パンチの独り言

(2014年5月5日〜5月11日)
(成長、情けに報いる、血より濃い、借金取り、援助、人付き合い、やる気)



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5月11日(日)−やる気

 貧しい時代には、憧れの的だったものが、豊かな時代になると、当たり前のものとなる。当然となり、その状況が進むと、それに手をつけるかは、別の要因によることとなる。時に、付加価値と呼ばれるものになることもあり、必ずしも試みる必要は無いが、何かを有利にする為には、といった思いが抱かれるものとなる。
 そのような展開は、対象に目を向ける人々の心情の変化だから、仕方の無いものと受け取られるが、果たしてその通りなのだろうか。利害を優先し、やるべきことを決めるという態度には、やる気や意欲といった心の動きは、殆ど関わることがない。子供の将来を考え、様々に環境を整えるのは、親の務めの一つと言われるが、そこにあるのは、実は押しつけでしかなく、子供たちの望みが叶えられることは少ない。それでも、その流れに身を任せ、結果的に、生業へと移行させる人も少なくないだろうから、こんな親の導きは、子供の気持ちを汲まぬ、非情なものと見る訳にもいかないだろう。ただ、それでも、やる気や意欲の有る無しに関しては、その後の展開への影響が大きいと見るべきではないか。最近の傾向は、そんな方に向かっているようで、機会を捉えた子供たちが、やらされているという雰囲気を強め、折角の経験を活かせなくなっているように見える。周囲からの配慮は、そんな形で潰えてしまい、徒労に終わることとなる。それでも、豊かさを手に入れた人々は、別の機会を、当然のように手に入れることができる。ただ、子供たちの意欲は、別の要因から来るものだろうから、また、無駄を繰り返すだけのようだ。ここで一つ気がつかされることは、やらされているという感覚が、実は、人によってかなり違うことだろう。というのも、言葉としては同じように表されても、その人の将来の姿から振り返ると、全く違ったものであったことが判るからだ。ただ、資質の有無によるとしたら、簡単な話なのかも知れない。

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5月10日(土)−人付き合い

 人の出会いは、何とも不思議なものではないか。今の自分がこう在るのは、との思いを馳せると、数人の顔が浮かぶ人が多いと思う。自分の力で、今を築き上げたと自負する人も、たまに居るけれど、そんな人々でも、何かしらの影響を受けているに違いない。ただ、それを認めたくないとの思いが強いだけなのだろう。
 自分の今、に関して、気になる人の顔が浮かぶ一方、成長段階ではなく、一つの頂きに到達した後も、出会いは続く。それも、それまでの比較的狭い関係ではなく、ある程度の地位に就いたからこその関係が頭を出し、予想外の広がりを持ち始めることもある。発散状態が続くことで、収拾がつかなくなる人も居るだろうが、少しずつ慣れることで、徐々に取捨選択を繰り返す。こんな経過を振り返ると、人間は確かに社会を形成する生き物なのだと思えてくる。その中で、どう振る舞うかが肝心なのだが、戸惑いを覚える人は、失敗を繰り返し、付き合いに嫌気がさしてくる。確かに、最初の出会いで、相手を選択することは難しいが、その後の展開で、人を選ぶことはできる。それを躊躇することで、失敗を繰り返す人々は、評価を下されることを恐れ、それを他人に当てはめることも避ける。だが、人と人の関係などというものは、常に良い状態に保てる筈の無いものだろう。気の合う人ばかりでも困るだろうが、どうにも合わない人と付き合うのも辛い。そこでは、無理に気付き、それを通さぬ判断が必要となる。本当に意味のあるものなら、一度くらい離れても、また結びつく機会が得られるものだ。焦らず騒がず、始めは来るものは拒まずの心得で、次には、感覚的なもので構わぬから、選んでみれば良いのだと思う。

