占領下に、他国の人々が作ったものを、受け入れざるを得なかったから、ということなのだろうか。改正を求める声は、常にこの国に在ったとある。だが、生まれた時には、既にそこに在り、それを当然と育った世代の人間にとって、占領も他国も、大した意味を持たない。自分のものと思いつつ育ったからだ。
あの世代が大半を占めていた時代には、自他の区別は重要であり、押し付けられた感情は失せることが無かった。だが、あれ以降に生まれ、育った世代が大半を占めるようになり、また、国を動かす力を得てくると、押しつけの問題は薄れ、別の問題を提起する人々が、登場するようになる。そこで議論は沸騰しているように見せられるが、果たして、どの程度のものなのだろう。確かに、紙面や画面には、その話題が溢れ、重要との見方が示される。しかし、その催しへの参加者は、ごくごく僅かなものであり、一握りにさえ満たない数しか無い。にも拘らず、これほど大きな扱いをするのは、何かしらの意図や思惑があるからで、政もそれを伝える人々も、そんなものを操っていることを、気にしていないのではないか。それより、国の行く末を案じる気持ちを、前に押し出すことで、自らの考えを正当化することに努める。だが、在ることを当然と育った人々に、果たして、この動きはどう映るのか。放棄することの意義を、強く学ばされ、その立ち位置の特殊性に、自国の存在意義さえも重ねて来たことに、特別な気持ちを抱かぬ人が居るだろうか。それとも、自分の生活にとって、この国の立場などは、全く関係なく、意識したことなどないのだろうか。いずれにしても、こういった人々にとって、改正の意味は見える筈も無く、その結果、何が起きるのか、等といったことに、思いを馳せることも無い。どちらが正しいか、等と論じることは無駄に違いなく、結果が見えることも無い。さて、どうしたものか。
科学を身近な存在に、という目的を、活字媒体は果たしているのか。携わる人々の主観は、様々にあるだろうが、客観的には、十分に果たしていない、と言うべきだろう。解説を施したり、魅力を解き明かしたりと、それぞれに努力は認められるものの、その多くは、誤解を招くだけに終わり、堅い頭に染み入るものは、殆ど無い。
それに比べ、最近の報道ぶりを眺めると、庶民の関心は、全く違う方に向いているように見える。素晴らしいとか、可哀想とか、感情に訴える話が主となり、内容の理解は蔑ろにされる。理解力の無い人々を相手に、積み重ねてきた努力は、結局無駄に終わったと言うしか無い状況では、痴話喧嘩にすり替えた方が、関心が集まるということだろう。だが、品格を失ってしまえば、二度と真面目な話に戻れないことに、気付かぬ言動には、本質を見失ったことだけが見える。本来の目的は、始めの印象に比べて、遥かに達成困難な状況にあることに、今更気付いても遅いのだろうが、それにしても、恥も外聞も無く、下らない話ばかりを並べるのに、辟易とする人も居るだろう。これは、単に、媒体に関わる人の責任だけとは思えない部分もある。有名な賞を受けた人々の言葉にも、批判が飛び交っていて、時に、鬼の首を取ったかの如くの記事も飛び出す。確かに、慌てて反論したり、謝罪したりと、忙しない対応を繰り返す姿には、人格者たる何かは、微塵も感じられず、研究者の未熟ぶりを、曝け出しているようにさえ見える。騒動の原因も、そういう人々が属する組織の、浅はかな提案にあり、その点は、もっと厳しく攻撃すべきと思うが、そのお陰で、難しい科学の話を、判り易い痴話喧嘩にして貰ったからか、一切触れない姿勢にも、活字媒体の劣悪さが現れている。情報の伝搬速度が増したことで、処理の遅い人間たちは慌てるだけで、的確な対応ができないようだ。
活字離れの話は、既に何度も取り上げているが、文字を媒体とした情報交換は、実際には、それ程衰退していないと言われる。次々に登場する新媒体に、新し物好きの人々が飛びつき、一時の流行を演出する。だが、新しいものへの興味は、衰えることが無いだけに、すぐに飽きてしまうこととなり、遂には忘れ去られる。
