貧しい社会が、そのままであることの方が、ひょっとしたら都合がいいのかも、などと、下らない考えが過る程、不思議な遣り取りが為される。社会を標的とするのは、より大きな存在に、自分の弱みを押し付けるからだが、それによって、何が得られるのか、全く判らない。同じように、個人という存在より、組織にこそ、責任があるとする考え方にも、同じような安易が感じられ、首を傾げたくなる。何でも、大きいものに、という考え方では、自分の存在を大きくすることは、不可能となる。何故、こんな考え方が世に蔓延るのか、理解できないのは、こちらの見方が間違っている為か。そんなことは全く思っていないが、社会がそうなのだから、という考えの人には、納得できる考え方なのだろう。

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3月28日(金)−責任

 責任の話は、既に何度も書いてきた。だが、世の中の愚者たちは、その意味を解する力も持ち合わせていないようだ。愚かと書いたのは、何も、貧困状態にあり、まともな教育も受けられなかった、という意味ではなく、最高度の教育を受け、社会的地位も得て、十分な収入もある人が、馬鹿げた発言を繰り返すからだ。
 個人主義が台頭しようが、なかろうが、責任は常に個人に帰するものだ。組織の為、と称して、違法行為を繰り返した人間が、責任を逃れようと奔走するのは、その典型だが、やったことの責任には、何の変化も得られない。情状酌量などという言葉が、飛び交うことも度々あるけれど、何を汲み取らねばならないのか、全く判らない。組織に属するものが、組織の利益を追求することは、ある意味当然のことだが、それが間違った方に向かうのなら、その修正を図ることが、組織の利益になるのではないか。内部の話を、外に向かって暴露することを、修正と信じる人も居るが、これもまた、一種の責任放棄と見なすべきだろう。一方、小さな人間たちは、自らの愚行の責任を、社会制度などに転嫁するのが、常となっているようだが、これも、同じ見方を当てはめれば、如何に愚かな行為かが、見えてくる。恵まれぬ境遇を前面に出し、それに陥った責任を、社会に負わせた挙げ句、自らの存在を正当化しようとする論理には、歪曲以外に当てはまる言葉は浮かばない。それ以上に、この病を重いものとしているのは、指導者として活躍する人の一部が、優しさの現れの一端として、こういう人々に理解を示す行為で、優勢にある立場から、傲慢な考えを撒き散らしていることにさえ、気付かない姿だ。組織と個人、この力関係を、どう取り違えたら、こんな論理が通用するのか、説明させても、ろくな答えは得られないだろう。

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3月27日(木)−コピペ

 一度欠点が露になると、次々と悪い点が明らかになるのは、何故なのだろう。要するに、不正を働く人々は、悪行を重ね、ただ一つの悪事だけでなく、幾つも繰り返すということではないか。ただ、暴露前には、誰も注目せず、数多あったとしても、発覚しない訳で、露呈した途端に、次々に暴かれるだけのことだ。
 犯罪でも、こんなことが度々知られる所だが、犯罪とは呼べないまでも、倫理や道徳に反する行為についても、同じようなことが起きている。職業上の問題として、新聞記者の剽窃は、時に話題となるが、専門性を高める時期の、同様の行為に関しては、様々な見方があるようだ。十分な知識を備えないままに、評論を進めることを強いられることは、この時期の課題として、よく見かけられるものだが、その作成過程で、関係文書を書き写すことは、発達段階に応じて、許容される場合がある。知識を吸収する段階として、そっくりそのままに写すことから始まり、徐々に、自分なりの構成へと移行し始める。始めから、模写を禁じてしまうと、不十分な知識を補う手立てが見つからず、課題全体の水準の向上は見込めない。一つ一つの知識は借り物でも、全体の構成に、独自性が構築されれば、更なる向上が期待できる。その点を考慮に入れ、一時的な許容を適用する訳だ。当然、その後の展開は、強い変貌への意志を伴い、増大した知識を基に、独自の組み立てを実現し、専門性の獲得へと繋がる。昔なら、書籍からの転写が唯一の方法だったが、今や電子化された情報の移動のみで済ませることができる。この便利さが、気軽へと結びつき、独自に繋がる努力を、無駄なものかのように思わせる。だが、文書は自他の区別が明確なものであり、それを軽視するのは、専門性の欠如と見なされる。記者の剽窃に、厳しい目が向けられるのは、当然であり、他の職業においても、同じ感覚が通用する。見過ごされたから良いという考えは、倫理からかけ離れたものだ。