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5月9日(金)−援助

 優しい社会、魅力的な言葉と思う人が多いと思う。だが、現状を見渡すと、危うさばかりが目立ち始め、時には、破滅への道を想起させられる。実際に、弱者に注目が集まる中では、保護を目的とする「優しさ」に、期待する声が取り上げられるけれども、その後の展開に目を向ける話は出てこない。触れてはならぬもののように。
 弱者を特別扱いできるのは、社会が豊かになった証拠とする考え方があるが、それは、一つの頂点を極めた結果であり、その後に落ち込みが始まるとの見方もある。下落が始まれば、他への援助は打ち切られ、厳しさが際立ち始めるのだろう。そんな展開は、想像に難くはないと思うが、多くの人は、束の間の誘惑に浸ることを優先するようだ。実は、優しい社会の構造は、場当たり的な措置によって、作り上げられたものであり、長期に渡る荷重に耐えられるようには、作られていない。だからこそ、今を楽しむ必要があるとの見方も、破綻が近づくに従って、大きく変化し始める。弱者は切り捨てられ、競争が強まる訳だが、そんな変化を見通す体制は、作り上げられていないようだ。例えば、集団での行動が難しい、とされる人々に対しても、均等な機会を授けようと、様々な支援の仕組みが施される。それでも、個で動ける時期が来れば、問題は解消される、とでも見込んでいるのだろうが、現実は、それ程に甘くはない。社会が構成されている中では、集団の意味は厳然と在り、それを抜きにすることは、不可能な場合が少なくない。豊かだからこそ、その為の機会も産み出せるとする人々も、波の上下に翻弄されれば、ひとたまりも無い。弱者に強いることは、様々に禁じられているが、果たして、この種の人々を、弱者と見るべきかは、未だに判然としないものではないか。

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5月8日(木)−借金取り

 人気俳優が登場し、如何に容易く借金ができるかを紹介する。銀行の業務の一つだったものに、それのみを業務とする企業を吸収したからか、これほど強調される時代が来るとは思わなかった。だが、預けても、機会あるごとに手数料を剥ぎ取られ、何の利益も得られぬ中で、金貸しの甘い誘いに乗る人が居るのだろうか。
 肝心な時に、何の救済の手も差し伸べない。そんな冷たい存在として、暴利を貪ってきた企業は、上昇の勢いが弾け飛んだ後で、総じて厳しい状況に陥った。金貸業は、庶民の財布が寂しいからこそ、活躍の場を得ていたが、過剰な暴利が指摘され、それを前提とする経営に行き詰まった。そこに手を差し出したのが、同じように厳しい状況にあるものの、本体の大きさから、何とか姿を保っていた銀行であり、法律で定められた範囲内での利率を設定して、営業の拡大を企てた。だが、破産に向かう道を走り続ける人の数は、簡単には減らず、依然として、問題を抱える人はかなりの数に上る。要するに、返すあても無く借りる人にとって、上乗せされる利子の多寡は問題ではなく、膨らみ続けるのは当然の帰結に過ぎないから、こんな広告を流せば、誘いに乗る人が増えるのは当たり前だ。そんな事情からだろうが、次に来る儲け話は、彼らの救済となるようだ。様々な媒体を使って流される広告の中に、この手の救済話が織り込まれる。弁護士にしろ、司法書士にしろ、本来の業務は別の所にあるのではないか。だが、景気の影響は、こんな所にも及ぶようで、救済にそぐわぬ話にさえ、飛びつく人々が出ている。困っている人を相手にした、こんな連鎖は、実は、閉じた環のようなもので、参加者は一部に過ぎない。こんなことに手を出さねばならぬ程の窮状なのか、手を広げ過ぎた反動か。

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5月7日(水)−血より濃い

 授かり物が、いつの間にか、努力次第で手に入るようになる。それは昔から、との意見もあるだろうが、自らの努力で足らぬ部分を、医学の進歩で補うようになり、状況は一変したのではないか。自らの分身が手に入る、との話に魅力を感じれば、金をつぎ込み、生活を犠牲にしてでも、と思う人が出るのもやむを得ないか。
 だが、天からの授かり物と言われた時代、跡取りが得られなかった時には、養子という形で、縁戚の子供や知り合いの子供を引き取り、自分たちの子として育てていた。血縁を守ることより、家を守ることが第一だった時代であり、それを達成する唯一の道と見られていたからだ。そこに医学の進歩がもたらされ、自然の営みでは無理と思われたものに、達成できる技術を提供し始めた。これにより、子をもうけることに対する、人々の考え方は大きく変化し、無理と諦めるより、あらゆる可能性にかける人が増えた。このことを批判するのは、憚られることのようで、子を得た喜びに、応援や歓迎を送る人が、圧倒的に多いように思う。だが、ヒトとて動物の一種に過ぎない。自然に逆らう形で、様々な施術を行うことは、後々に歪みを強める作用がある。特に、生殖に関するものは、たとえ喜びに迎えられたとしても、一代に限るものではなく、続く代全てに影響するものだけに、種の存続を考えると、簡単に認めることに抵抗を覚える。偶々、こんな事態に陥った不幸を、取り除く為の救いの手に過ぎない、との意見も、そこに在る必然を考えると、安易な救済に、危うさを感じてしまうのだ。問題の深さは、まだ余り感じられていないようだが、それでも、養子縁組の動きが、少しずつ勢いを取り戻しつつあるという話には、安心を感じる。家を守る考えは、古臭いものだが、血縁に拘ることも、古びてくるのかも知れない。

