パンチの独り言

(2014年4月14日〜4月20日)
(廃屋、過信、醜聞、戯言、春眠、俯瞰的、非常識)



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4月20日(日)−非常識

 一瞬耳を疑った。耳や目を疑わねばならない日が続くこの頃だが、常識とは違うことが届くからで、それを発する人々には、何の異常も感じられなかったのだろう。共通という要素が、常識においては必須のものとなるが、そう考えると、例外があるからには、常識の一言では片付けられぬ、根深い事情がありそうだ。
 何をおかしいと感じたのか。話題は給食についてであり、米飯中心の献立に移行した、ある地方都市の事情が説明されていた。自身の経験からは、当時米飯は家庭のものであり、学校で出されるものは、小麦を中心とした、パン、麺類が主食となっていた。米離れが著しくなり、家庭でさえも、洋食と呼ばれる米飯を必要としない献立が、中心となるに従い、米の消費は減少を続ける。その中で、米所の一つでもある地域では、親より子供を標的に、米の良さを伝えようと、給食の改革が行われた。そのこと自体に疑問を挟むものではないが、和食となった給食に、不要なものがあるとの話題に、おやと思ったのだ。他国に支配された時代に始まった学校給食では、当然の如く、小麦中心の洋食風のものが主体となり、そこに牛乳が添えられたのは当たり前だったのだろう。当時を知る人々からは、脱脂粉乳なる不思議な飲み物の思い出が、度々聞かされるが、今は全く違うものが供されている。その存在が、和食にそぐわないとの意見は、判ったような判らないような話だが、そこに添えられていたのが、おそらく真の理由と思えるもので、単価が一人50円であり、給食費を圧迫するとのことだった。給食費の値上げを避ける為の措置との説明だが、その単価に、伝える側は何の疑問も抱かなかったのか。大量の消費が約束される状況で、1リットルなら半分近くの単価に相当する価格設定に、競争入札の意味は何処にあるのか。市販のものと同じ価格設定が、非常識と思わぬ感覚に、耳を疑った訳だ。この話、常識とは言えぬ代物だろうか。

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4月19日(土)−俯瞰的

 全体を俯瞰することの大切さは、様々な機会に取り上げられるが、それは、一方的な言論が世に溢れているからだろうか。そんなことを考えるのは、多様性が強調される一方で、著しい偏りが目立つことが、多い為でもある。自らの主張を通すことが、第一義となり、それに拘った結果なのだろうが、それにしても酷くないか。
 多様な見方を受け入れる、という掛け声は、如何にも重要なものと受け取られるが、実際には、そんなことをする人は少ない。殆ど居ないからこそ、こんな呼びかけが必要な訳で、この状況は、好転する兆しさえ見えない。井戸端のように、局地的な集まりが常だった時代にも、その間で飛び火する根も無い噂は、次々に情報が盛り込まれるが、その大部分は、始めに伝わったものと同じか、更に悪質と思える、偽物ばかりで、役に立たないばかりか、害悪を撒き散らすものとなる。その偏りは、伝達の過程を増やすに従い、強まることとなる。これが、人の口伝えに頼っていた時代なら、それなりの時間を必要としていたが、電磁的な処理を施されると、瞬間で不特定多数の目に届くこととなり、偏向は著しくなるばかりとなる。そんな時代になったからこそ、更に、俯瞰の必要性は強まる訳だが、人間の心は、そんなものを受け入れる状況には無い。自分の好きなことを好きなように、という勝手気侭な心は、全体を見渡す必要を認めず、好みに従った情報処理を繰り返し、偏りの強まりに、何の危機感も抱かない。自らの被害が強まれば、また違った状況にもなろうが、それは、ごく少数の人々の問題にしかならず、勝手な人々の集団に広がる筈も無い。何処から変えるべきなのか、それとも、変わる筈は無いと、諦めるべきか。

