パンチの独り言

(2014年4月7日〜4月13日)
(猫の目、地力、異民族、夢の跡、馴化、動揺、場違い)



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4月13日(日)−場違い

 議論下手、何度この言葉に接しただろう。主張が理解されず、受け入れなかった経験や、言い負かされて、不利な条件を呑まされた経験を、持つ人が多く、その原因は、議論の巧拙にあるとされた。だが、その真の原因は見つからず、主張を整えても、想定議論を組み立てても、劣勢を回復する特効薬は、処方できなかった。
 だから、今でも、同じことが繰り返される。議論下手の言葉は、何度も使われ、その指摘に、嫌気が差すことも多い。その人々への朗報ではないかも知れないが、少なくとも、即座の対応が要求されないことは、苦手意識の高い人にも、何かできそうな気がしたのではないか。議論の場は、会議場に限られていた筈だが、今や、仮想空間にその場が移され、同時性が失われた結果、熟慮の末の意見交換が可能となった。従来の議論を苦手とした人々も、相手の表情を見ずに、時間をかけての反論ができれば、何とか自らの地位を保つことができる。これが歓迎の理由だろうが、依然として、現実の場では、巧くいかないようだ。同じ状況とは思わないが、最近の話題である、論文の不正や捏造についても、よく似た状況があるように見える。つまり、綿密な調査を行い、事実関係を明らかにすることで、単に、文章や図、写真に現れた、表面的な論理の整合性だけを相手にするのではなく、そこに使われたものの真贋を問うことで、更に深い議論が可能となった、とするものだ。一見、歓迎すべきものに見えるが、こんな手続きをせねばならぬ状態に、疑問を抱かぬ風潮には、警戒感を抱く。元々、捏造や偽造という行為の大本にある心理は、真理追究には馴染まぬものであり、それを前提とする作業は、受け入れるべきものではない。にも拘らず、これが当然との風潮が出てくることには、抵抗を覚える人も多いのではないか。これと同じように、論文の形での議論より、仮想空間での議論が、さも有用であるかのように見る向きも、歪曲の果てのように見えるが、どうだろう。

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4月12日(土)−動揺

 転がり落ち始めた勢いは、どうにも止まらない。高尚な話題の筈が、始めの部分での戦術の誤りにより、地に堕ちたと言われる程に、下世話な話題に終始し、既に、その世界の人々は、興味を失うだけでなく、余りの際物ぶりに、例外との扱いを始めている。その一方で、教育環境の責任としたい人々は、無意味な改革に手をつけたようだ。
 この一連の騒ぎにおいて、例の如く、それを振り回し続けている人々の、無責任な言動は、依然として無軌道ぶりを発揮しているが、彼らの過ちが、多くの人の心を傷つけたことに、気付くことは無さそうだ。持ち上げ、振り落とす、という得意技に、これまでも、痛めつけられた人は、数え切れぬ程に居るのだが、今回の罪は、利に走り、欲に眩むとは言え、これから歩み始めようとしていた人々の、心を揺さぶり続け、癒えぬ傷を刻んだらしい。それでも、気を確かに持てる人々は、理不尽な扱いにも、馬鹿げた狂騒にも、何とか耐えようとしている。自らの進路を決めようとする、まさにその瞬間に、今から思えば、雑音としか見えない騒ぎが、彼らの元に届いた。それに惑わされること無く、予定通りの決断を下した人も居るが、確固たる決意無しに、迷いに弄ばれていた人の多くは、持て囃されていた偶像に、自らの姿を重ね合わせていたのかも知れない。次は自分の番、とは思い込みが過ぎるものの、そんな夢を描くことは、何も悪いことではない。しかし、出願期間に届いた知らせに揺さぶられ、進路を決めた人々は、折角手に入れた好機に、喜んだのも束の間、合格を勝ち取った直後に、築き上げられた成果が、脆くも崩れるとの報に接した。被害や不安を訴える風潮からすれば、ここでも騒ぎの責任を問う声が届いても良い筈だが、肝心の伝達者は、まさにその人々なのだから、始末に負えない。

