言論の自由が保障されていることに、今更ながらに気付かされることが、度々起きる。言動統制がしかれていた時代に生まれた人々は、その後の変遷に巻き込まれてきたとは言え、実は、時代の波に乗り、好き放題に過ごしてきたのではないか、と思える。この手の人々は、既に一線を退いた筈だが、そう簡単には退席しないようだ。
その後の世代を築く人々は、団塊と呼ばれ、圧倒的多数を構成することから、時代の趨勢を舵とる世代と、一部では言われているようだが、現実には、船を漕ぐ人々でしか無く、舵取りは、すぐ上の世代が為したとも言われる。数に頼み、様々な力を行使した時代の変遷の中で、多数の人々の陰に隠れ、目立たぬように振る舞った人たちは、蒙昧な人々を味方につけて、権力を手に入れてきた。一度手にした力を、簡単には手放したくない人たちは、後を追ってくる人々を、様々な画策を弄して蹴落とし、自らの地位を保ち続けてきたのだろう。その際に重要となるのは言論であり、独特の論理を展開することで、敵を粉砕し、味方を組み入れてきた。場当たり的な論理に過ぎないものも、甘言に乗せられ易い人々は、その欠陥を見過ごすだけでなく、恰も優れたものの如く受け取る。信頼という文字が踊り、期待が膨らんできたが、現実はどうなったのか。今を見れば判るように、彼らの論理に与した結果は、悲惨なものとなり、一度萎んだ期待は、再び膨らむことが無いように思わされる。だが、これも、彼らの勝手な論理によるものと言ったら、言い過ぎだろうか。もう騙されないぞ、と思う人は、まだまだ少なく、好転は期待できないが、どうだろう。老害とも言える発言は、相変わらずのものだが、例のリケジョの問題にも、マナーとマターの問題を持ち出す。本質を見抜けぬのは、実力だろうが、いやはや、口先だけの論理も、ここまで来れば自己崩壊だろう。
道端の花の姿に、ホッとすることがある。春本番となり、色とりどりの花々が、咲き乱れる季節となってきたが、名も知らぬ花が増える一方で、昔懐かしいものも顔を出す。それぞれの庭で、お気に入りの花が咲くことに、家主は満足を感じるのだろうが、外から垣間みるだけの散歩人にも、おこぼれはいただけそうだ。
次々に登場する新しい花に、どれを選ぼうかと迷うことも多い。新しいものを好むのも、他人の庭とは違った景色を、楽しみたいと思う心があるからなのだろうが、その一方で、昔から続く花々を、大切に育てる人も居る。チューリップは、その意味では、昔からあるものだが、品種改良が続けられ、花の色も形も、新しいものが続々登場する。探してみると、花の種類としては、昔から好まれ続けてきたものが多いけれど、その姿は、服を着替えるように変わってきた。昔の姿を懐かしんだのは、矢車草であり、少しずつ新しい色が登場してきたものの、その姿は大きく変えられず、庭だけでなく、荒れ地とも思える場所に咲く姿に、つい目を向けてしまう。半世紀程前には、大流行が訪れ、町の至る所に咲いていた。飽き易い人の心を表すように、流行は下火となり、他の花々に地位を奪われたのだろうか、すっかり姿を消したこともあった。その姿を十年程前に見かけた時、すぐに名前が浮かんだのは、子供の頃の印象が深かったからだろうか。鬱蒼と繁る場所では、気分が褪せてしまうが、他の植物と混じって咲く場所では、健気な姿に目を奪われる。車の中からでは、細かな花の形を見る暇も無いが、矢車という名前から想像できるように、矢が刺さったような形を思い出すことができる。色とりどりになったことは、品種改良の賜物なのだろうが、昔のままの色が残ったことは、懐かしむ心を落ち着かせる。
皆が繋がることにより、情報や意思の疎通が豊かになったと思っているのではないか。確かに、毎日のように流される話は、以前なら、触れられることなど無く、蚊帳の外に追いやられていたものばかりで、それに接することができる喜びに、浸る人の多くはそんな感覚だろう。だが、ガセネタも含め、下らぬものばかりを喜ぶことに、意味は無い。
