パンチの独り言

(2014年3月31日〜4月6日)
(共通、自己欺瞞、無駄、拘り、反虐待、幻想、花見)



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4月6日(日)−花見

 これほどに、花を愛でる国民は居ないのでは、と思いたくなる程、この季節の人出は、花見という催しに、一斉に向かう。花を愛でるという意味では、庭を整えたり、花を飾る習慣を持つ国も、沢山あるのだが、それをある程度自然任せにする、といった感覚が、この国が持つ独自のものと思われる。豊かな自然の恵みだろうか。
 散り方が国民性に合致している、との意見もあるけれど、どうかと思う。別に、散り際を楽しむだけでなく、開花から、徐々に花の色が豊かになり、里山の色が変わるまでになるのを、楽しむ人も多い。葉の色に邪魔されず、花の色だけが木々を飾るのは、一部の種類に限られたものだが、それを好む傾向があったのは、今の桜並木の情勢から、すぐに判ってくる。その種類を中心に、話題が進められているのは事実だが、それ以外のものも沢山あり、年が改まる頃から咲くものから、今を盛りというものまで、種々あることに気付くと、楽しみ方も色々という気がしてくる。中でも、河津と呼ばれる種類は、梅の花と同じ頃に開き、その色の濃さからも、人気を博している。平均や共通といった感覚が、重視されてきた時代から、独自を前に出す時代へと移ったことから、各地に昔から植わっていたものを、復活させようとする動きがあるようだ。河津桜で有名な地域の近くにも、独自のものがあったらしく、今はそれを増やそうとする運動の最中と聞く。花より団子の人には、新鮮な魚介類に目が向くかも知れないが、昔は温泉街として名を馳せた地域も、泡が弾けた頃から衰退の一途を辿り、嘗ての繁栄の姿は見えなくなった。その為もあるのか、当地固有の桜を復活させ、それを愛でようという気持ちが、地元民の中から生まれたとのこと。それが並木を飾る頃には、観光地としての地位も、甦っているのかも知れない。

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4月5日(土)−幻想

 友達が欲しい、と願わぬ人は居ないだろう。だが、その願いが叶うかどうかは、はっきりしない。特に、若い頃には、節目節目で新たな人との出会いがあり、その度に、願いを叶える機会が得られる。しかし、安定しない立場では、互いに擦れ違うことも多く、友達と呼べる関係を保つことは難しくなる。
 そんなことを繰り返す中で、人間関係が徐々に築かれ、その中には、安定したものも出てくるだろう。だが、それらが全て友達の関係か、と問われると、答えに窮してしまうのではないか。確かに、安定した関係であり、何かと話し合う機会を持てるのだろうが、友達か、と問われると、少し違う感覚を抱く。そんな所から、様々な悩みが続くのだが、若気の至りとも言える、こんな反応に、問題は無いのだろうか。悩みが深くなり過ぎ、抜け出せなくなる人は、増え続けていると言われる中で、友達の存在そのものに、疑問を投げかける書籍が、出版されている。以前紹介したものは、緩い友人関係を批判するのが主目的で、成功者の奢りにも似た内容に、価値を見出せなかったが、最近読んだものは、ここで取り上げているような問題に目を向け、若者の悩みに寄り添うような内容となっていた。だからといって、すぐに役立つものかと言えば、実は、そうでもない。確かに、問題提起としての価値は、十分にあると思えたが、当事者たちへの投げかけとして、効果が期待できるかとなると、難しいように感じられた。問題の指摘は、的確に思えるが、一方で、そこからの解決については、著者自身にも迷いがあり、それが若い読者の戸惑いに繋がる気がした。昔なら、悩め、の一言で済んだものが、最近は、放置できない事情も多々あり、手を差し伸べることが多い。だが、差し出された手が、何本もあると、どうしたら良いものか、判らなくなる。いずれにしても、友達なんて、幻に過ぎない存在であることは、確かなようだ。