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4月18日(金)−春眠

 眠りに関する悩みを抱える人が多いようだ。人の見ていない時間に、どんなことが起きているのか、たとえ悩んでいても、中々相談し難いもののようで、そのまま放っておくことも多い。だが、それが、別の形で発覚すると、自分だけの問題ではなく、別の問題を生じることとなる。手遅れになってはいけないのだろう。
 会議中の居眠りは、この国の特徴として、外国の人々から、様々に指摘されてきた。船を漕ぐ位なら、大目に見てもらえるが、騒音を発するとなると、隣の人に突かれることになりかねない。鼾は、体型にもよるとの話だが、喉の奥の振動が音に繋がるだけに、時に、驚く程大きなものとなる。当人は、気を失っているようなものであり、当然のことながら、自らの轟音とて気付くことは無い。昔は、皆から笑われるくらいで、大目に見てもらえることも多かったが、今は、病気の一つと見なされる。夜の眠りの問題が、昼の居眠りに繋がるとの話は、単に疲れがたまっているとの見方から、睡眠中に呼吸が停止する病気との見解へと、移っていった。眠りが浅いとか、よく眠れないとの悩みが、実は病気であったとは、受け入れ難いものであり、特に、寝ている最中の具合に関しては、自分では分からないだけに、診断されても、別の苦しみを抱えるだけとなる。だが、昼日中の会議や会合で、船を漕ぐだけでなく、鼾をかき始めるとなると、周囲への迷惑より、本人の能力の問題が問題となる。病気であれば仕方ない、との判断から、こんな方向を定めたのだろうが、それにしても、本人の悩みは、簡単には消し去れない。とは言え、会議中の居眠りならば、本人だけの問題だろうが、運転中のものは、見過ごせないものだ。治療が功を奏するのなら、早く始めるべきだろうし、また、治療中には、そういう業務から離れることも必要だ。快眠を貪る人には、理解できない事情だろうが。

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4月17日(木)−戯言

 自省とか自責とか、そんな言葉が並ぶのに、何故だか、そんな気持ちが伝わってこない。書き物を生業とした人のものなのに、どうしてなのかと思ったが、現実には、自らの反省を込める一方で、他人の批判を並べているのだから、仕方がないのだろう。他人の振り見て、と言われることの逆で、自分の話が、実は批判だけなのだから。
 書くことを商売とする人の一部には、批判だけを繰り返してきた人が居る。ある業界には、特にその割合が多いのだが、あの事故以来、この手の人々が、挙って自責の念とか、自省を書き込むことがある。実際には、普段の報道と同じように、裏を取ることを忘れ、一つの情報源に張り付いた、後から見れば、著しく偏った話を、横並びで流し続けてきただけだが、ここでも、横並びが維持され、まるで、正反対の論調こそが、絶対的に正しい道かの如く、振る舞っている。だが、多様な見方のうちの一つに過ぎないものを、絶対的な存在と紹介する立場は、今更反省や責任を取沙汰しても、何も変わらないだけではないか。情報を正確に伝達する役目、と自らの役割を考えているようだが、一面だけを捉える態度では、間違いが繰り返されるだけだろう。分かり易さは、断言することで導けると信じる向きもあるが、あらゆる事象において、始めから一つの結論しかないことは、殆どあり得ない。それが判らないからこそ、あの立場に居続けることができた訳で、今更自省や自責を並べても、無意味と言うべきではないか。更に、後進の為に、などと書くようでは、責任感の欠如は明白で、相手にする必要も無い。こんな態度が許されるのは、不安の文字が踊るだけで、何もしない人々が溢れる時代だからこそで、一線を退いてもなお、戯れ言が並べられるくらい、平和なのだろう。

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4月16日(水)−醜聞

 判り易くする、という目的は、如何にも重要なもののように思われている。これは、教育制度の賜物であり、誰もが必ず理解できるようにする、との目的を設定し、それに向けて努力しようとしたものだ。だが、現実はどうだろうか。判らないことが余りにも多く、それ自体を問題としない見方を、徐々に身に付けてきたのではないか。
 一人一人は、そんなことを理解している筈なのに、社会全体として、判り易く、が目的となるのは、何故だろう。おそらく、伝達者の目論見が、そこにあるのではないか。恐怖に駆られた時に、何が危険なのかを知らせようと、躍起になったことも、伝達者の責任と思われたが、現実には、判り易いことだけに印象が強まり、肝心な情報は、忘れ去られることとなった。これが分かり易さを目的とすることの弊害、と言ってしまえば、その通りなのだと思う。だが、当事者たちは、依然として、その思いを投げ出しては居ない。歴史の中での説明責任を、果たして来なかったことを、反省の材料として掲げ、単なる伝達ではなく、批判を含めた形での報道を心がけるべき、との掛け声が、多くの現場を退いた人々から、かけられている。だが、最近の科学報道を見ても、下世話な話に終始し、分かる部分のみを膨張させるやり方は、全く変化していない。結局、分からせることを第一とすることで、無知な人々を操る手法では、こうなることは致し方ないのではないか。解説は、確かに分からせる為にあるのだが、全ての人に、との条件は、達成できないものとなる。それに縛られた結果、別の話題へと転換させ、難しい話を棚に上げることで、人間や金銭の関係に落とし込む。こんなことを繰り返しても、伝達能力を向上させることはできず、不確かな話を裏付けも無く流し続ける、無責任な態度だけが強まる。こんな連中には、聞く耳を持たぬ、という態度しか、無いのではないか。