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5月6日(火)−情けに報いる

 事実を伝えることの大切さが、理解され難い時代なのではないか。身勝手な情報伝達が、身近な存在と評価されたり、何度騙されても、変わらない依存する体質とか、冷たい事実より、温かな嘘を歓迎するのは、感情ばかりを重要視する風潮によるものかも知れない。その結果、誤った方に向かうとしたら、止めることは難しい。
 感情を優先する考え方は、如何にも寄り添ったもののように受け取られるが、現実には、思い通りに動かす為の手段に過ぎず、洗脳の一種と見るべきではないか。論理的に見れば、明らかに破綻する見方も、感情を第一とすれば、全く違った姿を見せられる。感情にとって、学習はさほど役立たず、その場の気紛れを頼りとするだけに、経験が効果を上げることは無い。それに比べ、論理を中心とする考え方では、経験を積み重ね、それらを分析した上で、判断を下すだけに、問題が起きることは少ない。ところが、未曾有と表現されたように、未経験なものに対して、弱点を曝け出すと批判され、論理性の欠陥のように扱われた。確かに、経験に基づき、大したことは無いとの判断を下した人が、居たことは事実だが、その一方で、未経験の事象に対して、用心を怠らなかった人が多かったことも事実だろう。同じ経験と論理に基づくように見え、結果が正反対になったように見えるのは、実は、判断の段階での違いであり、論理性の欠陥との見方は、誤りと言うべきだろう。こんな言葉が、感情重視の人々に、すぐに通じるとは思えないが、だからと言って、何もしないことが良い訳ではない。事実を伝えない媒体を、排除し、壊滅させる為の手段は、様々に実行できる筈だからこそ、感情に振り回されず、冷たい事実を流す体制を作るべきで、それを受け入れられる知恵を身につけさせねば。

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5月5日(月)−成長

 いつまでも子供のままでは居られない。元服等という儀式は無くなったものの、大人と子供の区別は社会の中に、厳然と存在する。だが、その端境で、様々な出来事が起きるらしい。進学率の上昇に従い、大人への一段と進学が重なる人が増え、自立への道程は、以前より厳しくなったとも思える。可愛い子には、となるか。
 進学を諦め、さっさと社会に飛び出すことが、ごく普通だった時代には、義務教育期間が明けると、新天地を求めて旅立つ子供が沢山居た。時代の変遷と共に、豊かさを手に入れた結果、その時期は徐々に先送りされ、遂には、成人となった後に、自立することとなる方が、多くなった。いつまでも親離れしない子供に、首を傾げるどころか、手元に置くことが当然と思う親も増え、依存の度合いは強まるばかりに見える。これでは、自立が見込めぬばかりか、社会への適応も難しくなるのでは、と心配する向きもあるが、手放したくない親にとっては、どこ吹く風といった所か。新生活の始まりが、良いきっかけになればとの思いも、早速騙されることが出てくると、大波にさらわれてしまうかも知れない。だが、ここで手を貸すことは、思いとどまるべきだろう。所詮、自分の判断で、相手の意図を見抜かねば、騙され続けることになるし、自立は遠離るだけとなる。新しい生活で、手に入れた新しい道具も、新しくできた友達も、時に、騙されるきっかけとなる。始めから拒否できるものでなくとも、二度と騙されなければ、生涯での障害は、それを端緒に避けることができる。失敗を恐れるだけではなく、そこから学ぶことを忘れては、結局、明るい未来を手に入れることができないのではないか。まあ、あの人々に、そんな戒めは、聞こえる筈も無く、刹那的な享楽に耽るだけなのは、よく解っていることだが。

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