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3月26日(水)−増税

 税率の変更が迫ってきた。消費自体にかけられる税だけに、各所で対策が練られているようだ。既に、本体価格という形で表示するのが、当たり前となっている製品は、計算式を変更するだけだから、機械任せの状況では、大きな変化は無いが、前回の変更時に対応をしなかった製品に関しては、今回が初めてとなる。
 前回との大きな違いは、今後の変更が織り込まれていることで、税率の更なる上昇に向けて、対策を進めておく必要があるとのことだ。更に、端数を取り去るやり方が、釣り銭との関係から、実行されていた業界にとって、電子的な金銭処理が、前回の変更後に整備されたことから、買い方による違いが表面化することとなった。公平とは、何を意味するのかを、考え直す機会となったようだが、実際には、決算方法が違うという点で、押し切られたようだ。こんな騒ぎの横で、給与の基準価を上げる政策は、強く押し出されてきたけれど、所得にかかる税金に関する改定は、殆ど議論されていないようだ。以前なら、所得が増え続けることが約束され、それに連れて、税収も増え続けてきたのだが、頭打ちになったことから、別の税源が検討され、今に至っている。だが、長い期間抑えられていたものが、少し変化を見せたことから、今一度、所得にかかる税に関して、考えていく必要がありそうだ。それとの関係もあるのか、女性の進出を促す政策も、実は、配偶者控除の適用を減らす為との解釈もある。企業の収益に対するものも同様に、検討が為されているようだが、全体として、何処に向かおうとしているのか、はっきりとしない点が、気になる所だろう。

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3月25日(火)−歪曲

 個人主義とは何なのか。答えを出せずに苦しむ人も居る。だが、その一方で、都合良く捩じ曲げ、自分たちの主張のみを押し通そうとする人々は、活躍の場を見出し、事実の歪曲に精を出す。成果は個人の功績とし、失敗や誤りは組織の責任に帰する。過去の事例を否定する為とは言え、余りの極端に驚かされる。
 組織の寄与は金銭的支援に限られ、個人の能力のみが鍵となるのは、研究開発の場の特徴だが、そこでも、個人と組織のご都合主義が蔓延り、勝手な言い草が横行するのは、何故なのだろう。研究上の成果が、個人に帰するものであるのは、歴史を振り返る必要も無いくらい、明らかなものと思うが、まともな神経を持たない人たちは、そんなことは微塵も感じないようだ。世紀の大発見をしたと報じられた人物に関して、その後の悲惨な展開は、本人も含め、想定外だったようだが、どんでん返しとも見える展開の中で、人々の意見の迷走ぶりは、はしたなさや知性の無さを、強く印象づける。最高級の賛辞として使われたのは、ある科学賞確実との意見だが、その根拠はいつも通りに薄弱であり、評価を下す気配は窺えない。その後もうなぎ上りとなった評判に、異様な扱いの一方で、その根拠が明らかとならないことが加わり、一部の人々の疑いを強める効果が強まると、綻びが徐々に明らかとなってきた。剽窃、捏造などの言葉が踊る中、研究成果は疑わしいものと扱われ、個人の功績は。正反対の評価を受ける結果となる。個人批判が、いつの間にか人格否定へと繋がる展開は、いつも通りだったようだが、そこに横槍を入れた人々は、人格否定を否定しようと、その罪が、恰も組織や教育体制にあったかのように論じる。異様と思えるのは、その論法であり、研究成果は個人の功績でも、そこで起きた不正は体制の責任とするものは、個人主義を歪曲させるものに過ぎず、身勝手な考え方にしかならない。こんな代物を自信たっぷりにブログに書いたり、画面で滔々と述べる人々に、知性の欠片さえ無いと言ったら、有識者と称する人々は、この世から居なくなってしまうかも。

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3月24日(月)−失礼

 礼を失することを恐れる人は多い。その割に、失礼千万という行為に出合うことが多いのは、何故だろう。過度な緊張に潰されそうになりながら、不慣れなことを行うと、何かしらの失敗をすることが多い。こういう人の失礼を思い浮かべる人も居るが、現実には、大の大人の失礼の方が、出合う確率は遥かに高い。
 電車の乗り降りでも、都会に住む人には理解できないかも知れないが、乗り降りが激しくない田舎では、寒い季節には、扉の開け閉めを乗降客に任せる所が多い。手で押し開けるのもあれば、ボタンを押すものもある。折角の仕組みなのだが、最後に使った人が閉めなければ、寒気が車内に入り込むことになる。乗り込んだ人が放置するのは、自分にも影響することで、理解に苦しむ所もあるが、そのまま降りていく人の場合、何となくだが、失礼といった感覚が残る。同じ電車の話題で、電車待ちの列に割り込むのは、社会的な規則を破るもの、と言われているが、気にしない人も居る。降りる人を待ってから、という感覚も、礼儀の一つと見なされるが、我先に飛び込む人は、後を絶たない。その気満々で扉の向こうにいる人の行く手を、鞄で阻止したこともあるが、凄い形相で睨む姿に、卑しさばかりが感じられた。食事をする場所では、列を作らせる所もあるが、順番表に書き込ませる所が多い。流石に、前の人の名前を消すような人は居ないから、そこまでの失礼は無いようだが、長蛇の列に、一度は書き込んだものの、諦める人は少なくない。ただ、立ち去るだけで、何もしなければ、居る者として残る。この場合に、自分の名前を消すのを礼儀と見るかは、人によるだろうが、客数を限定する店の場合、そこから先はお断りとなるのを見ると、立ち去った人の数はどうなるのか、気になるものだ。気にしない人には、こんなことも関係ないだろうが、楽しみに訪れた人にとっての落胆は大きい。

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