有識者と呼ばれる人々も、こんな世相を反映してか、肝心の知識を失い、ただ騒ぎに参加するだけになっている。同じ人間が、知識や知恵を捨て去り、品格を失ったのかは定かではなく、単に、今時のやり方に合致した人々が、先住者を押し退けて登場しただけかも知れない。それにしても、話題となるものの中身には、受け取る必要の無いものが多く、こんなことばかりが流されている世界に、存在意義は感じられない。議論の場が提供され、そこで沸騰する内容に、提供者は、意義を感じているのだろうが、沸騰は事実としても、その質が問われることは無い。見識の無い人々が、身勝手な主張をする場が、議論として紹介されるとなると、異常を感じてしまう。議論は結論を導く為のものだろうが、ただ、一方的な主張の繰り返しが、議論と受け取る人々には、結論は不要なものと映る。この類いの人々は、昔から存在していて、毒にも薬にもならぬ話し合いを途絶えさせないことで、自らの存在を誇示し、時に、それによって収入を得ていた。評論家の多くは、その末裔とも思えるが、彼らの存在が霞む程、今の時代は、その類いの人々があの世界に溢れている。それも、収入の為でなく、単なる暇つぶしとも思えるのだから、理解に苦しむのも仕方ないか。こんな人々が、これほどの数、社会に存在することに、憂いを覚える人も居るだろうが、これこそが、豊かさの象徴とばかり、歓迎する人も居るだろう。いずれにしても、そんな議論に巻き込まれぬことが、賢明に思える。
男女に差が無い、と主張している訳ではない。にも拘らず、何か無理筋の論理を通そうとしているように、感じられる。差別的な扱いが、強く感じられてきたことへの、反発が目立つ為か、女性に機会を与えようと、様々な方策が講じられ、優先的な扱いさえも、罷り通るようになる。これは、一種の差別では、と思える。何故なのだろうか。
環境整備には、不利な条件を少なくする目的があり、それが格差を無くすことに繋がれば、との思いがある。内容によるとは言え、総体としては、反対する声も少ない。だが、それでは即効性が見込めぬ、とばかりに、女性限定の試みを、押し通す動きが盛んになっている。こちらは、これまでの男性主体の組織への、強い反発の結果であるだけに、反対の声は上げ難い状況にある。だから、正当な主張かと問われれば、多くは、首を縦に振らないのではないか。見えない形での差別を排除する為に、見える形の差別を導入するのは、何とも不思議なやり方だろう。それでも、こんな暴挙が罷り通るのは、社会全体に蔓延る、権利主張の風潮によるものだろう。各自の権利ばかりが掲げられ、それを満足する為の方策を講じる。今の世の中は、こんなことに無駄な力を使っている。社会進出を促す為との方便が使われ、税制上の優遇措置と、悪者扱いされた控除も、当初の導入の理由は、顧みることさえ無い。一方的な言論が許される、歪み切った時代には、批判の声さえ起きないから、したい放題となるのも、致し方ないのだろうか。何かしらの強制力が、新たな動きに繋がるとの確信には、実は、殆ど根拠がないと思われる。先進国の中でも、この辺りの動態には、所変われば、といった感がある。この国も、そんな中で、独自の路線を歩んできた。旧態依然は悪く見られるが、何が良いのかを模索する中で、解の一つであることは確かだろう。
医療の世界が荒れているように見える。製薬業界との癒着は、無い筈がないものと受け取られてきたものの、現実に突きつけられると、その悪影響に批判が強まる。追い打ちとも思える話は、様々な検査値の基準の見直しであり、緩和が意味する所は、売薬の促進があったとされる訳だから、健康重視という言葉が吹き飛んでしまう。
元々、平均の意味するものが、何なのか、不明確な点が多い。その割に、腹囲測定などのように、それが恰も厳密な基準のように扱われると、個人差の問題は、と呟きたくなる。だが、疫学の分野では、これがまさに全てであり、調査の結果を重視することは、当然の成り行きとなる。そんなことを強く主張する書籍には、確かに、この国が抱える医療現場での問題を、批判する姿勢が見えるのだが、それに付随して語られる怪しい話には、狂気さえ感じられることから、こんなものが、長い歴史を誇る「新書」として出回ることに、違和感を禁じ得ない。ただ、この出版社の最近の動向には、同じように長い歴史を誇る文字通りの科学雑誌の編集方針を見れば判るように、偏向の強まりが感じられる。不信を抱かれたことに対する、過剰反応の一つだろうが、それにしても、このまま戻れなくなるかも知れないとの見通しを、誰も口にしなかったのか、と呆れる程なのだ。医療現場の荒廃は、特に投薬との絡みから、精神医療に目立つことは確かだが、これとて、書物として世に出るものの多くが、俯瞰的な見解は微塵もなく、一方的な見方を、さも正当かのように主張する内容ばかりで、ただ捨てられるゴミというより、それによる環境への悪影響を思い浮かべる程の状況にある。ここでも、製薬業界との癒着を、批判の的にする傾向が強いが、その代替への言及が核心に到達しない状況では、結局、言い放つだけの状態に留まる。真面目に業務に取り組む関係者からしたら、騒ぎを起こすだけの仲間の著作は、迷惑千万ということだろう。真の目的は何か、考える気がない人に、言いたい放題の機会を与えるのは、出版業界の凋落につれ、目立ち始めたことなのか。