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4月4日(金)−反虐待

 優しさを取り違えている、としか思えないような言論が、ツイッター、フェイスブック、ブログといった新しい媒体に、流されている。齢を重ねた人の発言は、多くが、良い人でありたいとの思いが現れたもので、実は、倫理観や道徳観の欠如が、最大の要因なのではないか。人の道に外れた良い人、とは何だろうか。
 そういう年寄りに、今更贈る言葉は無く、表舞台から降りることを願うのみだ。ただ、新媒体は、こんな不見識を垂れ流すことに、最適なものとなっている。一方、一見同じように見える、若者による「優しさ」には、全く別の要因が関わっているのではないか。聾者の作曲家として、マスメディアを始めとして、社会が挙って天才と祭り上げた人物に関して、実際に作曲した人物が名乗り出て、全てが虚構だったことが発覚した後で、褒めちぎっていた人々は、裏切られたことに憤るだけでなく、痛烈な批判を浴びせかけた。持ち上げていたマスメディアは、同じような言動も繰り返していたが、従来と違った反応も示し、誤った情報を流した責任を、詫びる文章を掲載した。これに対して、若者たちの反応は、少し違っているように見える。曲の良さは変わらない、という反応は、ある意味当然のものであり、何の違和感も抱かないが、件の人に対する反応が、憤りより優しさに似たものに感じられるのだ。同じ事は、不正を働いたとされた研究者に対しても、起きている。倫理や道徳といった感覚が、十分に成熟していない為もあるが、重要な要素は、学校内で起きているイジメから来ているのでは、と思える。罵声を浴びせることに、過剰反応を示すのは、校内でのイジメやシカトと呼ばれる行動の、一人に対する集団の反応を、思い起こすことから始まっているのではないか。集団による個人への行動、という括りで見れば、確かにその通りだが、その原因となるものの正誤に目を向けず、表面的な動きのみを捉える姿勢には、「優しさ」の仮面を被った、不実が見えているように思う。演技は舞台の上だけにしてはどうか。

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4月3日(木)−拘り

 税金の騒動に隠された訳でもなかろうが、影響が大きい筈なのに、余り話題とならなかったことがある。こういう所を読む人の大部分が使っているものの話だが、それぞれに最新の商品を買って済ませたのだろうか。パソコンと呼ばれるものは、そのままではただの箱に過ぎず、正常な機能を果たす為に必須のものが要る。
 OSと呼ばれるものに、興味を持ったことの無い人も、今回の変更には、対応を余儀なくされたのではないか。組織によっては、古いものの使用を禁止し、全てを新しいものに変更したようだが、増税とは比べ物にならないくらい、大きな買い物を強いられたようだ。理由は、支援の有無にあるとのことだが、このOSは、前からこんなことを繰り返し、不評が広がっても、占有率の高さから、押し切ってきた。だが、ここに来て、そろそろ、その優位も揺らぎ始めているようだ。動かす為のものには、実体がある訳ではなく、電気信号に似たものが組み込まれれば、それで済む。箱の製造は、別の企業に任せて、という戦略は、これまで、何の問題も無く、繁栄を築いてきた。だが、ネットの整備に乗って、勢いを付けてきた新興勢力の一部が、動かす為の道具だけでなく、それを載せるものにまで、手を伸ばし始めると、様相も変わらざるを得ないようだ。従来の競争相手は、頑に一体方式を保ち続け、愛用者たちからの信頼は高い。手を広げ過ぎないことで、築いてきた優位が、ここに来て、揺らいだ原因は、比較対象が増え、魅力に翳りが見えたことだろうが、今更、戦略を変更できるようには見えない。何より、この戦略で、巨人と呼ばれた企業に、業界からの撤退を決意させたことへの拘りは、失うものが大きくとも、簡単には消し去れないのかも知れない。

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4月2日(水)−無駄

 案の定、混乱が起きた。ずっと前から判っていたのに、当日になった途端に、不具合が発覚する。まるで、銀行の統合の時の、あの騒ぎに似ている、と思った人も居るだろうが、一方で、電子決算とは無関係で、現金決算なのだから、手計算で売ってくれれば良いのに、と思った人も居るのではないだろうか。
 銀行の混乱は、データ処理が主体となり、実際の金の動きではなく、単なる数字の操作に過ぎないものが、肝心の処理が滞った為だったが、あの時も、予行演習の不徹底が、厳しく糾弾された。大規模なものが起きた後も、同じ企業が同じような障害を引き起こしたことから、企業体質の問題とまで言われたが、一方で、試すことの難しさを指摘する声もある。今回の騒ぎも、同じように、試行が不十分だったことから起きたのだろうが、消費者にとっての不思議は、商品がそこにあり、店員がそこに居るのに、何故売ってくれないのか、という点にあったのではないか。特に、生鮮食料品は、足が早いと言われるだけに、折角きれいに陳列されているものが、無駄になってしまうのは、理解できないという訳だ。だが、多数の店舗を抱える組織では、その情報管理が必要不可欠と考えられ、少しの無駄を無視してでも、回復に全力を挙げるべき、という思惑があったのではないか。何がどれだけ売れたかを、記録として残すことは、消費傾向を知る為の重要な手立てと言われる。その為の記録を取らねば、という考えが優先されれば、そこに品があり、金があったとしても、売ってはいけないとの結論になるのではないか。まあ、確かに、そんな見方もあるだろうが、無駄は無駄である。ただ捨てられるだけのものが、そこに並んでいる光景に、変だと思わない方がおかしい。混乱の問題解決も、重要な課題には違いないが、ごく当たり前の考えが適用できない仕組みを、考え直す必要は無いのか。値上がりに不満を口にする人は多いが、その陰で、大きな無駄が生じていることに、誰も不満を口にしないのだろうか。