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4月11日(金)−馴化

 新しい環境に移った人も、そろそろ慣れてきた頃だろうか。実は、いったん落ち着いたものが、再び、不安を抱き始める時期がある。それが五月頃に出てくることから、そんな名前が付けられている病気があるが、人それぞれに、症状も原因も異なっているようだ。いずれにしても、慣れた頃に要注意、と言われているらしい。
 何も感じない人にとって、病いに落ち込んでいく人の感覚は、結局、理解できないもののようだ。見知らぬ人々に対し、慣れ始めることによって、何かしらの反応を返した結果、更に、それに対する反応が戻ってくると、人それぞれに、相手を吟味したり、自分の反応を反省したり、理解に苦しんだりと、様々な反応を示す。そこで、疑問があるのなら、問い質してみれば良いのに、と思うのは、ほんの一握りの人で、まだ親しくない人に対して、何でも聞いてみる、という行動は難しいようだ。でも、その機会を逃したことで、折角の出会いを帳消しにし、互いに距離を置く結果になってしまっては、新しい環境に適応できたことにはならないだろう。そんなことが、そろそろ起き始める時期に入っている。不安を抱いて、新たな環境に入ってきた人も、その感覚が徐々に薄れ、良い方に動く人と、悪い方に向かってしまう人に、分かれてくる。不安が現実になったと思う人も居るだろうが、そうなったのは、殆どが自らの反応が原因なのではないか。余り、過剰に反応することは、避けるべきとは思うけれど、だからといって、自分の考えに沈んでしまっては、浮かび上がることは難しくなる。これもまた、過剰反応の一つであり、それを克服してこそ、適応できる。人と人との関係では、自分一人で解決できることは、非常に少ないだけに、話してみることも必要だろう。

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4月10日(木)−夢の跡

 期待していたとか、苦しめないでとか、それぞれに、発言する本人は、いたって真面目に考えている、と思っているようだ。しかし、何を期待したかと問えば、始めの騒ぎの時の、過剰な盛り上がりに乗せた、過大評価についてであり、苦しみを産んだ原因が、何処にあるかを見定めない、所謂感情的な反応に過ぎない。
 人の気持ちの交換であれば、こんなことは日常的に起きているだろうし、それぞれに大切な問題となる。だが、科学に関する話となれば、そこで感情が優先される筈も無く、一見、冷ややかに思える程の、論理性のみが通用するのではないか。既に、多くの人々の関心は、別の所へ移っており、今の騒ぎは、その中でのことだけに、科学を論じているような印象を、与える作為には、呆れるしかない。だが、この事態を招いたのは、何度書いても通じないのかも知れないが、大々的な発表を決定した組織の、馬鹿騒ぎを誘発させた広報の姿勢だったのであり、それに、まんまと乗せられた、理解力の全くない、報道機関の無能ぶりも、呆れるのを通り越している感がある。但し、その後の騒ぎの連鎖を見ると、やはり、最大の責任は、組織の広報手法にあると思える。科学への理解を捨て去り、偶像を提示することで、感情に訴えた内容に、始めから、違和感を抱いた人は多かったが、それに乗せられた人々は、今でも、騒ぎに首を突っ込んでいる。これでは、情報に惑わされず、自ら判断する、という姿勢は、達成できる状況には無いと思える。言葉に惑わされる人々は、何度も本人の弁明を繰り返すが、裏付けの有無を議論さえしないのでは、言いたい放題にしかならない。何処かの政治家の発言でも、同じ事が繰り返されるが、日常との近さからか、批判の矢は収まらない。ところが、遠い世界の研究では、何が何やら、さっぱり判らないのではないか。別に、科学の世界が高尚だとは思わないが、まるで、そんな風に眺めているように感じられる。今回の騒ぎは、高い所にあったものを、地に落とした結果、皆が群がっただけのことで、実際の世界は、まだ上の方に留まっている。餌に群がる獣のような人々に、反応を示す必要はなく、早々に扉を閉めるべきではないか。

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4月9日(水)−異民族

 国の存在を当然と思う人にとって、あの混乱はどう映るのか。民族の対立、という言葉が踊る紙面を読んでも、民族や宗教の違いによる紛争を、長い間経験したことの無い国の人々には、理解が及ばないのではないか。それに比べて、どちらに与するか、の問題は、意外な程簡単に片付けられる。自らの利害を考えるだけだからだろう。
 それにしても、国がくっついたり離れたり、だけでなく、その中の部分が、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、という遣り取りを眺めていると、利害の優先が、単純なものではなく、入り組んだ中で、更なる問題を産み出していることが、徐々に判ってくる。絶対的な大国として、聳え立つ姿を誇示していた時代には、こんな混乱が起こるとは思えず、更に、たとえ、混乱が起きたとしても、国内問題と片付けていた。尤も、過激な時代には、同じ主義主張を押し通す為に、隣国にまで押し掛ける始末に、深い傷を残した。今や、隣国となった国が、進むべき方向について、迷走を繰り返す中で、内政干渉とも受け取れる動きを続けているのは、あの暴挙を思い起こさせている。では、この先はどう展開するのか。誰にも答えは見えない。国自体の混乱が、民族や宗教紛争に繋がり、内戦と呼ばれる混乱へと結びついた国は、長かった独裁政治への不満が、独裁者の死去をきっかけに、噴出した為だったが、騒ぎが収まった後で、店の中に掲げられた彼の写真を、侮蔑を込めた目で見つめる人には、まだ不満が残っている印象があった。今の混乱は、それとは大きく異なる背景によるものだから、同じに見ることはできないが、こちらの理解を超えた論理に、どんな解決が導き出されるか、待つしか無いように思う。国内の混乱という意味では、あの隣国もまだまだ片付いておらず、こちらの隣国も、様々に隠蔽されても、隠し切れない混乱がある。これも民族の違いによるもので、理解は難しいようだ。