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4月15日(火)−過信

 信念を持つことの大切さを、説く人は多いが、明らかな間違いを、信じ続けることに対しては、どうだろうか。信念の重要性の一方で、考えを改める柔軟性が強調される。一見、矛盾する考え方のように見えるが、自らの経験を顧みれば、そんなことが多かったと気付くのではないか。どちらか一方では、潰れていただろうから。
 自分の考えを信じることは、始めの段階では当然のことと思われる。これが無ければ、先に進むことはできず、立ち止まったままとなるからだ。ただ、当初の考えは、必ずしも正しい訳ではなく、動く為に必要な要素を含むものの、様々な問題も抱えていることが多い。だからこそ、修正を施すことが必要となるが、これを苦手とする人も多い。誰とも話さず、意見交換の無い状況であれば、自分の中だけの問題だが、議論を繰り返す状況にある場合、批判に晒されたり、厳しい指摘を受けることさえある。そんな環境で、修正を苦手とする人の多くは、頑に持論を維持し続け、時に、自己矛盾に陥ることさえある。そんな経験を何度かすると、流石に無理は禁物と気づく筈だが、そうならない人も居るようだ。矛盾に気付く力があっても、それを修正する為の力が無いと、やはりどうにもならない。これらの力の均衡が、生きる為に必要との教えは、小さな頃から受けてきた筈だが、最近の傾向は、均衡のとれていない人が増えていることだろうか。様々な形で、独自性が優先されてきたことから、人との違いばかりが強調され、ある意味の協調性の欠如が目立つ。とんでもない話が通用するように見える風潮には、そんな時代背景が関係しているのではないか。その一方で、自らの考えを持てず、同調のみで暮らす人も多い。彼らの一部は、とんでもない話に与することで、自らの存在を意識するようだが、これもまた、困った話の一つとなる。均衡の重要性を蔑ろにしたからか。

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4月14日(月)−廃屋

 空き家の問題は、どの位深刻なのだろう。ある北の町では、これから増え続け、二割がそうなるとの試算が出た。政治家たちも、そろそろ本気で考えるようになったのか、特に、選挙地盤での問題は、放置できない事情があるにせよ、どんな対策を講じることができるのか、判らない中では、難しさばかりが目立つ。
 対策を講じる準備はできている、と報道されても、持ち主の不在から始まる問題は、簡単には片付きそうにも無い。ここまで深刻化したものを、どう解きほぐすのかは、どう見ても容易ではない。所有者の権利を保護し続けてきたことで、手つかずの状態が長く続き過ぎ、結果的に、本人を捜すことさえ難しくなった。この原因の一つに、跡取り問題があることも明らかだが、重い相続税に、特に、都心では所有権を放棄するでも無く、何も決まらぬままの放置が、唯一の選択肢となった場合も多い。だが、地方都市でも、同じようなことが起きている点から、単に、納税の問題だけでなく、所有権の譲渡自体に、滞りがあったことが窺える。住むあても無いものを、受け継ぐ気はないとの態度に、売買が可能であれば、問題解決も容易だったのだろうが、地方の凋落は、あらゆる可能性を無くす方へと働いた。自治体による対策も、後手に回ることばかりで、結局は、放置するしか無かった、と言われる。だが、なるべく高い金額で、と望む跡取りと、そんな価値は無い、とする買い手の間で、交渉は成立しない。ここでも、相続の問題は大きく立ちはだかり、重い税金に悩む人々は、放置を選んだのではないか。だが、ここまで問題が大きくなると、改めて、解決の方法があったのでは、との思いが過る。再開発こそが、自治体の選択であり、それを推進していれば、と思っても、もう遅い。実は、政府を頼らぬ、海の向こうの国では、大学が周辺整備の為と称して、空き家を買い取るそうだ。先手を打つ、という考えからすれば、こんな方針を立てるのも、重要な選択となる。

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