その中で、山谷の変化にも、何とか生き残ってきたものが、今の活字媒体なのだろう。ただ、それを読む人々の心境は、大きく変化した為に、嘗ての栄光は取り戻せない。新聞も、雑誌も、書籍も、全て自ら買う人の数が激減し、図書館へと足を運ぶ。公共性を追い求める政策に、目標を見失った存在は、そんな人々の受け皿となり、活字離れを防ぐ存在と見なされているが、産業への寄与は、逆に悪影響を及ぼすものとも言える。そんな混乱の中、肝心の作り手の状況は、悪化の一途を辿っており、新聞や雑誌は、下らぬ記事を満載させ、未確認の情報を平然と晒す。社会での、批評家としての存在意義は、薄れるばかりとなり、その矜持さえ失いつつある。一方、書籍に関しては、前者の二つとは違い、瞬間的な情報供給より、長い時間をかけての影響を主体とするだけに、更なる吟味が必要となる筈が、担当者の能力低下からか、投げ捨てにも似た出版が目立つばかりだ。以前、一風変わった出版方針で、一部に人気のあった出版社が、目を疑う程に、劣悪なものばかりを世に問い始めたことに、訝しむ視線を向けた読者もいたが、暫く後に潰れてしまった。今、その状況に似ていると思われるのは、老舗の一つであり、文庫や新書という手に入れ易い書籍を提供することで、活字への関心を庶民に拡げた存在だったが、不完全なものや著しく偏った内容のものを、平気で出版しているように見え、編集者だけの問題と、片付け難い状態にまで達しているように見える。このまま行くと、破綻なのかと思う人は、まだまだ少ないだろうが、どうなるのだろうか。
真っ暗な中で、遠くに鳴る警告音、何事かと思い、窓を開けて聞いてみたが、まるでカラオケのような残響効果で、一言も聞き取れないままに終わった。そういえば、何処かの警報が町内放送で流されたが、複数の拡声器が互いに響き合い、聞き取れない状況にあったとされた。今回のものは、一つだけのようだが。
以前ならば、そのまま不安な夜を過ごすしかなかっただろうが、今は、公共放送とは違う媒体がある。早速検索してみたら、どうも近くの川の上流にあるダムの放水が、行われているらしい。そういえば、いつになく川の流れの音が響いている。多分それかな、と思って、そのままにした。事実は結局明らかとはならないが、人の感情は不思議なもので、何かをきっかけとして、揺れていたものが落ち着き始める。噂に揺れ動く心についても、同じような経過を辿ることがあるが、内的な要因より、やはり外的なものの関わりの方が、強いようだ。考える糸口にしても、自分の中から出てくることもあるが、多くは、何かしら目にしたものや、耳にしたことによる。その為に、様々な関わりを保持することが肝心で、常に窓を開けておくことが必要なのだろう。だが、世の中には、あらゆることとの関わりを断ち、孤独に落ち込む人が居る。彼らがどんな生活を送っているのか、知る術も無いが、社会としては、そういう人々をも抱え込むこととなる。情報社会と言われてから久しいが、その一方で、こんな形で情報の遮断を決め、独自の道を歩む人も居る。自己責任の考えからすれば、何の問題も無いことなのだが、何かしらの問題が起きた途端に、騒ぎ立てる状況だけは、理解できそうにも無い。
子供たちは成長するに従い、興味の範囲を徐々に広げていく。興味の広がりを、叱ってはいけないと言われるが、次々と飛び出す疑問の矢の数に、辟易とする時期もあるものだ。ところが、今のやり方は、一見褒めているように見せて、その実、強い制限をかけていることに、現場の人々も気付いていないらしい。
ゆとりの時代に、学ぶべき範囲を緩める動きが強まり、到達点はかなり下げられた、と言われた。これにより、達成感を得ることが容易となり、人々の学ぶ意欲は高まるとの思惑は、全く当てが外れてしまい、悲惨とも言える負の遺産を残した。簡単に手に入る達成感に、努力を忘れた人々は、即席の成果に飛びつき、落ち着きを失った。成長期に身に付いた習慣は、簡単には変えられない。その状況を打破しようと、頑張った人の多くは、達成できない状況さえ受け入れられず、敗北感に苛まれることとなる。こういう感覚は、簡単に変えられるように思われるが、当事者にとっては、立ちはだかる高い壁にしか見えない。教育の効果は、より良い方向へのものばかりに注目が集まるが、実際には、こんな事例から判るように、負の効果の方が強く出る傾向にある。好きになった科目より、嫌いになった科目の数の方が多いことや、先生に対する好悪も、それと似た状況にある。一方、教師になりたい理由には、世話になった人の存在がある、との反論もあるだろう。だが、これも、大多数の中の一握りに過ぎないのではないか。興味の広がりが、何処かで妨げられた結果でもないだろうが、国の中のことなどの基本的な知識に欠ける人が、増えているような気がするのは、何故だろう。その一方で、隣国での事故に、異常な程の執着を見せるのは、マスコミの愚かさの結果とは言え、それに振り回されるかどうかは、各人の勝手だろう。均衡の悪さを経ても、知識が豊かになれば、良しとすべきだろうが、今の所、そんな結果は出ていないように見える。