教則本と言われたものが、カタカナ表現に変わると、マニュアル本となるのだろうか。機会ある度に、そんなものに縋る人々が、世に溢れているからこそ、そんなものが人気を博すのだろう。だが、依存体質の人を除けば、そんな本の中身は、判り切ったことばかりで、毒にも薬にもならぬ代物、となるのではないだろうか。
人間は、物心がついた頃から、真似を繰り返しながら、成長する。その意味では、教則は身の回りにあり、それを眺め、真似することで、様々な能力を身に付けていく。それを、改めて本に縋るとなるのは、何故だと訝る向きもあるだろう。成長期には、言葉の使い方や考え方を、人の真似をすることで、身に付けていくことができるが、成人となり、大人の仲間入りをすると、模倣の対象を見出すことが難しくなる。皆が同じようにする基本的な能力であれば、人による違いは殆ど目立たないが、多様な能力が期待される、大人の世界では、違いが大きい為に、目移りが起きてしまうのだろう。となると、世間から注目される話や、出世したとされる人々の話に、目を向けるのが安易な道に違いない。そこで、教則本に手を伸ばす訳だが、その多くは、やるべきことが列挙されている割に、やってみても効果が出ないことが多い。ノウハウなどと表現されるものの違い、と言ってしまえばそれまでだろうが、何をするかが肝心なのは当然だが、どうやるかも重要であることが、伝えられていないことが、一番の要因では無いだろうか。書かれた通りにやってみたのに、何も起きなかった、との感想が寄せられても、どうやったのかが肝心との返事に、戸惑う人も多い。真似とは、ただ表面的なものを繰り返す、と思ってきた人々に、何かを考えながら、と伝えても、理解し難いのだろう。伝える側の問題としても良いのだが、やはり、準備ができていない人には、どんな助言も役立たずということではないか。
景気が確実に回復している、との声もあるが、それを示す指標は、それぞれに異なる様相を呈しているようだ。一気に回復、とは行かないまでも、徐々にその兆しが見え始め、確実性を高めつつある、というのが、現時点での評価として妥当なのかも知れない。景気回復に乗じた増税が、どんな変化を与えるかは、まだ見えないが。
景気回復の重要な効果の一つに、雇用の好転があり、社会に飛び出そうとする人々にとっては、特に気になるものだろう。不景気では、首を切ることはできても、新たに人を雇い入れることはできない、という考え方は、当然のように受け取られるが、実際には、短期展望と長期展望で、全く異なる見方がある。短期的には、新たな展開も見込めず、縮小傾向にある以上、人員整理が、安易との批判があるものの、最善の策のように見える。だが、長期的に眺めると、ある世代を欠いた陣容では、人員配置を含めて、後々問題を生じる可能性を残し、一時の回避策が、厳しい状態を招くこともあり得る。必要に応じて、柔軟な対策を練るべき、との考えも、度々取り上げられるが、現場の反応は、柔軟の意味が別の形で伝わることとなり、やってみると難しさが見えてくるもののようだ。中途採用というやり方は、人員の補充と、能力への期待から、多くの企業が実施してきたものだが、既存の人員を補充するという意味ならば、大した問題を生じないが、ぽっかりと開いた世代の穴を埋める為となると、難しさを伴う場合も出てくる。世代交代において、重要となるのは、次の世代が準備万端整えられているかどうかであり、今が駄目になったから次へ、といった安易なやり方では、状況打開は望めなくなる。その際に、次が外人部隊からなるということは、時に全体への問題に繋がることとなる。まだ兆しだけだからと、新規採用を見送る所もあるようだが、それが孕む危険性にも、目を向けておく必要がある。