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4月8日(火)−地力

 何かが足りない、と思われているからこその、教育改革なのだろうが、さて、何が足らないのだろう。答えは、見えていないようだ。だからこそ、次々に繰り出される提案が、悉く的外れとなり、犠牲者は絶えることが無い。こうすれば、ああすれば、という思いつきも、いつまで続くのか、と思えるが、こちらも涸れることは無いようだ。
 足りないものを補い、より良い人材を育成する、との目標が、間違っているとは思わないが、これほど、成果が表に現れないことも珍しい。一部には、功を奏した例も見られるようだが、何がきっかけとなったかも判らず、次の提案を促すことには、繋がらないようだ。この問題を、改めて眺めてみると、前から取り上げている、傾向と対策の限界を見る思いが過る。問題点の整理から、その解決を目指すのは、あらゆる事柄に通用する手立てと思われているが、実際には、うまくいかないことの方が多い。ところが、改革を推進しようとする人々は、小さな割合のものを殊更に取り上げ、さも、それが有効な手段かのように扱う。その結果、いつまでも、傾向と対策にしがみつくこととなっている。これでは、限界を鮮明にさせ、そこに近寄らぬ手立てを、若者たちに与えていることにしかならない。彼らに、機会を与えることこそが、重要であるとの意見も多いが、それがうまく伝わっていないことが、その原因なのではないか。傾向とは、目の前の問題を表し、それに挑む手立てを与えることは、直近の課題を解決する為に、必要なものであることは確かだが、それで満足した人々は、達成感だけを手に入れ、次の課題に挑む力も意欲も失っている。地力の問題が、取り上げられ始めたのも、付け焼き刃で、長続きしない人々への、失望から来たものだろうが、「地力」とは何か、を問う気配は、見えてこない。問題解決では足らぬものとは何か。課題発見に必要なものは何か。何にでも通用する能力とは何か。そんな問いを、改めてする時期が来ているのではないか。

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4月7日(月)−猫の目

 冷や水を掛けたい訳ではないが、何故、こんなことばかりを繰り返すのか、それが疑問なのだ。改革、改革と、掛け声はいつも大きくなるが、実際には、大した効果も無く、多くは、逆効果だけが残る。そんなことの繰り返しに、誰も文句をつけないのは、何故なのか。金が絡むから、との答えが、的確だろうか。
 悪い点があるから、それを改めねばならない、という考え方が、改革派の拠り所となっている。まず、そこに問題があるのではないか、と思う人も居るだろう。従来のやり方の中核をなしてきた人々にとって、欠陥ばかりが取り上げられ、良い部分に目が向けられないことは、まるで、全てを否定されたかのように感じられる。だが、改革派にとっては、まずは改革ありき、から始まるだけに、否定は重要な手段なのだ。それにしても、これだけ失敗を繰り返した歴史の後にも、未だに、この手法が好まれるのは、何故なのか。そこに、金、所謂予算が、絡むからだろう。一部変更には、僅かな資金しか充てられないが、全面変更には、より大きな予算が要求できる。そんな理由を書いてしまうと、改革派の目論見が、如何に下らぬものか、という気がしてくるが、これまでの失敗から見れば、そんな総括が的確に思えてくる。金を抜きにして、より良いものを作ることはできないのか、と聞かれれば、そんなことは無い、と答える人が殆どだろうが、現実には、話題を集める為もあり、大きな予算を備えることが、必要条件となり、隠れた改革は、見えないものとされる。教育改革も、遂に最高学府にまで及んだ、との報道にも、予算措置を絡めたものが目立つが、そこでの方針を眺めると、道具を与えることが優先され、知識ばかりへの偏重が強く、知恵を育む体制整備は顧みられない。評価の対象となる為には、数値化できねばならないし、将来の成長を可能にする、地力の養成には、評価が馴染まぬ事情もある。だからといって、即席ばかりを追いかけては、初等中等教育での失敗を、高等教育が繰り返すだけにしかならない。

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