生き物を機械に見立てて理解する。そんな考え方は、4世紀程前から始まったと言われる。仕組みを考える時に、自分たちが作ったものと比較し、共通点を並べ、相違点を導き出す。そんな手法は、科学の進歩と相俟って、理解を進めてきた。だが、謎の多くは、何処かに埋もれたままで、掘り出されるのはまだ先のようだ。
未知のものが埋もれたままの中で、別の側面から真理に近づこうとする人も居る。人間が作った機械は、思惑通りの動作をすることで、人の役に立つ。それに対して、人間の多くは、指導者の命令通りに動く面がある一方、時に、全く違う行動をしてしまう。ヒトに限らず、様々な動植物は、それぞれに意志をもち、型通りの動きとは違うことを、時にしでかす。こんな面に注目すると、機械に見立てることの問題が見えるようで、そちらの立場の人々は、全く違った視点から、その真理を探ろうとするのだ。どちらがより優れているのか、現時点で判断することはできない。多様な見方を適用することで、それぞれ単独では見抜けぬものを、見出そうとするのであれば、異なることは歓迎すべきことだろう。だが、異分子を排除しようとする心は、多くの人々の中にあり、それが一種の勢力争いへと繋がる。一見、正当な競争のように見えるものも、そこに蠢く怪しい動きからすれば、不当な扱いや虐待に似たものへと結びつく。正統派でない人々への視線は、時に厳しいものになるが、その一方で、温かく見守るのとは少し違うが、ある意味、無視し続けることも大切になるのではないか。不遇な扱いを受けたとしても、それが弾圧にさえならねば、何とか生き延びることもできる。好きとか嫌いとか、機械には無く、生き物にしかない感情も、こんな考えの発端となる。しかし、まさにその点が災いして、他人の活動を抑え込む動きが出てくるのだから、何とも皮肉なものだろう。
人の手を入れて、自然をそれなりの形に保つ。里山と言われる、自然と人間の融合は、この国独自のものらしく、人の手が優先され、その結果として、荒廃を招いた経験を持つ国の人々は、今、挙ってそこから学ぼうとしている。西と東の違いとして、この話を纏める訳に行かないのは、隣国の愚行が目立つ為だろうか。
成功を収めたかに見える姿も、危うさを孕んでいるように映る。長年保たれてきた姿も、一部の人の判断で、手の入れようを変化させることで、簡単に均衡が崩れる。崩れて気付かされるのは、均衡がぎりぎりの状態で保たれていたことで、状況判断の誤りが、それをいとも容易く崩す。先人たちの努力が、如何程のものだったかは、その時になって気付くのだろうが、時既に遅しの感となる。そんなことが度々起きた国では、そこからの回復に、気が遠くなる程の時間がかかり、場所によっては、昔の姿を取り戻しつつある所もある。成長期に、傲慢な人が増えるのは、古今東西、何処でもいつでも起きることだろうが、反省を感じないのも、常だろう。何しろ、自分の命がある内の、利得のみを追い求めた結果であり、その後に思いを馳せなければ、反省する種など、出てくる筈も無いからだ。こんなことを感じたのは、近くにある「自然園」と名付けられた場所を訪れた時で、そこは、昔からあった雑木林に手を入れ、人が訪れ易い環境を整備したものだった。林の樹々は適当に伐採され、光を採り入れられた場所には、下草が茂る代わりに、何処からか運び入れた草花が咲き誇っていた。山歩きの楽しさを、こういう場所で満喫しようとする人の気持ちは、理解し難いものだろうが、入園料を取っているからこそ、こんな整備が優先されるのだろう。草花を楽しむ心は、人々にとって大切なのだが、人工的な雰囲気の漂う中では、里山とは全く違う世界が展開していた。