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4月1日(火)−自己欺瞞

 嘘を吐いても良い、という日に掛けての発表でもあるまいが、不正が取沙汰されている研究の、検証の結果が発表されるとある。結果は既に決まっている、と思う人も多いだろうが、噂や風評などと違い、確定させねばならない課題だけに、歯切れの悪い話になるかも知れない。いずれにしても、ある意味の決着を期待したい。
 そんな話題に注目が集まる中、別の騒動の話が、流されていた。国内の頂点に聳え立つ大学での、大規模な不正は、今話題となっているものと比べ、研究そのものへの注目が、さほど大きくなかった為か、当時、小さく扱われただけだった。その真偽を検証する手続きも、対象の数が多いこともあり、二年という長い期間を経ての、中間発表という鈍い動きとなった。渦中の人は、自ら退くことで、始末を付けたようだが、研究の先頭に立ち、不正を実行したとされる人々は、その成果によって手に入れた地位に、しがみついているとされた。その中の一人に関して、新たな職位に移った後の、発表論文での不正が確かめられたとの検証結果が出され、それを受けての辞職に対し、懲戒処分が検討されているとある。大規模は、まだ他にも居ることを示す訳だが、それぞれに、どのような処分が下されるかは、まだ話題にされていない。研究は、個人による成果であるだけに、如何に大規模でも、全てが同じ責任とはならないようだ。だが、こんなことが繰り返されれば、研究への信頼は失墜し、憧れは消し飛ぶだろう。その中で、研究者としての倫理を問題とする声が高まり、監督官庁が、職業倫理の教育を、大学に課そうとする話まで伝わる。でも、と思うのは、何度か書いたように思うが、倫理とは、まず、人間として、のものがあることで、これらの話も全て、専門職として、ではなく、人として、が問われるべきことではないか。となれば、不正を働いた人々は、人格さえも否定されかねない、という立場に追い込まれても、仕方ないように思える。

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3月31日(月)−共通

 常識とは何か、などということを論ずる人が居るとは、正直思わなかった。しかし、社会学の世界では、その正体が何なのか、を真面目に議論するようだ。今読んでいる本は、そんなことを紹介するものだが、当然のことを当然と思わぬ、所謂常識人が抱える問題が対象のようで、今更、といった感覚を抱きながらの読書のようだ。
 common senseとか、common knowledgeと呼ばれるものが、こちらで言う所の常識となる。共通という表現が鍵であり、ある集団の中で共通に保持される感覚や知識が、常識と扱われることとなる。そのまま受け入れられそうな気もするが、小さな枠組みで区切られていた時代と違い、全てが簡単な仕組みで繋がる関係となった現代では、「共通」のもつ意味が大きく変貌したように映る。適用範囲を拡大すれば、相容れない考えが増え、共通の感覚を保つことが難しくなる。それでも、互いに繋がる中では、ある程度の共通性は保てるとの意見もあるが、それはそれで、繋がった関係の中に留まるしかない。広がる一方と思えたものが、様々な制限に縛られ、小さな括りにはめ込められる。矛盾の中に、更なる矛盾を包含する形に、扱いは難しくなるばかりだが、この状況を、著者は解説しようとしているのかも知れない。だが、根本の考え方に間違いがあるように見えてしまう。違いを無くすことこそが目指す所、との考えに引き摺られる国際化の考え方において、同時に違いを受け入れてしまえば、矛盾が生じるのは当然となる。それに気付かぬ人々を、説得しようとの著作だが、そんな人を納得させて、どんな意味があるのかと思える。常識に縛られぬ人間、が持て囃された時代もあったが、今は、そんな例外ばかりでは、成立しないとの考えが定着しつつある。常識が成立するの中で、多様性を保つ手立てが、必要なのではないか。

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